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大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その1

2007年09月03日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2007 再三の第一京浜国道拡幅で削られた境内

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歴史のある磐井神社(いわいじんじゃ)
磐井神社(大田区大森北2-20-8 地図参照)は、京浜電鉄大森海岸駅(「京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)」参照)から5分ほど南へ第一京浜国道に接した、大森町北端にある大変歴史の古い神社です。
磐井神社前の第一京浜国道東側には平和島競艇場があり、世界大戦終戦の1945年(昭和20年)頃より以前には東京湾の海岸線でした。

         磐井神社地図(拡大)             磐井神社境内図(拡大)

磐井神社の創記は、849年(嘉祥2年)の「続日本後期」に“奉授武蔵国伊波比神従五位下”とあり、859年(貞観元年)の「三代実録」に“武蔵国従五位下磐井神列官社”の記述が見られます。また、磐井神社の名は、927年(延長5年)にまとめられた全国の神社の一覧の延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に記術によると、式内社(10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社全国2861社)に、東海道武蔵国荏原郡に磐井神社と薭田神社の二座の名があります。

式内社の社格には、神社の重要度や社勢によって定められた大社と小社があります。また、幣帛の受け方により、神祇官から幣帛を受ける官幣社と、国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられております。
薭田神社の座には、(薭田神社大田区蒲田)、御田八幡神社(港区三田)、六郷神社(大田区東六郷)、八幡神社(大田区久が原)の四社があり、二座の神社の社格は国幣小社に属しております。

1590年(天正18年)に徳川家康が江戸下向の際に磐井神社に参詣しており、五代将軍綱吉は1689年(元禄2年)に参詣の折、磐井神社を幕府の祈願所としたと伝われております。

磐井神社の祭神は、1812年(文化9年)の「社伝略記」に、神座正面が応神天皇、左が大己貴命、仲哀天皇、右が神功皇后、姫大神とあります。
1732年(享保17年)の「江戸砂子温故名跡誌」の記述に、天正年中に山城國男山八幡宮から八幡大神を移遷して鈴森八幡宮と称したとあります。

磐井神社境内
国道などの主要道路に接している神社は、その道路が拡幅されると何れも境内を削られる(「大森町の社寺 貴管神社 国道拡幅により現境内で最後の夏祭り」参照)ことになり、磐井神社もその定めに従ってきました。

・戦災に遭った大イチョウ

            第一京浜国道拡幅で境内が削られた磐井神社

現在の境内(磐井神社境内図参照)は、第一京浜国道に接した鳥居をくぐると正面が本殿で、右手に手水舎があります。境内に入ると、左右にイチョウの大木があり、いずれも樹齢が300年以上で、樹高が16mほどで、幹周りは手水舎側のイチョウが4.9m、もう一方が3.5mあり、このイチョウには黒焦げの痕があります。

                         樹齢300年、幹周り4.9mの大イチョウ

イチョウの焼け痕は、1945年4月15日の世界大戦の大森町大空襲の戦災(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第7~10回)」参照)の時期に被ったもので、この時に磐井神社の本殿も戦火に遭い消失しました。本殿は1954年9月に再建され、1972年5月に社務所が新築されました。

1954年戦火で再建の本殿   1972年新築の社務所 新築記念碑(拡大) 

・磐井の井戸
鳥居の外の第一京浜国道の歩道に、大田区文化財の磐井の井戸(磐井神社境内図参照)があります。この井戸のある場所は、昔は磐井神社の境内であり、1965年(昭和40年)の国道拡幅時に歩道上にかろうじて残されました。

 磐井の井戸は鳥居の外 歩道の磐井の井戸(拡大) 大田区文化財磐井の井戸(拡大)

昔の旧東海道は、現在の第一京浜国道の東寄りの歩道上に幅員6~7mの道幅であり、北側では北品川(「風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その1~4)」参照)から鈴ヶ森処刑場跡付近までの旧東海道と結ばれ、南側では大森本町二丁目の大森スポーツセンター付近から大森東二丁目の大森警察署付近を通る三原通り(「大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)と結ばれております。
旧東海道時代には、磐井神社の東の沖合いの海浜までが境内であったとも云われております。

第一京浜国道は、旧東海道を西側に現国道幅のおよそ1/2の幅員に拡幅して、1918年(大正七年)に完成しました。その後、再三にわたり拡幅が進められ、1965年(昭和40年)に現在の幅員の国道となりました。

当時境内にあった磐井の井戸は、大田区の文化財であり、「日本総国風土記」の「武蔵の国風土記」の社名の由来の記載によると、『社のほとりにある磐井という井戸は、祈る者の願いが妄願であれば水は変じて塩味となり、正直であれば清水となる。近国の人々はこれを奇瑞とし、病者に飲ませると効験まさに神の如く、たちまちに病気が癒えたので、これを薬水とよんだという。』。
この伝説は、伴信友(1775~1846)の「神名帳考証」などで広く知られるようになったと云われています。

この井戸を調べてみると地下に大きな岩盤が存在し、その岩盤を掘りぬいたもので、海辺にありながら岩間から湧き出る水は真水であり、東海道筋にあたっており、往き交う人々の乾きを癒し、名水として知れわたり神水、薬水の伝説がうまれたものと思われるとあります(大田の史話その2より)。

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