kan-haru blog 2010 名所江戸百景「南品川鮫洲海岸」
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大森村絵図を歩く
・大森村付近の東海道
日本橋を出発点とする東海道は、江戸時代初期に幕府が整備した江戸と京都を結ぶ、重要な交通路であり、参勤交代の大名行列のほか、一般の旅人にも大いに利用されていました。
大森村絵図
明治初年頃の大森村境界の不入斗村から北の大井村(現鮫洲付近)の東海道は、石垣の波打ち際の海岸線に沿っております。不入斗村に入って東海道を上っていくと、すぐ鈴ヶ森八幡(磐井神社 大田区大森北2-20-8)(「大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その1、2」参照)があり、その先には鈴ヶ森刑場跡から鮫洲を通り品川宿です。
江戸名所図絵 鈴の森八幡社
・大森村の東海道
大森村絵図の東海道北端は今の平和島入り口付近であり、ここから南に下り東海道は現在の三原通り(現美原通り旧東海道 大田区文化財 大森本町2-1付近から大森東1-4付近)(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)となり、街道の道幅は現美原通りと同一で3間余り(6m)です。三原とは、字名の北原、中原、南原の三原を示しています。
三原通り
・寄来神社
東海道を南に下ると、大森村絵図の時代には北原と中原の中間点付近の街道脇に三原の鎮守の寄来大明神が祀られています。由緒によると創建年代は不詳だが、1720年(享保5年)再建時の棟札に、1616年(元和2年)に社殿を改築したとの記述があります。1868年(明治元年)神祇伯・白川資訓王より「大森神社」の社号と額面を賜ったとあります。
なお、寄来神社は後に大森神社(大田区大森北6-32-12)と改称(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大森神社(寄来神社)」参照)して、現在は第一京浜国道脇に移転しております。
創建時と現在の大森(寄来)神社の場所
・徳浄寺
寄来神社から三原通りを南に下ると南原で海側に、1627年(寛永4年)四ツ谷に創建され、1688-1704年(元禄年間)に大森村へ移転してきた徳浄寺があります。徳浄寺(大森東1-16-22)は、浄土真宗本願寺派で山号を海松山と号し、開基は祐信、俗姓は菅原氏で豊島郡四谷に住み、日世智行の時念仏門に帰依し、本尊及び親鸞の影像と寺号を本山より下賜されました。13世秀山の子、教伝が当地に移し、大森徳浄寺の1世になりました。9世祐海が1830-44年 (天保年間)に本堂を建立しました。
徳浄寺
・三原通りの老舗
その2で、大森村には1688~1716年(元禄から正徳)にかけて、中原、谷戸、南原に三店の「和中散」の店が開店し、江戸中期頃から大林寺の住職12世日好により、村民の困窮を救うために始められた麦わらを編んで作る細工ものを、東海道を往還する旅人達にに「土産品」として売り喜ばれたといわれます。
大森麦藁細工
現在の三原通りにも、1669年(寛文9年)に創業の老舗海苔の松尾が中原に店を構え、現在は環7通りに面した場所に移転しています。
寛文9年創業の海苔の松尾(左・中:現在の海苔の松尾、右:中原で営業の海苔の松尾)
南原の徳浄寺の門前には元祖甚三郎が1715年(享保元年)に駿府駿河の国安倍川のほとりより出府して茶店を開き、東海道を往来する旅人たちに、夏の暑さの疲れを癒すため、真夏の土用中だけ一皿の餅に渋茶を添えて、旅情を慰めたのがあべ川餅のはじめたのが、開業当初からの場所で営業しているのがあべ川餅の餅甚です。
また、三原通り沿いの中原に居を構え三浦屋提灯店は8代続く提灯屋の老舗で、流麗な江戸文字を手書きにした提灯や祝額、藍で染めたのれんなどを製作しています。
享保元年創業の餅甚(左・中・右写真拡大)
・海難供養塔
内川の河口付近の海岸沿いに、1855年(安政2年)海難事故にあった人々を供養するために、総高さが232cmの海難供養塔(大森東1-27区指定文化財)(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 津島神社2008年秋の例祭」参照)が建てられました。塔は、五輪塔の変形のような形で、水輪に当たる部分に胎蔵界大日如来の種子が刻まれています。
江戸市中や神奈川に及ぶ魚介業者をはじめ、町人、武士、役者等約300名の名が刻まれ、東京湾沿岸でも屈指の規模を持つ貴重なものです。
・羽田道
東海道から内川橋際(大森東2-2先)で分かれ、羽田東海道から内川橋際(大森東二丁目2番先)で分かれ、羽田や大師の渡しに向かう道です。分岐点付近に、歌舞伎にも出てくる「駿河屋(するがや)」という旅籠(はたご)があったことから「するがや通り」とも呼ばれます。内川橋から大鳥居交差点(東糀谷3-3先)までの旧道で、羽田でとれた魚などを運ぶ生活道路でした。
羽田道(左:羽田道石碑、中:駿河屋跡、右:羽田道石標)
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・大森村付近の東海道
日本橋を出発点とする東海道は、江戸時代初期に幕府が整備した江戸と京都を結ぶ、重要な交通路であり、参勤交代の大名行列のほか、一般の旅人にも大いに利用されていました。
大森村絵図
明治初年頃の大森村境界の不入斗村から北の大井村(現鮫洲付近)の東海道は、石垣の波打ち際の海岸線に沿っております。不入斗村に入って東海道を上っていくと、すぐ鈴ヶ森八幡(磐井神社 大田区大森北2-20-8)(「大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その1、2」参照)があり、その先には鈴ヶ森刑場跡から鮫洲を通り品川宿です。
江戸名所図絵 鈴の森八幡社
・大森村の東海道
大森村絵図の東海道北端は今の平和島入り口付近であり、ここから南に下り東海道は現在の三原通り(現美原通り旧東海道 大田区文化財 大森本町2-1付近から大森東1-4付近)(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)となり、街道の道幅は現美原通りと同一で3間余り(6m)です。三原とは、字名の北原、中原、南原の三原を示しています。
三原通り
・寄来神社
東海道を南に下ると、大森村絵図の時代には北原と中原の中間点付近の街道脇に三原の鎮守の寄来大明神が祀られています。由緒によると創建年代は不詳だが、1720年(享保5年)再建時の棟札に、1616年(元和2年)に社殿を改築したとの記述があります。1868年(明治元年)神祇伯・白川資訓王より「大森神社」の社号と額面を賜ったとあります。
なお、寄来神社は後に大森神社(大田区大森北6-32-12)と改称(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大森神社(寄来神社)」参照)して、現在は第一京浜国道脇に移転しております。
創建時と現在の大森(寄来)神社の場所
・徳浄寺
寄来神社から三原通りを南に下ると南原で海側に、1627年(寛永4年)四ツ谷に創建され、1688-1704年(元禄年間)に大森村へ移転してきた徳浄寺があります。徳浄寺(大森東1-16-22)は、浄土真宗本願寺派で山号を海松山と号し、開基は祐信、俗姓は菅原氏で豊島郡四谷に住み、日世智行の時念仏門に帰依し、本尊及び親鸞の影像と寺号を本山より下賜されました。13世秀山の子、教伝が当地に移し、大森徳浄寺の1世になりました。9世祐海が1830-44年 (天保年間)に本堂を建立しました。
徳浄寺
・三原通りの老舗
その2で、大森村には1688~1716年(元禄から正徳)にかけて、中原、谷戸、南原に三店の「和中散」の店が開店し、江戸中期頃から大林寺の住職12世日好により、村民の困窮を救うために始められた麦わらを編んで作る細工ものを、東海道を往還する旅人達にに「土産品」として売り喜ばれたといわれます。
大森麦藁細工
現在の三原通りにも、1669年(寛文9年)に創業の老舗海苔の松尾が中原に店を構え、現在は環7通りに面した場所に移転しています。
寛文9年創業の海苔の松尾(左・中:現在の海苔の松尾、右:中原で営業の海苔の松尾)
南原の徳浄寺の門前には元祖甚三郎が1715年(享保元年)に駿府駿河の国安倍川のほとりより出府して茶店を開き、東海道を往来する旅人たちに、夏の暑さの疲れを癒すため、真夏の土用中だけ一皿の餅に渋茶を添えて、旅情を慰めたのがあべ川餅のはじめたのが、開業当初からの場所で営業しているのがあべ川餅の餅甚です。
また、三原通り沿いの中原に居を構え三浦屋提灯店は8代続く提灯屋の老舗で、流麗な江戸文字を手書きにした提灯や祝額、藍で染めたのれんなどを製作しています。
享保元年創業の餅甚(左・中・右写真拡大)
・海難供養塔
内川の河口付近の海岸沿いに、1855年(安政2年)海難事故にあった人々を供養するために、総高さが232cmの海難供養塔(大森東1-27区指定文化財)(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 津島神社2008年秋の例祭」参照)が建てられました。塔は、五輪塔の変形のような形で、水輪に当たる部分に胎蔵界大日如来の種子が刻まれています。
江戸市中や神奈川に及ぶ魚介業者をはじめ、町人、武士、役者等約300名の名が刻まれ、東京湾沿岸でも屈指の規模を持つ貴重なものです。
・羽田道
東海道から内川橋際(大森東2-2先)で分かれ、羽田東海道から内川橋際(大森東二丁目2番先)で分かれ、羽田や大師の渡しに向かう道です。分岐点付近に、歌舞伎にも出てくる「駿河屋(するがや)」という旅籠(はたご)があったことから「するがや通り」とも呼ばれます。内川橋から大鳥居交差点(東糀谷3-3先)までの旧道で、羽田でとれた魚などを運ぶ生活道路でした。
羽田道(左:羽田道石碑、中:駿河屋跡、右:羽田道石標)
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