手記を読んで想う
若山武義氏の手記も佳境にはいり、4月13日のB29編隊330機による城北大空襲(根津山小さな追悼会記録資料4月18、25、27日付ブログ参照)による大被災を受け続けさまに、4月15日にそれまで爆撃のなかった大森の工業地帯を目標に、120機の爆撃機の波状攻撃による大森町大空襲の場面がいよいよ登場します。
大森町大空襲による被災は、爆弾14.5トン数、焼夷弾754.4トン数の爆撃によって戦災家屋6万8千4百余り、羅災人口26万3千9百、負傷者1千6百有余人、死者841を出しております。(出典 東京空襲を記録する会作成 図説東京大空襲 河出書房新社から)
手記に出てくる大森第一国民学校の猛火は、学童疎開の直前まで通学していた母校であり、京浜急行の山谷駅(現大森町駅)も爆撃により焼失して1952年の再開まで廃駅でした。
防空壕で亡くなられた方は、手記の若林氏と私の父の勤務先の会社の役員さんで、ムクと云う名の赤毛の大きな犬を飼っておりました。よく夕方になると主人を迎えに先ず大森警察署前の事務所に寄り居ないと、瓦斯会社傍の本社へと迎えに通っておりました。事務所は住宅兼務でそこに住んでおりましたので、晩御飯を食べている時くるとおかずを分けてあげていたのでよく懐いておりました。手記を読み、主人と共に災死に遭ったのは戦争とは云え、悲惨で胸が篤くなります。戦禍で亡なわれた方のご冥福をお祈りし、再び戦争を繰り返さないことを願います。
なお、4月6日のブログのコメントでtakuさんから、1947年7月9日撮影の高度1,524mからの大森町上空の航空写真(国土地理院)を紹介して頂きましたのでここをクリックしてご参照ください。まだ、大森一体は戦災の焼け野原で、若干バラックが散見して見られます。
なお、takuさんから頂いたコメントには、国土地理院の空中写真閲覧サービス(試験公開)の紹介があり、大森以外の航空写真も見られますので、大森町界隈あれこれ(6) 大森町に住んで65年!(その5)コメントをご覧下さい。
若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第5回
大森空襲の想定
学童疎開から始まって、今日は足手纏いの老幼婦女子は帝都に残留するなかれだ。金と暇のあるお偉い人々は、田舎に、山奥に、これ等に便乗して御疎開遊ばれる荷物も租界だ。なんだかんだの神田橋ではない。一方兵隊さんが来て家屋取りこわしにかかる。柱をのこで切り、太いロップをかけて、エッサ、ユッサと力まかせにもりもりと引きずリ倒す。
長年寝起きした我が住まいが無残と崩れるのを見て泣き出す幾多の婦人もある。一々気にして居られぬ。日に日に爆撃が強烈になるし、この處帝都は混乱、乱雑、人心不安、戦災者、疎開者を帝都より運び出す汽車の人殺し沙汰、全く地獄の様相である。
四月十三日夜、池袋、大塚、巣鴨、滝野川、田端に亘って相当広範囲に爆撃され、終夜猛炎天を焦がすばかりである。京浜地帯では、今日まで大森、蒲田は被害らしき被害はないから、今度こそこっちの番だぞと不安になって来た。
敵の爆撃は今日迄の経過を見ると、丁度一週間目毎に帝都にやって来る。其の翌日から毎日毎夜、一機、二機、三機戦果偵察に来る。我が頭上四週を偵察し始めたから、こんどは大森はあぶないぞと予感もした。然し十三日に大挙来たのだから、今度は二十日前後だなと想定をして居った。
四月十五日晩、関井さん来訪、疎開後の始末やら爆撃被害の情報を語り合って、九時の時計の音で、それではお明日と辞去された。さて寝ようかなと床をのべると、それ迄我が膝の上に、何時ものように安眠して居た「たま」は手足をのばし、大きなあくびをして、待ってましたとばかり床の中にもぐりこんでしまった。私も帯びをときかけるととたんにブザーが鳴り出した。
<前回 大森町界隈あれこれ(12) 鎮魂!大森町大空襲(第5回) へ
次回 大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回) へ>
若山武義氏の手記も佳境にはいり、4月13日のB29編隊330機による城北大空襲(根津山小さな追悼会記録資料4月18、25、27日付ブログ参照)による大被災を受け続けさまに、4月15日にそれまで爆撃のなかった大森の工業地帯を目標に、120機の爆撃機の波状攻撃による大森町大空襲の場面がいよいよ登場します。
大森町大空襲による被災は、爆弾14.5トン数、焼夷弾754.4トン数の爆撃によって戦災家屋6万8千4百余り、羅災人口26万3千9百、負傷者1千6百有余人、死者841を出しております。(出典 東京空襲を記録する会作成 図説東京大空襲 河出書房新社から)
手記に出てくる大森第一国民学校の猛火は、学童疎開の直前まで通学していた母校であり、京浜急行の山谷駅(現大森町駅)も爆撃により焼失して1952年の再開まで廃駅でした。
防空壕で亡くなられた方は、手記の若林氏と私の父の勤務先の会社の役員さんで、ムクと云う名の赤毛の大きな犬を飼っておりました。よく夕方になると主人を迎えに先ず大森警察署前の事務所に寄り居ないと、瓦斯会社傍の本社へと迎えに通っておりました。事務所は住宅兼務でそこに住んでおりましたので、晩御飯を食べている時くるとおかずを分けてあげていたのでよく懐いておりました。手記を読み、主人と共に災死に遭ったのは戦争とは云え、悲惨で胸が篤くなります。戦禍で亡なわれた方のご冥福をお祈りし、再び戦争を繰り返さないことを願います。
なお、4月6日のブログのコメントでtakuさんから、1947年7月9日撮影の高度1,524mからの大森町上空の航空写真(国土地理院)を紹介して頂きましたのでここをクリックしてご参照ください。まだ、大森一体は戦災の焼け野原で、若干バラックが散見して見られます。
なお、takuさんから頂いたコメントには、国土地理院の空中写真閲覧サービス(試験公開)の紹介があり、大森以外の航空写真も見られますので、大森町界隈あれこれ(6) 大森町に住んで65年!(その5)コメントをご覧下さい。
若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第5回
大森空襲の想定
学童疎開から始まって、今日は足手纏いの老幼婦女子は帝都に残留するなかれだ。金と暇のあるお偉い人々は、田舎に、山奥に、これ等に便乗して御疎開遊ばれる荷物も租界だ。なんだかんだの神田橋ではない。一方兵隊さんが来て家屋取りこわしにかかる。柱をのこで切り、太いロップをかけて、エッサ、ユッサと力まかせにもりもりと引きずリ倒す。
長年寝起きした我が住まいが無残と崩れるのを見て泣き出す幾多の婦人もある。一々気にして居られぬ。日に日に爆撃が強烈になるし、この處帝都は混乱、乱雑、人心不安、戦災者、疎開者を帝都より運び出す汽車の人殺し沙汰、全く地獄の様相である。
四月十三日夜、池袋、大塚、巣鴨、滝野川、田端に亘って相当広範囲に爆撃され、終夜猛炎天を焦がすばかりである。京浜地帯では、今日まで大森、蒲田は被害らしき被害はないから、今度こそこっちの番だぞと不安になって来た。
敵の爆撃は今日迄の経過を見ると、丁度一週間目毎に帝都にやって来る。其の翌日から毎日毎夜、一機、二機、三機戦果偵察に来る。我が頭上四週を偵察し始めたから、こんどは大森はあぶないぞと予感もした。然し十三日に大挙来たのだから、今度は二十日前後だなと想定をして居った。
四月十五日晩、関井さん来訪、疎開後の始末やら爆撃被害の情報を語り合って、九時の時計の音で、それではお明日と辞去された。さて寝ようかなと床をのべると、それ迄我が膝の上に、何時ものように安眠して居た「たま」は手足をのばし、大きなあくびをして、待ってましたとばかり床の中にもぐりこんでしまった。私も帯びをときかけるととたんにブザーが鳴り出した。
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