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花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

昭和めもりーズ 三岐鉄道 富田駅 

2025年06月03日 | レモン色の町

昭和という時代が、遠のいていく。昭和をテーマに、思いつくまま書いてみたいとエラソウニ思った。が、早速鉄道の壁にあたった。鉄道は生き物。過去の産物であっても動き続けておりました。

三岐鉄道

さて、“年表 四日市のあゆみ”を覗いていたら、「昭和3年9月 三岐鉄道(株)が、高砂町に設立」とあった。昭和天皇御大典の昭和3年。四日市市―関ヶ原町間の鉄道敷設免許状が認可され、三岐鉄道を設立。社長は伊藤伝七、取締役には、浅野セメント、小野田セメントの専務が名を連ねた(両社とも現在の太平洋セメントの前身)。昭和6年には、富田―西藤原間が開業したものの、昭和6年に関ヶ原へ敷設の免許が失効したためセメント工場のある藤原までにとどまった。三岐鉄道の名前のいわれである。初代社長が伊藤伝七氏であったため、設立は四日市だったが、おおきな目的の一つがセメントの原料石灰岩の輸送だったので(訂正:すみません セメント輸送でした)富田に本社を移した。

グーグルマップより

上の地図を見ていただきたい。明治末期、関西鉄道が富田を通っていて(上から下に斜めに伸びる線路)国有化されていた。国鉄関西線は、東洋紡績の工場内にも敷設されて(右下に東洋紡績があった 現在のイオンモール四日市北)富田駅を通して各地につながっていた。三岐鉄道は、それと並行して富田をスタートし、蒔田あたりで国鉄と高架クロスして三岐線は西藤原へと国鉄は名古屋へ分かれていく。両線とも同じ1067ミリの狭軌だった。

この頃(昭和3年)、伊勢電鉄(後の近鉄)は、富田を通過して桑名まで運行されていた。富田が始発となった三岐鉄道三岐線は、旅客列車も国鉄富田駅発着であったが、近鉄富田駅まで歩いて移動する乗客が多かった。近鉄連絡線建設には富田駅前の商店街が反対したが、完成後も国鉄富田駅への旅客列車を運行することで妥協した。しかし、近鉄富田駅利用客の多さは歴然で、昭和60年に三岐鉄道 三岐線の旅客列車は近鉄富田駅発着に統一された。こうして現在の近鉄富田駅と国鉄富田駅が約300メートルの距離を置いて存在している。昭和40年代、近鉄富田駅を降りた乗客が、国鉄富田駅にあった三岐鉄道への乗り換えに足を急がせていた風景を思い出す。

  • 間違いがあればご教授ください。
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昭和30年代の諏訪界隈 その2

2025年06月01日 | レモン色の町

昭和34年12月、建築中の店が伊勢湾台風に遭ったが、Mさんは諏訪公園西に新店舗を開くことができた。その頃には近鉄百貨店が完成していて、翌年の昭和35年はコンビナートも次々と操業を始め、商店街は一気に活気あるまちと化していった。女性の顔を抽象化した壁面の「クイーン」は四日市初の本格的キャバレーだった。キャバレー内は広くて、暗いホールの正面には大きな舞台があり数名の楽団員が演奏をしていた。ボックスに座ると3~4人の女性が客を囲み、ボーイを呼ぶために肌もあらわな胸元のくぼみからマッチを取り出し、擦る。闇の中の光に吸い寄せられるように、音もなくボーイが駆けつける。ステージでは演奏から唄やストリップショーなども繰り広げられて、四日市の夜は更けていった。

昭和43年マップ 丸印にストリップが来ていた

諏訪公園の西に「トルコ風呂」が開店した。銭湯しか知らない私は、水着姿の女性が蒸し風呂からマッサージのサービスがあると聞いて驚いた。輸入モノだと人々に珍しがられた。

1番かな?昭和33年7月24日(辻さんの写真)

当店北隣に狭い空き地があって、年に二回、旅回りのストリップショーがやってきた。テント掛けの小屋が建ち、莚(むしろ)一枚下がった入り口に1本の赤い幟(のぼり)が立つ。拡声器の声で「ご当所、初のお目見え!」と夜遅くまでラテン音楽がにぎやかだった。「ポップサリー来る!」の幟を覚えている。

2番 若紀久前 昭和33年7月24日(辻さん撮影)

何処からやって来るのか、家内稼業だった。呼び込みから入場券の“もぎり”、BGMから照明まですべてがおやじの役目であり、五色のライトを浴びて登場するストリップガールは、その人の女房だった。四人の女が入れ替わり踊っていたが、よく見ると女房殿の一人四役で、衣装だけが変わっていたのだった。ある日の午後、この女房が小さい女の子の手を引いて西新地の銭湯へ行く後姿を見た。この母親がライトを浴びているその間、この子はどこで何をしていたのだろうか。

3番 昭和32年5月神戸屋角(辻さん撮影)

旧四日市を語る 第十集より

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昭和30年代の諏訪界隈

2025年05月30日 | レモン色の町

戦争が終わった。Mさんは湯の山温泉を起点に板前の修業を積み、自分の店を持ちたいと願っていた。旧四日市を語る”第10集より

月に一度の散髪に湯の山から四日市の街へ出てきたMさんは、洋画が好きで西新地の三重劇場へ寄るのが楽しみだった。帰りにはスワマエの嶋口屋にうどんを食べに立ち寄った。嶋口屋は田舎風の店でお酒を頼むと二合徳利が出た。Mさんは「なぜか私はこの店が好きだった」と書いている。

らく天さん

四日市へ出て来ては店の土地を探しに歩き回った。繁華なのは諏訪で「のんきや」とか「うまいや」などの有名な店が並び「びっくりぜんざい」が目を引いた。諏訪駅北口を出て真っすぐ北に進むと、カトリック教会の広い敷地に出会う。

らく天さんの位置

昭和31年当時はすでに整地されていて、ここに12坪の土地が売りだされていた。北隣は「コンパ」というバーで、南隣は焼き肉屋だった。私がここに店を構えようと決めたのは、店の並びに「らく天」という天ぷらとお好み焼きの店があり繁盛していると聞いたことと、前に広がる諏訪公園が店の庭のようだと感じたことからだった。「らく天」の路地を西に入ったところに空き地があった。後年そこには「たい家」という料亭ができた。

昭和33年の諏訪公園西

当時は地道で、車が通ると砂ぼこりが舞い上がり、まばらな店舗の並びに場末を感じさせた。諏訪公園には禽舎(きんしゃ)があり、アヒル、孔雀、小鳥が雑居していた。南には猿の檻があって、夜ともなれば、酔客におびえて甲高い鳴き声を上げていた。 つづく

昭和32年頃の諏訪公園南

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映画 Tokyo Joe のロケがおかしい?

2025年05月25日 | レモン色の町

今日もとんでもなく暇だったので、ハンフリーボガードの「Tokyo Joe」

やっちまったぜ 主演ハンフリー・ボガートがまさかの映画〖東京ジョー〗

と、この背景を使って合成したという 1940年代のカラー化された映像が・・・

カラーで見る日本の1940年代 [60fps, Remastered] w/added sound

何処で使われたかどうかを比べてみました。

ここの真ん中にハンフリーボガードさんが入るのですが

如何ですか?

ここで大発見!背景画像が逆になっていませんか? 

だからどうということもありません もうちょっと 他にやることがあるでしょうがネェ

<追記> なぜ背景が逆転していたのか?その謎が解けた。

当時、昭和20年頃の合成画像は、今にように緑のバックで撮り、そこへ背景画像を写し込むような技術はなかった。スクリーンに後ろから投影して、その前で人物が演技をする。当然背景は逆になる・・・如何でしょうか? 私の迷推理は・・・

 

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コレクターDVD

2025年05月25日 | レモン色の町

貯めていたお宝DVDを 皆さんにも楽しんでいただこうと思い・・・

ということで店頭に並べてみました お名残り惜しい気が致しますが・・・

 

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Tokyo Joeのキャメラは回る

2025年05月24日 | レモン色の町

二本のYoutubeにびっくりしています。時は1940年代とありますから戦中かな?戦後かな?と思い観ておりました。どうやら背景から戦争直後の昭和22~23年?ようやく復興の兆しが出てきた頃です。

前半は人込みの中を撮影しながら移動し続けます。「田村町2-15」の標識。現在の東京都港区西新橋2丁目になります。行き交う大勢の人々のある人はカメラを無視、ある人は眺めています。「日比谷病院」「道元坂百貨店」の看板。買い物を楽しんでいる様子ではなく、ひたすら何かに向かって進んでいるようです。撮影は進駐軍でしょう。

カラーで見る日本の1940年代 [60fps, Remastered] w/added sound

後半は未舗装の広い通りを車内から撮っています。英語の交通標識が電柱に貼られています。両側に建つバラックの家屋。「魚類配給所」「牛豚肉販売」にわかに建て付けた小さな家屋で商いが始められています。理容店・電気工事・時計店・書店・ラヂオ商会・鮮魚販売店と並びます。

<追記>コメントを読ませていただくと、撮影は新橋のようです。最後は羽田飛行場に突き当たると書かれていました。続編が羽田ですから納得がいきます。この画像は1949年公開のハンフリーボガード主演のアメリカ映画「Tokyo  Joe」の背景合成画像として撮られたとありました。進駐軍ではなかったようです。

やっちまったぜ 主演ハンフリー・ボガートがまさかの映画〖東京ジョー〗

二本目は、同じ進駐軍が車内から羽田空港周辺を撮ったものですが、工場地帯が続くばかりで飛行機は見られません。便数は少ないのか?

東京 1940年代後半 カラー 羽田空港 [60fps,リマスター] サウンドデザイン追加

とにかく鮮明です。進駐軍の中で働く日本人の姿、子供は所在無げにカメラを見送ります。

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カラー化で蘇る昔日の日本

2025年05月23日 | レモン色の町

明治から大正、昭和のはじめにかけて、日本は開国から近代化に向け懸命に急ぎ、結果 便利になったものもそして、失われたものもありました。まあ総じて“よくなったね”という結論になるでしょうが、年寄りは、失われたものへの失望感と愛着を感じることが多いと思います。本日は、ユーチューブの中から昔の動画を選びましたので、タイムマシーンをお楽しみください。

昭和31年の水谷仏具店前

【映像の世紀】大正時代の東京の映像をカラー化

東京、日本 1920年代 カラー [60fps,リマスター] サウンドデザイン追加

【戦前】1930年代の東京 Japan Tokyo 1930【字幕付き】

カラーで見る日本の1940年代 [60fps, Remastered] w/added sound

1956年の東京 [60fps HD] 1950年代の日本 / Tokyo, Japan in 1956

OLD TOKYO 1960s-1970s 【1960-70 年代の東京】 ♪ 上を向いて歩こう ♪ ♪ Sukiyaki ♪

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富田浜駅に観光客が殺到!

2025年05月21日 | レモン色の町

特別寄稿『富田いろいろ 思い出すままに』(近藤香代さん)の続きです

大正13年頃、富田浜海水浴場に夏季停留所ができました。名古屋から沢山の人が来るようになり、富田浜駅になりました。その頃の列車は満員で、デッキにも人があふれ、あの大正ロマンのカンカン帽に着物姿の人々が列車にぶら下がるように乗っていました。機関車は黒煙を吐きながらあえぐように走っていたように思えます。

水谷宜夫氏提供

富田駅から浜まで50メートルくらいの両側には土産物店が並んでおり、浜には掛茶屋(かけちゃや)も出来て大変な賑わいでした。富田浜は、名古屋から唯一の海水浴場でしたので、お金持ちが競って別荘を建て始めましたが、その頃の面影は今も所々に残っています。

富田浜病院前

さて、明治40年に開場した“富田浜海水浴場”は、翌41年、関西本線富田浜駅が臨時停車場となり大勢の人で賑わいました。療養所を兼ねた旅館や別荘が並び長期療養できるなど特徴を持った海水浴場でした。大正10年地元の業者でつくられた“富田保勝会”は、人工滝等の施設の設置を行い設備を充実させるとともに「富田案内」や「蛤料理」などの小冊子を配布してPR活動に努めました。しかし、戦後になると石油化学工業の進出や伊勢湾台風の被害を受け昭和36年、閉鎖のやむなきに至りました。

JRとみだはま駅

今では、わずかに残る松並木が昔の良き富田浜の面影を偲ばせてくれています。昭和45年、JR富田浜駅は無人駅となりました。

つぎはJR四日市ィ~

霞ケ浦 富田浜 名所図絵

2021年6月29日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

失われた海水浴場 霞洋館(かようかん)と三藤旅館

2023年8月25日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

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その昔の 富田と 鉄道と 人々の暮らし

2025年05月20日 | レモン色の町

「ふるさと富田」から  近藤香代さんの特別寄稿を続けて掲載させていただきます。

昭和のはじめ、伊勢電が外宮から桑名まで走りました。その時も生徒たちは学校などどこ吹く風と、開通記念の電車に乗り放題。当時はお昼になると生徒たちは昼食に家に帰るのでしたが、午後になっても男の生徒たちが戻ってこないので不思議に思っていました。先生たちも大騒ぎです。そのうち、私たちにも男子生徒たちの伊勢参宮が伝わってきました。この頃の伊勢電にはよくストライキがあり、職場放棄で改札が無いのを幸いと、ストの解決時間まで乗り放題でした。しかし、解決時間がきたところからお金を取られるというハプニングがありました。いずれも、今の学校では許してもらえないようなのどかな出来事でした。

本町通り

小川鉄道大臣の時、伊勢電の熊沢氏が、揖斐・長良・木曽川の鉄橋を国鉄から払い下げを受け、ロッキード事件のような大騒ぎになりました。この鉄道疑獄で四日市銀行は倒産。この頃から世は不況に走り始めますが、鉄橋を買っておいてくれたので参宮急行になり、関西急行にそして近鉄になり今の発展につながってきたのではないかという思いがしないでもありません。

鳥出神社

当時の物資の輸送は鉄道が頼りでした。富田駅から漁網やタオル、素麵などを運び出し、入ってくるのは東洋紡の原綿でした。

小学校の修学旅行は、五年生が伊勢、六年生は奈良と決まっていました。修学旅行から帰って富田駅に着くと、駅の中は印入りの提灯がいっぱいで、何様のお迎えかとびっくりしたものです。提灯を掲げて口々にわが子を呼ぶ光景が思い出されます。

大正13年頃、富田浜海水浴場に夏季停留所ができました。 つづく

田村泰次郎と豊富川

2023年9月29日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

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大正期の富田の町

2025年05月19日 | レモン色の町

先日のこと、富田に生まれ育ったNさんとIさんから昔日の富田についてお話を伺いました。

御大 お二人 写真掲載のお断りがしてないので お顔だけ隠させていただきました

その折に「ふるさと富田」の本をお借りしました。そこに掲載されていた特別寄稿『富田いろいろ 思い出すままに』(近藤香代さん)は、大正から昭和戦前にかけての富田の町のゆったりとした風情が書かれていました。

大正6年、一老女が生まれた富田の古き良き時代を、思い出すままに綴ってみます。

私、富田小学校の北側、今の中央通りと旧東海道との十字路あたりで産まれました。北は花の木川、旧道から堤防を上がり現在の四日市高校へ行く“お琴の橋”のすぐ上は、舟板を2,3枚並べて、近くの女たちの団らん所、洗濯場になっていて一日おしゃべりの絶えないうわさ話の交換所になっていました。

おことが住んでいたころの川端は裏通りで 芸妓置屋「喜月」から時折 三味の音が聞こえていた 現在の富田中央通り商店街 この先が近鉄富田駅になる(富田をさぐる より)

旧道をはさんで東に下ると“喜月”があり、日中は芸妓(げいぎ)の三味(しゃみ)の稽古(けいこ)が聞こえ、のんびりとした街でした。前は床屋、隣はうどん屋(東京庵)で、茶屋通りと呼ばれていました。

大正4年の御大典の折、父が造った「大鯛」の張りぼてが町中の話題になり、後に鯛の祭車を造るきっかけになりました。職人に仕事を任せて、自分は作業小屋通い。この小屋には飴売りが住んで居て、頭の上に半切を乗せ、太鼓を叩いて売り歩くのです。雨の日は、飴づくりと太鼓の稽古。朝から太鼓の音がするので、太鼓町と呼ばれていました。

鯛の祭車は、大正10年のお盆にやっと間に合い、町の人たちが張り切って引いていました。この年は、石取りも鯨船も良くなったと云われ大変な賑わいだったことを覚えています。

旧東海道が往還(おうかん)といわれていたその頃、物資は桑名から四日市へと流通していました。夜明けと共にシジミ蛤売り、朝日(伊勢朝日)から歯みがき砂売り、そして、朝明の水売りが毎日のように来て、飲み水を買いました。十時頃になると「パンパン あんパン」と、チリンチリン鈴を鳴らしながら板車にガラスケースを乗せたパン屋が来ました。やがて牛乳屋がガラス瓶をガチャガチャいわせながら箱の車でやってきます。午後になると川原町のマル五呉服店が、板車に荷物をつけて小僧に引かせ、番頭がついて売りに来ます。旧東海道は商いの道であり、毎日の生活に欠かせない道でした。  つづく

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