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大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その2

2010年07月18日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 大森村麦わら細工

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今回より古地図で昔の大森を探っていきますが、その前に大森を理解しておく必要がありますので、大森全般の地形や歴史および事柄について触れておきます。

大森の地名の変遷
明治以前の大森
・武蔵国
明治以前の大森村は、奈良時代から明治初期まで律令制により武蔵国に属しており、秩父、多摩、埼玉、足立、豊島、荏原郡などの21郡(後に22郡)が置かれていました。
武蔵国は、現在の埼玉県、東京都の大部分、および神奈川県川崎市と横浜市の大部分を含みます。

 武蔵国の郡構成

・荏原郡
江戸時代には荏原郡の村々は、六郷(34村)・馬込(13村)・世田谷(30村)・品川(13村)・麻布(5村)の5領に分かれ、合計で95ヶ村がありましたが。慶応から明治にかけては、武蔵知県事管轄、品川県、東京府と体制が混乱しましたが、明治初頭には三田・上高輪町・下高輪町・北品川宿・南品川宿を含む102ヶ町村となりました。
地域は現在の行政区画で目黒・品川のほぼ全体と、大田・世田谷の大半と、港・千代田・神奈川県川崎市の一部をあわせた範囲に及びます。

 荏原郡町村構成

明治時代後の大森
1867年(明治元年)に江戸を東京と改称し、武蔵の地に東京府が開設されましたが、1871年に一旦開設の東京府を廃止して、荏原、豊島、足立、葛飾、多摩の5郡を所管し、同時に飛び地の荏原郡世田ヶ谷村などの21ヶ村と多摩郡岡本村などの9ヶ村が東京府に移されました。

 明治初期大森村絵図

1872年(明治5年)に荏原郡の西大森村・東大森村・北大森村が合併して、大森村が成立。
1878年(明治11年)に東京府は府下を区と郡に分け、麹町区・神田区・浅草区などに旧幕時代の地称を付し東京15区を設け、市街地に隣接する旧街道宿場および農村部に荏原郡・東多摩郡・南豊島郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の6郡を置きました。荏原郡に属する旧大森区に該当する区域は、大森、不入斗(いりやまず)、新井宿、馬込、池上、石川、雪ヶ谷、市野倉、桐ヶ谷(馬込領桐ヶ谷)、堤方、下池上、徳持、久ヶ原、道々橋、鵜ノ木、嶺、下沼部、上沼部の18村に分かれました。
1889年(明治22年)市制・町村制が施行され、東京府は府下に旧15区の区域を市域とした東京市を設け、上記の18村は荏原郡大森村、入新井村(不入斗村と新井宿村が合併)、馬込村、池上村(池上、石川、雪ヶ谷、市野倉、桐ヶ谷、堤方、下池上、徳持、久ヶ原、道々橋の10村が合併)、調布村(鵜ノ木、嶺、下沼部、上沼部の4村が合併)の5村に編成されました。
1897年(明治30年)に 荏原郡大森村が町制を施行して大森町となりました。
その後、荏原郡の入新井村が大正8年(1919年)に入新井町に、池上村が大正15年(1926年)に池上町に、昭和3年(1928年)に馬込村と調布村が馬込町と東調布町に町制を施行しました。
1932年(昭和7年)に大森・入新井・池上・馬込・東調布の5町域をもって大森区が誕生し、東京市に編入されました。
1947年(昭和22年)に大森区が蒲田区を編入・改称し1文字ずつとって大田区が成立しました。大田区は東京23区の最南部に位置しています。

・大森村に隣接する旧村名と大森区・大田区の町名との対照
大森村絵図を読み解くために、絵図が描かれた1872年(明治5年)以前の大森村の隣接する村名と、明治22年(1889年)の市制町村制施行時の村名と大森区成立時の町名および現在の大田区の町名を対比して表示しておきます。

 大森村および隣接の村名、大森区・大田区の町名対照表

明治以前の大森村の歴史
明治時代以前の大森村の歴史を大森区史から抜粋してみました。
江戸時代の大森の資料を拾ってみると、「通俗荏原風土記」によれば大森海岸旧街道を三別して北、中、南原と呼ばれ、これを俗に三原と称せられ、昔は磐井神社領内に属し、八幡原耕地と称え、後年原八軒とも云ったとあり、家数八戸と記載されています。
徳川氏入国後、1573~1593年(天正年間)六郷領花井の郷大森村と称し、慶長、元和の頃に東大森村、西大森村、南大森村、北大森村の四個村に分割したが、元禄の頃廃置分合して東西北の三個村としました。
「新編武蔵風土記稿」によると、六郷領内の家屋総数は3700軒余で、最大は馬込村の307軒、最小は浜竹村の17軒となっている。地域的には大森地区に最も多く家屋の集中があり(東大森村300軒余・西大森村200軒余・北大森村180軒余)、平地、水田が多く、海浜で「漁猟・海苔」とされ、次いで羽田地区(羽田猟師町300軒余・羽田村270軒など)になっている。現六郷地区では、八幡塚村が152軒で筆頭、「水陸の田相半ば」とされ、その他の村はいずれも数十軒の規模であるとあります。
1605年(慶長9年)2月大久保長安幕命により、六十間を一町、三十六町を一里と定め、東海、東山、北陸三道に、一里塚を築き、新井宿、池上、多摩川の矢口に通じていたが廃せられて、鈴ヶ森磐井神社前から大森町を通過して、蒲田の梅屋敷に達する間、東海道、品川、川崎間の中宿として、大森は人足や駕籠かき等の替え場所となり、掛茶屋も街道に軒をつらねるようになり、当時の街道往来は想像以上の繁栄であったそうです。
その後、大森は幕府直轄の地となり、東、西、北の三村に分かれ、東海道の交通が煩雑になるにつれ、中宿大森村の人家が街道を挟んで増加し、街道の掛茶屋、旅人の荷物運搬人足の建場が設けられ、海路による交通荷物運搬等の利便のために、大森村の発展は他と比して急速な進展がみられました。
1854年(嘉永6年)に黒船が浦賀に来て通商を迫られたため幕府は沿岸警備の必要にせまわれ、「通俗荏原風土記」によれば東京湾防備として大森に台場を築き、幕府は加賀前田侯に警備にあたらせ中原の和中散の家を本陣としました。台場の跡は旧大森ガス会社(現ジャックニコラスG大森)の所在地でありました。

 江戸名所絵図大森和中散

「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重されました。1688~1716年(元禄から正徳)にかけて、大森村中原、谷戸、南原に三店が開業していました。このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、1818~1830年(文正年間)の始め、忠左衛門の子の久三郎の代に、梅屋敷に移転して庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開きました。梅屋敷公園に1975年(昭和50年)3月19日指定の大田区指定史跡の和中散売薬所跡があります(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 梅屋敷公園」参照)。

大森村の隣接の新井宿村と不入斗村全図
大森村絵図を見るにあたり、ここで隣接村の新井宿村と不入斗(いりやまず)村の地形図を見ておきましょう。
下図は、『入新井町史』(入新井町誌編纂部 編者 角田長藏 編集兼発行者 岩井和三郎 1927年(昭和2年)20日発行 非売品)の口絵で、明治9年に作成された新井宿村と不入斗村全図の絵図です。
絵図は右方が北で新井宿村と不入斗村の境界は、新井宿村は東海道線を境として上部分に、東海道線の下部分の紙田と永田が新井宿村であり、不入斗村は他の東海道線の下部分の大半と八景坂の一部が大森北一丁目に分かれて不入斗村に入ります。
明治時代には大森村ではありませんでしたが、大田区になった現在では、「長田、皿沼」は中央1、2、4丁目と山王3丁目ですが一部は大森北5丁目と大森西1丁目です。「河原作、西沼、新田」は大森西1、4丁目で、「八幡、潮田」が大森本町1丁目と大森北2、3丁目であります。「谷沢、谷中、川添」は大森北3、4、5、6丁目で、「中」は大森北1、3、4丁目で、「高田、堀後、根岸の一部」は大森北1、4丁目となっており、大森町界隈です。
明治初年頃は不入斗の多くは耕地であり、人家は少なかったのですが、現在になり人口の増加で町名が多くに分かれました。

 新井宿村と不入斗村全図

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