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花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

駅弁の旅 ③ 四日市駅編

2025年06月23日 | レモン色の町

四日市での販売は、湊寿司の丹羽さんのみでした。米食文化研究所さんのサイトでは、国鉄の場合、原則一駅一店舗の駅弁の販売を許可していたとありました。

駅弁物語 駅弁物語 | お弁当コラム | 弁当ライブラリー | Plenus 米食文化研究所

湊寿司さん 30銭

昭和11年3月から5月まで、千歳町埋立地で開催の“国産振興大博覧会”を記念して販売された湊寿司さんの弁当です。金30銭はやや高級であったと想像できますが“会場内の鉄道案内所をご利用ください”の注意書きから、四日市駅構内で買い求め、会場内へ持ち込んで食べる人が多かったと思われます。

湊寿司さん20銭

四日市駅構内の“湊寿司”さんは、戦後どうなったでしょうか?

昭和27年開催の“講和記念博覧会”の折に出された四日市旅館案内を見ると国鉄四日市駅前(37番の位置)にミナト屋(電話1973番)があります。ここが戦前の湊寿司(電話917番)でしょうか?電話も悩ましい番号です。

追記:たいじゅさんからコメントをいただき、昭和43年のゼンリンマップを見ますと、みなと寿司さんは蔵町で営業しておみえで(マップ右)、みなと旅館さん(マップ左)はまた別の寿司屋さんではなく、旅館でした。

湊寿司さん 20銭

昭和に入ると不況の色が出始め、昭和15年頃から戦時色が強くなり(10月大政翼賛会結成)、駅弁のパッケージにも反映されるようになります。駅弁は移動する兵士に給されることが多かったようで、パッケージからは、大陸で戦う兵士を応援します!のメッセージが込められていて“おいしさ”は何も伝わってきません。

Webサイトより 復刻弁当

売り子さんの音声が入ったサイトです。

駅のホームに立ち売りがいたあの頃(S55.8): 昭和の記憶と復活蒸機

パッケージばかりではなく、中身が見たいとググってみました。

松浦商店 復刻弁当 松浦商店 復刻弁当 – 駅弁ぐるめ – 駅弁ポータルサイト –

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時空を超えて 駅弁の旅 ②

2025年06月22日 | レモン色の町

前回ご紹介した“ハム鮨”でなくて、東海道線神奈川県の大船軒さん謹製の“ハム辨当”。少し高めの50銭。洋食なるものが珍しい時代でしたから大正から昭和初期に販売されていたのでしょうか?中身が知りたいところです。

明治期になって入ってきたハムは、昭和初期の頃まで高級食材でした。札幌駅構内で販売の“純道(北海道)産 ハムライス”は、札幌駅のみやこ屋さんの販売です。注意書きがあります。折箱や空き瓶 空き缶は外に投げずに腰掛の下にお置きください。本品の内容、売り子の言葉づかい態度等に於いて お気付きの点は鉄道係員にご申告下さい。とは?厳しいお仕置きが待っていたのでしょうか?

横浜の崎揚軒(きようけん)のシュウマイは有名ですが、これは“ヤキメシ”弁当です。現在では“チャーハン”弁当になっています。ビタミン麺米製(代用食)とは時代を感じさせます。御注意:窓の外に空き瓶その他の物を投げられたため、人に怪我をさせ実例が少なくありませんから、御不用品は腰掛の下にお置きください。とあります。走る車窓からは、物がポンポン飛んでいたのでしょう。まさしく走る凶器でした。

昭和33年公開の松本清張原作 野村芳太郎監督『張込み』。質屋殺しの犯人を追って刑事たちは横浜から九州佐賀へ向かう。この作品の導入部、“ひろしま”では駅弁を買い求めるシーンがあります。「おーい、酒だ!」

“おごおり”では、二人の刑事と別れを告げ列車はホームを離れていく。この駅でも弁当売りの姿が見えます。

Bing 動画 「張込み」の冒頭部分がYouTubeでアップされておりました。

四日市駅(国鉄)では、港寿司さんがお弁当を販売してみえました。

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時空を超えて 駅弁の旅 ①

2025年06月21日 | レモン色の町

今でもデパートでは駅弁大会と称して各地の駅弁が並び大変な賑わいを見せています。小さい頃、家族で汽車旅行をした折にも、駅弁の思い出がよみがえります。停車時間中に会計を済ませるあわただしいときは、緊張が走りました。「明治 大正 昭和 駅弁ラベル大図鑑」より・・・

御殿場線の山北駅 20銭のお寿司弁当のラベルです。大正期でしょうか。車内でも販売していたようです。空箱は座席の下に入れるようにと注意書きがあります。

駅弁の価格も時代とともに変動しています。大正の初めには25銭だった上等弁当が30銭に、更に大正8年には40銭に値上げされましたが、大正末期から不況時代のまま世界恐慌に入ったため、11年には35銭、昭和5年になると30銭に値下げされました。あまりの変動に印刷が間に合わず価格がゴム印で押してあったそうです。

流線型の車体から、大陸を走っていたアジア号を連想しますが、昭和初期には山陽本線でこんな列車が走っていたのでしょうか。

岡山駅前の三好野本店さんは、現在でも健在です。昭和11年、ダイヤモンド社発行の『旅窓に学ぶ』には当時の駅弁の種類が紹介されていました。弁当・上弁当・並弁当・鮨・稲荷鮨・鯛鮨・ちらし・ハム鮨・サンドウイッチ・鯛飯・鰻丼・幕の内・お好み弁当 などです。ハム鮨って想像できません。

下総人様からコメントを頂戴しております。

2枚目の絵は広島駅となっていますが、機関車は南満州鉄道の特急亜細亜号の機関車パシナかパシハだと思われます。
3
枚目4枚目は国内のC53C55の流線型と思われます。C55の流線型は戦後普通型に改装され、関西線を走っていました。昭和3738年高校に通っていた私は、近鉄益生駅へ到着する頃、駅の横を並走する関西線を走る名古屋行上り列車といつも遭遇していました。驚くなかれ、その列車はC55の重連!そして機関車のナンバーから元流線型で戦後普通型に改装されたものであることが判りました。

コメントありがとうございました

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"あんぱん”より 厄除け詩集

2025年06月18日 | レモン色の町

前々回ご紹介の井伏鱒二著「厄除け詩集」の続編でアリマス

静夜思 <李白>

牀前看月光 寝床にさしこむ月の光をみて
疑是地上霜 (あまりにも明るいので)地上に降りた霜かと疑うほどだ
挙頭望山月 頭を挙げて山に出た月をながめていると
低頭思故郷 頭が次第に下がってきて、(気づくと)故郷のことを思っている

李白の詩を井伏鱒二氏はこのように訳しております

ネマノウチカラ フト氣ガツケバ

霜カトオモウ イイ月アカリ

ノキバノ月ヲ ミルニツケ

ザイショノコトガ 氣ニカカル

長安道 <儲光羲>

鳴鞭過酒肆   貴公子は乗馬の鞭を鳴らしつつ酒場に立ち寄り、

袨服遊倡門   あるいはきらびやかによそおって、妓楼(ぎろう)に遊ぶ。

百萬一時盡   そして百万の金を一度に使いはたすが、

含情無片言   思う女への慕情を胸中にたたえたまま、ただの一言も口に出すことはない

馬ニムチウチ サカヤヲスギテ

綾ヤ錦デ ジョロヤニアソブ

タッタイチヤニ センリョウステテ

カネヲツカッタ 顔モセヌ

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昭和めもりーズ グリコアーモンドチョコレイト♪

2025年06月15日 | レモン色の町

昭和30年発売のキャラメルの中にアーモンドのかけらが入った「アーモンドグリコ」でヒットを飛ばした江崎グリコは、東京タワーが完成した昭和33年2月に「グリコアーモンドチョコレート」を発売しました。これは革命的で、チョコレートのひと山になんと1個丸ごとアーモンドが入っているのです。お値段は、1列並んだ30円と2列の50円。お小遣いが10円だった時代、これは高度成長期にふさわしい高価なお菓子でした。

確かに入っているのか?アーモンドが現れるまで噛み砕くのを辛抱して口の中で溶かしたり、半分に割って中のアーモンドを確かめたり、それはもう大変でした。昭和37年「アーモンドチョコレート」は、ベルギーでのモンドセレクションで1位を獲得、メダルが印刷されたパッケージが登場しました。この頃が、アーモンド君にとっては、もっともよい時代であったと想像いたします。

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昭和めもりーズ 床屋さんに行くと

2025年06月11日 | レモン色の町

床屋さんに行くと、中学生と覚しき男の子が終わるところだった。主人が愛想よく送り出す。男の子は黙って金を払い、一言も口をきかずに出て行った。“本があって猫がいる”出久根達郎著より

見知らぬ人に話しかけられたら警戒せよ。と教えられて育った世代なのだろう。行きつけの床屋でも気を許さないのである。山歩きを趣味にしている人からも聞いた。山道ですれ違う際、挨拶をするのが山の礼儀というが、こちらが声をかけても無言の者が増えたらしい。その人は、個人商店の衰退と関係がありそうだ、と推測を述べた。話しかけられるのがいやだから、スーパーや自動販売機を利用する。個人商店は閑古鳥である。

私の住む町も次々に、なじみの店が消えていった。威勢の良い売り声が、いつの間にか無くなり、町はなんだか町の様でなくなった。物を売る店はあっても、売り声の響かぬ商いばかりである。客との対話がなくとも、成り立つ商売なのだ。現代人は人との無駄話をいやがるようになった。かくて言葉というものは、ますます貧困になり、減少していくだろう。

※ 映画「トキワ壮の青春」に使われていた曲「胸の振り子」意味不明の歌詞でした

胸の振子(霧島 昇)

胸の振り子/石原裕次郎

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昭和めもりーズ これって犯罪かエ?

2025年06月10日 | レモン色の町

戦後、貸本屋の時代から月刊誌の時代になる。月一度の発売日が楽しみだった。少年・少年倶楽部・ぼくら・冒険王・おもしろブック・少年画報・なかよし、それに小学1年生と発売日になると本屋の前には新刊雑誌が山積みされた。私は主に“少年”のファンだったが、付録を見ると他の本もつい欲しくなる。誘惑の気持ちを抑えきれず、おばさんの前であっちの付録を抜いてこっちの本に差し込んだ。本にお金を添えて差し出すと、おばさんはさっさと付録を元へ戻して紙袋に入れた。これって犯罪かエ?

出版界も抜け目がない。団塊の世代に合わせて「ボーイズライフ」という名の、中学生向きの雑誌を発売している(昭和38年~44年)。エッチさには程遠かったが、図解イラストや読み物が多く、チョッピリお兄さんになった気分だった。但し読み物はあまり読まなかった。

昭和38年」「ボーイズライフ」創刊号: まつざきあけみのブログ

漫画雑誌会に革命を起こしたのは、週刊誌「少年サンデー」と「少年マガジン」の発売である(昭和34年)。

少年サンデー創刊号 | 少年サンデー

発売日まで待ち遠しい1か月が1週間に短縮された。雑誌を上から見ると「週刊新潮」などの週刊誌と同じ二つ折りになって現在ほどの厚みがない。毎週の発売に、とてもじゃないけど小遣いがついていけなかった。

もう少し大人になると昭和39年には「平凡パンチ」や「週刊プレーボーイ」の発売となって、お色気度もカッコよさもアップするのであった。

「週刊プレーボーイ」の表紙をご記憶の方も多いでありましょう。なんと!女体で動物を形作っておるのであります。撮影現場は大変だったとお察し申しますが、意外と楽しかったりして・・・。意外と可愛くなかったりして・・・。

コメント (2)
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昭和めもりーズ おいしくてつよくなる

2025年06月09日 | レモン色の町

我が幼少のころ、10円のおまけつきグリコには、しっかりお世話になった。中身のキャラメルはとにかく魅力はオマケにあった。まず、オマケの箱を確認すると、中身のキャラメルを全部紙から剥いて、8粒程のキャラメルを一気に口へ入れた。

発売当時のグリコ おじさんの顔が怖いといわれた

江崎グリコの創業者である江崎利一は、薬種業の家に生まれた。大正11年に発売された“グリコ”は、利一の長男がチフスに罹り、牡蠣のエキスであるグリコーゲンを与えたところ快方に向かったことによる。当時は“おいしさ”だけでなく“滋養”とか“栄養”がお菓子の世界にも求められていた。

切手のオマケもあった

そして、森永製菓のミルクキャラメルに対抗するため、キャラメルの形を四角でなくハートに、箱を黄色でなく赤色にしてランナーがゴールする姿を入れた。キャッチコピーは“一粒300メートル”“おいしくてつよくなる”である。箱の横のこの文句を見るたびに「食えば食うほど元気になるんや!」と、虫歯だらけの歯で笑ってオリマシタ。

〇 漫画家のまつざきあけみさんは、昭和時代の漫画本をブログで公開してみえる。中身も掲載されているので当時に思いを馳せることができます。

昭和38年」「ボーイズライフ」創刊号: まつざきあけみのブログ

少年サンデー創刊号 | 少年サンデー

単行本・貸本: (3) まつざきあけみのブログ

 

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昭和めもりーズ 映画看板描き

2025年06月08日 | レモン色の町

Webより ジョン・ウェイン

映画が全盛期だった昭和20年代後半から30年代にかけて、四日市のどこかしこに映画館があり、私の住まい周辺でも、東映の諏訪劇場・洋画の三重劇場・東宝の弥生館・大蔵映画のぼたん劇場・四日市日活・四日市松竹(宝塚劇場)・東映二流館の四日市劇場・本町の四日市東宝・洋画二流館のロマン座があった。

三重劇場 蒙古の嵐!

当家の南壁面には映画の看板がずらりと並び、週末の夜には招待券で映画館へ入れた。映画館の正面入り口には大きな手描きの看板が揚げられていた。毎週のように変わる作品に、看板も取り換えられていった。それだけ繁盛していたことになるが、やがて映画の作品名、文字だけの看板になっていく。

弥生館 どぶろくの辰

江戸時代、役者絵が揚げられた芝居小屋は、やがて映画館へと移り、入口上の手描きの絵だけは残されていった。とある看板の絵描きさんを知っていたが、弥生館の看板を描かれておられたと聞いた。

商店街のイベントで映画を上映した記憶がある。『キングコング(1933年)』の看板を入口上に描いた。残念ながら観客は女の子一人だった。後に、『怒りの葡萄』や『七人の侍』などを描いたこともあった。原版にマス目を引き看板のマス目に拡大して描いた。

そういえば、祭りの縁日に香具師が拡大器なるものを売っていた。定規をつなげたようなもので、先に付けられた鉛筆で真ん中のプロマイドをなぞって動かしていくと倍増された絵が描けるというものだった。香具師のバックには何枚かの完成品が掲げられていた。買い求めて持ち帰ったが、うまく描き上げることはできなかった。

※ 面白い三枝さん!

三枝-12-赤トンボ-超おもろい

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昭和めもりーズ 正露丸は征露丸

2025年06月07日 | レモン色の町

我々昭和の年代の者であれば“正露丸”を一度は呑んだことがあるだろう。どこの家庭でも、メンソレータムと正露丸は常備薬だった。独特の匂いは忘れがたい。図書館からお借りした“町田忍の昭和遺産100”から。

富士薬品の正露丸

ルーツは明治に遡る。最近は、大幸薬品発売のラッパのマーク“正露丸”で知られている。発売された明治期は“征露丸”と表記され“ロシアを征する”意味合いの名前だった。明治36年 陸軍軍医の戸塚機知(みちとも)と白岩六郎が発明したクレオソート丸が始まりという。戦地ではペストや赤痢が蔓延、殺菌作用の強い胃腸薬が必要とされた。効果は抜群だった。しかし、兵士からは強い臭いに服用を嫌がられた。そこで幹部らは考え、缶の中に「陛下ノゴ希望ニヨリ」の一言を入れたら躊躇なく飲まれたという。

写真は、幕府の御典医であり明治期は政治家だった松本良順

戦後、このことを聞いたマッカーサーは、国民がいかに天皇を大切に思っているかを知り、昭和天皇と並んでいる写真を公表することで、統治をスムーズに進めたという。

戦後“征露丸”は“正露丸”と改名されたが、多くの製薬会社から発売されていたため商標権をめぐって裁判が起こされた。結果“正露丸”は普通名称となった。

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