kan-haru blog 2010 荏原郡大森村内川橋(明治14年発行複製地図日本地図センター)
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古地図で昔の大森を探る
・大森町の過去の災害
大森町界隈は、過去に天災と戦災の大きな災害を2度被っています。その1は1923年(大正12年)9月1日に神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の関東大震災による災害です。
2つ目戦災は、第二次世界大戦参戦により東京大空襲を受け、大森町の空襲被害は1945年4月15日(「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第6~11回)」参照)の空襲で、京浜工業地帯の鶴見、川崎、蒲田、大森が精密工業の中心であることから、米軍は工場を破壊することを作戦として、B29爆撃部隊3航空団の1つが大森の平和島以南から蒲田以北の京浜国道を中央線とした大森町の工場破壊を目標として爆撃が行われ、他の2航空団が現在の川崎市小田、浅田、南渡田町を中心とした工場殲滅の爆撃が行われました。この空襲で、大森は6万8千戸を焼き尽くされ、特に大森町は壊滅的被害を蒙りました。川崎は3万5千戸を焼き尽くされました。
この2回に亘る災害で、大森町にあった遺産の建造物や資料類は、石造物以外は殆ど消失してしまいました。
大森町周辺戦災焼失地図(黄色部が焼失地域)(戰災燒失地域表示 新生 東京詳細地圖19460505 京極堂CD-ROMから)
・地図から昔の大森を見る
有形・無形の資産は、貴重な歴史資産ですが、記録資料も立派な歴史情報です。現在は、ITを活用することにより、誰でも簡単にいつでも記録情報を作成し保存することができますが、一昔前では情報を紙での記録しか残せませんでした。しかも、情報所有者の頭の中の情報を伝える手段に限りがありましたので、貴重なローカルな歴史情報が殆ど残されていないのが実情です。
現在、一般に使用している地図には、地形、交通道路は一見して見ることができますが、そのほか産業、文化、生活環境、人口、区域変遷、交通や時代反映などの表現されていない沢山の情報が秘められています。そこで、大森町界隈の残された数少ない歴史資料を補うため、各時代の大森の地図を見て歴史を探り、情報を纏めておく必要を感じて、「古地図で大森を探る」を開始します。
下記の現在の大森町周辺地図にオレンジ色で示された線は旧東海道を示すもので、第1京浜国道と分離した部分は三原通りと呼ばれ、昔から人家が賑わっていた場所であったので、第1京浜国道建設は離れた場所に造られました。第1京浜国道は、時代と共に何度となく道幅の幅員拡張が西側方向でお行われ、旧東海道端は東側サイドが一致しています。
現在の大森町周辺地図
大森村絵図
古地図で大森を探るの第1回目の大森村絵図は、前回記事で掲載の様に昨年の秋に大森村の古図(東京府武蔵国荏原郡大森村明治14年5月発行複製)を購入するため日本地図センターに出かけた際、「大森村絵図」の紹介した雑誌が目に留まり、その絵図が「大田区史(資料編)諸家文書3」に所収されていることを知り、大田区役所で閲覧できたことにより大森村絵図を入手しました。絵図が描かれたと云われる明治元年7月から同5年の時代の大森村絵図は、この時代の大森村を知るためには貴重な資料であり、先ずは大森村絵図から昔の大森村を探ります。
下記に掲載の大森村絵図は4葉構成で、サイズが非常に大きく縦が1550mm、横が1875mmもあり、掲載のためのコピーには原版をA3サイズ24枚に分割コピーし、それを15枚に編集し割愛分割して作成したものです。
荏原郡大森村絵図(大田区史(資料編)諸家文書3から)
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毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(7月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 大森町風景別総目次 へ
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古地図で昔の大森を探る
・大森町の過去の災害
大森町界隈は、過去に天災と戦災の大きな災害を2度被っています。その1は1923年(大正12年)9月1日に神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の関東大震災による災害です。
2つ目戦災は、第二次世界大戦参戦により東京大空襲を受け、大森町の空襲被害は1945年4月15日(「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第6~11回)」参照)の空襲で、京浜工業地帯の鶴見、川崎、蒲田、大森が精密工業の中心であることから、米軍は工場を破壊することを作戦として、B29爆撃部隊3航空団の1つが大森の平和島以南から蒲田以北の京浜国道を中央線とした大森町の工場破壊を目標として爆撃が行われ、他の2航空団が現在の川崎市小田、浅田、南渡田町を中心とした工場殲滅の爆撃が行われました。この空襲で、大森は6万8千戸を焼き尽くされ、特に大森町は壊滅的被害を蒙りました。川崎は3万5千戸を焼き尽くされました。
この2回に亘る災害で、大森町にあった遺産の建造物や資料類は、石造物以外は殆ど消失してしまいました。
大森町周辺戦災焼失地図(黄色部が焼失地域)(戰災燒失地域表示 新生 東京詳細地圖19460505 京極堂CD-ROMから)
・地図から昔の大森を見る
有形・無形の資産は、貴重な歴史資産ですが、記録資料も立派な歴史情報です。現在は、ITを活用することにより、誰でも簡単にいつでも記録情報を作成し保存することができますが、一昔前では情報を紙での記録しか残せませんでした。しかも、情報所有者の頭の中の情報を伝える手段に限りがありましたので、貴重なローカルな歴史情報が殆ど残されていないのが実情です。
現在、一般に使用している地図には、地形、交通道路は一見して見ることができますが、そのほか産業、文化、生活環境、人口、区域変遷、交通や時代反映などの表現されていない沢山の情報が秘められています。そこで、大森町界隈の残された数少ない歴史資料を補うため、各時代の大森の地図を見て歴史を探り、情報を纏めておく必要を感じて、「古地図で大森を探る」を開始します。
下記の現在の大森町周辺地図にオレンジ色で示された線は旧東海道を示すもので、第1京浜国道と分離した部分は三原通りと呼ばれ、昔から人家が賑わっていた場所であったので、第1京浜国道建設は離れた場所に造られました。第1京浜国道は、時代と共に何度となく道幅の幅員拡張が西側方向でお行われ、旧東海道端は東側サイドが一致しています。
現在の大森町周辺地図
大森村絵図
古地図で大森を探るの第1回目の大森村絵図は、前回記事で掲載の様に昨年の秋に大森村の古図(東京府武蔵国荏原郡大森村明治14年5月発行複製)を購入するため日本地図センターに出かけた際、「大森村絵図」の紹介した雑誌が目に留まり、その絵図が「大田区史(資料編)諸家文書3」に所収されていることを知り、大田区役所で閲覧できたことにより大森村絵図を入手しました。絵図が描かれたと云われる明治元年7月から同5年の時代の大森村絵図は、この時代の大森村を知るためには貴重な資料であり、先ずは大森村絵図から昔の大森村を探ります。
下記に掲載の大森村絵図は4葉構成で、サイズが非常に大きく縦が1550mm、横が1875mmもあり、掲載のためのコピーには原版をA3サイズ24枚に分割コピーし、それを15枚に編集し割愛分割して作成したものです。
荏原郡大森村絵図(大田区史(資料編)諸家文書3から)
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