花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

一枚の写真シーズン2 ⑧ 問題編

2025年01月25日 | レモン色の町

時代は随分古そう。サーカスが四日市に来た!キグレサーカスや木下サーカスは、お祭りのときになると、諏訪公園でも興行していた。入場券を払ってテントの中をぐるりと回っていくと、座布団を1枚いくらかで貸していた。嫌とは言えず追加料金を払う。これってインチキやね!と思いつつ・・・。この写真は何時の何処でしょう?

本日夕刻、滋賀県からおいでの若者が『きつねに騙された話を調べているが、昔の四日市にはないか?』と聞きにみえた。『酔っぱらった男が、きつねに騙されて気持ちよく入っていたお風呂が、朝になって気が付くと「肥溜め」だった』そんな話をしたら、若者は“肥溜め”を知らない。化学肥料が普及する以前は、畑のあちこちに肥溜めがあった昭和30年代以前。時代を感じました。

狸に騙された話「おふくさん 前編」

2024年3月20日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

狸に騙された話「おふくさん 後編」

2024年3月24日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街


一枚の写真シーズン2 ⑦ 回答編

2025年01月24日 | レモン色の町

写真は、辻写真館さん前、諏訪劇場北の辻を西へ進む比丘尼町の大名行列の様子です。昭和32年9月27日四日市祭りの日、大名行列が辻さん店舗前を通過しました。昔から続けられていた 四日市祭りの大名行列は、上りの久六町と下りの比丘尼町がありました。

久六町の大名行列は江戸への行列を模したもの。行列の最後に「頼朝さん」と称する馬上に乗った少年武者が加わった。片足を軸先にして、もう一方の足を前に大きく上げてから進む姿が比丘尼町とは異なった。足を前へ上げる姿で江戸へ早く行きたいという気持ちを表したという。昭和20年の戦災で焼失。

久六町の大名行列

比丘尼町の大名行列は、駕籠が加わり、傘飛ばしの芸が披露された。片方の膝を曲げて、もう一方の足を後ろへ上げてから前へ進む。足を後ろへ上げる形で、江戸に名残りが惜しいという気持ちを表したものであるという。四日市の大名行列は、昔の姿を良く伝えていると、当時から評判であり。名古屋や横浜など各地の催しなどに出かけることが多くあったという。前田賢治氏著“四日市祭”より

比丘尼町の大名行列

戦災による消失で、久六町の大名行列復興が叶わなかったと思われ、昭和38年5月新町名・住居表示が施行され比丘尼町と九六町の表示は姿を消すこととなります。

昭和13年


一枚の写真シーズン2 ⑦ 問題

2025年01月21日 | レモン色の町

問題。お祭りの日、比丘尼町の大名行列が通ります。ここは何処でしょう?

江戸期の四日市宿は、ご存じの通り幕府直轄の天領でした。が、江戸時代後期に一時、信楽代官所の出張陣屋になったことがありました。この期間にあたる天保5年宿場内で、桑名と尾張を巻き込む刃傷事件が勃発、負傷者4名、内1名が取り調べ中に死亡しています。さて、この事件に関して信楽代官所と幕府はどのような吟味取り調べを行ったのか、それが「四日市市史研究 創刊号」の「天保5年四日市宿 刃傷事件をめぐる幕藩領主の対応」として上野秀治氏が書かれた力作があります。以前ブログで、紹介させていただいたのですが、よろしければ再読ください。

1.四日市宿での刃傷事件 発端編

2023年2月3日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

2.四日市宿での刃傷事件 展開編

2023年2月6日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

3.四日市宿での刃傷事件 直前編

2023年2月7日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

4.四日市宿での刃傷事件 直前編2

2023年2月10日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

5.四日市宿での刃傷事件 惨劇の朝

2023年2月12日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

6.四日市宿での刃傷事件 お裁き下る

2023年2月13日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

7.四日市宿での刃傷事件 お裁き下る2

2023年2月15日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

8.四日市宿での刃傷事件 出納長編

2023年2月25日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

9.四日市宿での刃傷事件 最終章

2023年2月26日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街


一枚の写真シーズン2 ⑥ 回答

2025年01月20日 | レモン色の町

諏訪公園西の道沿いから北方面に存在していた赤線地帯“春告園”の夜の様子です。

水たまりに 春告園 のネオンサインが映る

諏訪公園の南には屋台が並んでいましたが、

諏訪公園南の屋台

そこを外れて公園の角に差し掛かると薄暗くなった西側には赤線地帯が広がっていました。撮影はその角あたりから北西に向かって撮られたものです。四日市にはこの他に“港楽園”が西方向に広がっていて、夜の歓楽街として賑わっていました。昭和31年5月24日売春禁止法が施行されると、諏訪公園西一帯は、飲み屋、スナックや連れ込み旅館に変貌しました。辻さんが撮られたのは、施行直前の昭和30年頃だと思われます。

名古屋タイムス新聞のカット

何度も掲載しておりますが、諏訪のまちの成り立ちが良く分かる記事ですので、再々再 掲載いたします。

“聖なる教会”真ン向かい 紅い燈ともる特飲街 そのまた隣が幼稚園(昭和28年 名古屋タイムスより)

〇 諏訪連鎖街を昔は新田町といった。戦前、諏訪神社の境内だった土地に諏訪産業という会社が軍隊の払い下げの建物で建売りを始めた(満州引き揚げ者の共同住宅を移築)のが戦争直後、ボツボツ人も入り住んだが、一日で二人の通行人しかなかった日もあって最初に店を開いた人は泣いたそうだ。これが一期生。それから順次二期生、三期生、四期生となるころは今のような盛り場が出来上がった。それ以後は新入生と称するそうだ。現在(昭和28年当時)七十六軒、周辺は商店で真ん中の小道はノミヤが多く、客も社用族が多い。ホセとカルメンは同じ資本のバー、白菊、文楽はよくはやるノミヤ、特徴はヨルバイト(買春・訂正 売春)をしないこと、だそうだ。街に立つ女もいないし、温泉マークも周辺にあるにはあるが青線的形態ではないらしい。その方の御用は専らこちらと港楽園、春告園という特飲街(赤線)がある。両方合わせて40軒、女を不当にサクシュするとかいうのでしばしば手入れをされたアブレ赤線業、行き詰まりの狭い路地のズラリと並んで、気の弱い男はとても近寄れない。ほかに諏訪公園前に待合という名の特飲店が数軒、その前にはカトリック教会があり図書館があり幼稚園があり、まことによき対照をなしている。すなわち図書館の窓から干し物が望まれたり、幼稚園の子供が区域へ迷い込んだり、しばしば問題が起こるゆえん、もともとカトリック教会があったのを無理に赤線が出来たものらしい(昭和30年頃までは教会と赤線が並立していた)。かつて、立ち退け、いや退かないでゴタゴタがあったそうだ。(文・川太郎、え・ワシズ泉夫)

K宅別邸跡地を 進駐軍が接収して 一時カトリック教会にしたものと思われ、下の写真では、昭和31年に整地されています。この空き地には その後 移動遊園地が来ていた記憶があります。ネオンがまぶしく夢のようでありました。

中日新聞による空撮

昭和31年当時


一枚の写真シーズン2 ⑤ 回答

2025年01月18日 | レモン色の町

答えは、三滝通りから市役所方向を撮られたものでした。

四日市今昔写真帖より

写真の説明では、昭和30年頃とありますが、三滝通りを近鉄電車が横断していたのは、昭和30年まで。その後、諏訪駅は廃止となります。下総人様のご指摘による、市役所向こう側の工事用のクレーンですが、昭和33年6月に津地方裁判所四日市支部庁舎が落成しています。時期としては合いそう・・・と思い現在の写真を撮ってまいりました。

ムムム・・・もう少し西かな? カメラがもっと前へ出た方が良いかな?

 


一枚の写真シーズン2 ④ 回答

2025年01月14日 | レモン色の町

いろいろと考えていただきました ありがとうございます

霞が浦海水浴場の入口門ではないでしょうか?とか・・・

四日市今昔写真帖より

昭和27年中央通りで開催された講和記念博覧会の会場には こんな建物はなかった?とか・・・

推理していただきましたが 最終判断の通り 昭和11年 千歳町の埋立地で開かれた 国産振興大博覧会会場の写真でした

満州館です

国防館とか

多くの方の印象に残った大仏さんが並び

この時代の世相をよく 反映しておりました

四日市湊物語⑪国産振興大博覧会 - 花の四日市スワマエ商店街

千歳橋と国産振興博覧会 - 花の四日市スワマエ商店街

四日市で空前絶後! - 花の四日市スワマエ商店街

昭和11年の90年前の出来事ですから 子どものころ見に行った記憶がある方も 本当に少なくなってしまいました 商工会議所の小菅さんに お話をうかがった記憶があります

 

 

 

 

 


一枚の写真シーズン2 ③ 答

2025年01月12日 | レモン色の町

正解は「第二尋常高等小学校」で、後の浜田小学校です。

四日市は“四日市宿”と南隣の“浜田村”から成り立っていました。四日市宿に第一尋常高等学校ができると、浜田村にも第二尋常高等学校が出来たのです。新田町も浜田村でしたので、私も浜田小学校へ通ったわけです。

ぶらり四日市 その二十二 浜田小学校校歌 - 花の四日市スワマエ商店街

浜田小学校 空撮! - 花の四日市スワマエ商店街

玉井兄弟と浜田小学校 - 花の四日市スワマエ商店街

下総人様からコメントを頂戴して 次の写真を思い出しました 浜田小学校の南東の位置に出来ました。

昭和40年 四日市今昔写真帖 より

昭和30年代 十七軒町に突然温泉が出たという特報が入りました そこの完成したお城が 四日市ヘルスセンター です 親父に連れてもらって出かけたり 商店街の宴会に利用したことがありました 天守閣には太鼓があって 叩かせていただきました 真ん中の少し大きなお風呂の他に 周りには小さいいろいろなお風呂がありました 演芸があったり 飲んだり食ったりできて 長島温泉のミニ版みたいだったデス 

平成16年 居酒屋おいしんぼうのところにありました

平成6年のマップから 十七軒町14番の角 おいしんぼうの場所にありました。平成になって生桑町へと移転され「ユラックス」から「湯守座」となっております。