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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その3

2010年07月21日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 池上本門寺

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大森村周辺の地勢
・大森村の地形
大森村周辺の地勢を見ると、北西部は武蔵野台地がせり出した台地で、南東部のほぼ3分の2は多摩川の河床および海面の自然隆起に次いで、火山灰等の埋積によって生じた沖積土の低地に続いた埋立地の平野部であり、中央部は所々に河谷の湿地がみられます。

 大森周辺の高台と低地地形図

古代の大森貝塚時代の砂洲は、飛鳥時代まで寒冷化と堆積作用によって海岸線は後退し、古墳時代までに形成されたとみられます。さらに、海岸線は第1京浜国道・産業道路まで後退して、奈良時代の「倭名類聚抄」に地名「蒲田」「駅家」(大井または新井宿)が記されており、平安時代の「延喜式」に「薭田神社」(蒲田)と「磐井神社」(不入斗)記載されており、丘陵上から低地の自然堤防や砂地上の六郷、蒲田、大森の平野部へと生活が移ってきました。
戦国時代の小田原衆所領記帳には、大森、小花和、堤方、雪が谷、一ノ倉、不入斗、新井宿、蓮沼、安方、根岸、馬込、極楽寺などの記述があり、これらの所は第1京浜国道の通る自然堤防と砂洲や、その西側にある自然堤防と砂洲上に集中しています。

 高台東南の低地平野部の地形図(地形図の濃い黄色の部分は自然堤防・砂堆・砂洲を示す)

明治初期の大森村
明治初期に描かれた大森村の絵図の世界は、江戸から東京になっても何も変わらずに江戸時代の延長です。大森村絵図の大森は東・西・北大森村の三村構成であり、大森村と他村の境界は北側が不入斗(いりやまず)村で西側は新井宿村に接しています。東側は海岸で不入斗村の堤付近では東海道が海岸線に接しており、「地名辞書」によれば古くから石垣による波除堤が造られており、大森村の北原より南原方には1680年(延宝7年)に長さ三百九十六間(約720m)の波除堤が造られたという記録が残っています。その2に記述の様に、1854年(嘉永6年)に黒船襲来で大森に台場を築くなど、明治以前の古くから大森村の海岸の埋め立てが行われていました。
大森村の南側の境界は、現在の大森と蒲田の境界に一致しており、当時の呑川(現在の旧呑川)を挟んで森が崎(現大森南)が南端の境界で、蒲田村と糀谷村に接しており、大森村全体は平地に位置しています。

 大森村旧東海道の海岸線

大森村絵図では、旧東海道は不入斗村(現大森北)の平和島口付近から海岸線を南進し、三原(現美原)通りの北原から、寄来社(大森神社)縁の中原を通り、南原で徳浄寺を抜けて中央部の内川橋を渡りやや右に曲がると三原通りが終わり、旧東海道(現第1京浜国道)が進みます。
内川橋の先の旧東海道は、曲がりくねった南北に流れる内川沿いに進むと、内川は現大森町駅付近で西に折れますが、直進する旧東海道は松並木で海岸線からはやや離れますが、西側には池上本門寺の五重塔と本門寺大堂が見晴らせます。
六郷用水の最初の橋を渡り松並木が過ぎると旧東海道は、品川宿と川崎宿の中間で人足や駕籠かき等の替え場所の大森中宿で、人家が街道を挟んで増加し、街道の掛茶屋、旅人の荷物運搬人足の建場が設けられた所で、道を挟んで東側に天神社が西側に貴船社が鎮座しています。大森中宿には3つの六郷用水の橋があり、それを渡ると他村の北蒲田村の境界で大森村旧東海道の終点で、現在の第1京浜国道の梅屋敷商店街通りに当たります。
大森村の南北に旧東海道が通り、大森中央の東西には内川が流れ、田畑の灌漑用の六郷用水が張り巡らされています。大森村の絵図の黄色部は水田であり、緑部は畑と三原通りや中宿の人家の密集地です。

 大森村絵図編集版

1590年(天正18年)に領地を得た徳川家康が、江戸城下町づくりと並行して、領地基盤の充実を図るため、多摩川下流域の低地平野部の農地化を図り、六郷用水を引いて灌漑し田畑が開発されました。また、沿岸の大森村、不入斗村、糀谷村では海苔の養殖が盛んになり、江戸近郊の農漁村として耕地が拡大発展しました。
江戸から明治と時代は移っても、大森村近郊農村の性格は変化せず、六郷用水の農業用水の最盛期は明治末期でした。

 大田区の農耕地と居住人口の変遷

1872~74年(明治初年)の「東京府志料」によると、大森村の戸数は1261戸、人口7541人で、田地が104町3反5畝20歩で、畑地が77町2反2畝11歩と記されています。
農漁村の大森村の絵図には、耕地の面積と田畑の収穫高が記入されております。徳川時代の税法は、田畑の耕作して得た収穫物の石高を持って定められ、そのあがり高のうちから応分の割合で上納することになっていました。この上納高は、その年の豊凶によって増減されました。一段の地に対して収穫高を盛り付けることを石盛と云い、1升の籾は5合の玄米になるので、1歩からの収穫を5合の割合では300坪では1石5斗となります。これを石盛十五または十五の盛といいます。このような石盛を基準にして上納を定め、田の種類を上田、中田、下田および下の下田4種類に類別し、1位ごとに上納を減じ、上田十五、中田十三、下田十一、下の下田九の割合と定められました。また、畑地は水田同様に4種類に分類し、上畑十三、中畑十一、下畑九、下の下畑七と定められていました。
収税法は、田地は取米を定めて玄米を収め、畑取米は升目2石5斗を金壱両として金銀にて上収したとあります。田畑の上、中、下の石盛を定めることを、検地、検見、縄入と云います(大森区史から)。この大森絵図は、明治5年の地租改正のための、明治行政村として旧村時代の耕地の分布と面積を明確にする目的で作図したものであったかもしれないと述べてあります(大田郷土博物館北村敏氏 地図中心2009年10月号から)。

 田畑収穫高

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