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kan-haruの日記

Kan-haru日記へのご訪問有難うございます 本日からKan-haru日記を第2部に衣替えします

2010年07月10日 | Weblog
kan-haru blog 2010 

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Kan-haru日記へのご訪問、誠にありがとうございます。お蔭さまで、これまでのご訪問者は41万を超え、閲覧数も116万を超えました。今後ともご閲覧の程を、宜しくお願い致します。

Kan-haru日記の記事で「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化」は、沢山の方々のご閲覧を頂いており、誠に感謝致しております。
京急の高架化も5月16日に上り線の高架化が開通し、これからは下り線の高架化工事を手掛けてまいります。下り線の高架橋の築造工事は、平和島と平和島第5踏切間、京急蒲田第6踏切と同第9踏切間、雑色第4踏切と六郷土手間および、糀谷第1踏切と同第2踏切手前の傾斜高架橋の4区間の工事となります。
下り線の高架橋の築造工事は、上り線の高架橋が築造されたため、周辺の地上からの展望は難しくなって参りましたので、車中からのビデオ撮影を主体として地上撮影も交えて掲載して参りますので、今まで以上のご閲覧をお願いします。

平和島ー大森町(地上線路).wmv


これから高架化工事が行われる平和島駅駅ー大森町間の下り本線地上ルート運転ビデオ(クリックすると再生できます)

Kan-haru日記の2番目のテーマの大森町界隈あれこれシリーズで、大森町の世界大戦の空襲、社寺、商店街、海苔、風景、イベントおよび大森町の学びやのカテゴリーを掲載してきましたが、新たに「大森町の昔を古地図で探る」を風景のカテゴリーの中に追加していきますので、よろしくお願いいたします。
下の図は、日本地図センター発行の月刊「地図中心」平成21年10月号の表紙です。表紙に書かれている絵図は、明治初期に作成された「大森村絵図」の一部です。この絵図の説明を大田区立郷土博物館の北村敏氏の説明によると、大森村は明治5年に東・西・北の大森村三村が統一されたので、絵図には三村が表示されているので、作成は明治元年7月から同5年の統合までに描かれてものであろう。中央の太い赤い帯が東海道で、右方が江戸である。細い赤線が村道で、水色が馬込村の谷戸を水源とする自然河川の内川で、内川の右から合流するのが六郷領35村の水田を灌漑し終えた六郷用水北堀の末流余水である。
東海道は内川板橋で繋がれ、橋の袂から羽田道が延びて厳正寺が接しています。大林寺などの寺社や小祠は、ほぼ今日と一致しています。大森村絵図の全体図(一橋大学蔵)は、縦155cm、横187.5cmと大きなもので、現存する大森の最古の地(絵)図で当時の大森の情報が手に取るようにわかります。この大森村絵図は大田区の「大田区史(資料編)諸家文書3」に所収されており、絵図を入手できましたので見て行きたいと思います。
また古地図は、東京府武蔵国荏原郡大森村明治14年5月発行を初めとして、大正、昭和の各時代の大森の地図を見て行きたいとおもいます。

 「地図中心」平成21年10月号の表紙の大森村絵図

その他の一般記事の風景・風物詩、小さな旅、旅ものがたりなどその他のカテゴリーの投稿記事には、従来の延長で掲載していきます。最近掲載を始めた小さな旅での龍馬シリーズは、勝海舟と西郷隆盛の大田区池上本門寺松涛園での会見記事を掲載したところです。これからも継続していきますのでご閲覧をお願い致します。

 池上本門寺松濤園案内図 

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