先日のこと、富田に生まれ育ったNさんとIさんから昔日の富田についてお話を伺いました。
御大 お二人 写真掲載のお断りがしてないので お顔だけ隠させていただきました
その折に「ふるさと富田」の本をお借りしました。そこに掲載されていた特別寄稿『富田いろいろ 思い出すままに』(近藤香代さん)は、大正から昭和戦前にかけての富田の町のゆったりとした風情が書かれていました。
大正6年、一老女が生まれた富田の古き良き時代を、思い出すままに綴ってみます。
私、富田小学校の北側、今の中央通りと旧東海道との十字路あたりで産まれました。北は花の木川、旧道から堤防を上がり現在の四日市高校へ行く“お琴の橋”のすぐ上は、舟板を2,3枚並べて、近くの女たちの団らん所、洗濯場になっていて一日おしゃべりの絶えないうわさ話の交換所になっていました。
おことが住んでいたころの川端は裏通りで 芸妓置屋「喜月」から時折 三味の音が聞こえていた 現在の富田中央通り商店街 この先が近鉄富田駅になる(富田をさぐる より)
旧道をはさんで東に下ると“喜月”があり、日中は芸妓(げいぎ)の三味(しゃみ)の稽古(けいこ)が聞こえ、のんびりとした街でした。前は床屋、隣はうどん屋(東京庵)で、茶屋通りと呼ばれていました。
大正4年の御大典の折、父が造った「大鯛」の張りぼてが町中の話題になり、後に鯛の祭車を造るきっかけになりました。職人に仕事を任せて、自分は作業小屋通い。この小屋には飴売りが住んで居て、頭の上に半切を乗せ、太鼓を叩いて売り歩くのです。雨の日は、飴づくりと太鼓の稽古。朝から太鼓の音がするので、太鼓町と呼ばれていました。
鯛の祭車は、大正10年のお盆にやっと間に合い、町の人たちが張り切って引いていました。この年は、石取りも鯨船も良くなったと云われ大変な賑わいだったことを覚えています。
旧東海道が往還(おうかん)といわれていたその頃、物資は桑名から四日市へと流通していました。夜明けと共にシジミ蛤売り、朝日(伊勢朝日)から歯みがき砂売り、そして、朝明の水売りが毎日のように来て、飲み水を買いました。十時頃になると「パンパン あんパン」と、チリンチリン鈴を鳴らしながら板車にガラスケースを乗せたパン屋が来ました。やがて牛乳屋がガラス瓶をガチャガチャいわせながら箱の車でやってきます。午後になると川原町のマル五呉服店が、板車に荷物をつけて小僧に引かせ、番頭がついて売りに来ます。旧東海道は商いの道であり、毎日の生活に欠かせない道でした。 つづく