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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図第2編第1回その1

2010年08月15日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 東都名所大森 歌川国芳 1832年(天保3年)

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明治初期の大森村
東海道
明治初期の大森村の絵図を見ると、道幅3間(5.4m)余りの東海道(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)が大森村の北端では海岸線に接して三原の北原を南に下り、人家の多い中原から南原を過ぎると内川にかかります。内川の内川橋の木橋を渡ると方向をやや西に傾け海岸線を離れ、大森山谷を過ぎると松並木の先は間(あい)の宿(「大森町の社寺 貴菅神社 東海道間(あい)の宿であった第1京浜国道際神社の夏祭り」参照)の谷戸で、その先は大森村の中央部で境界の北蒲田村となります。

内川
内川の川幅は2間(3.6m)余りで、大森村のほぼ中央を西から東へと流れ東海道付近で北に折れ、曲折して南原で再び流れを西に向けて三原に沿って海に排出します。内川の源流は、新井宿村から本流は北馬込付近の水源に達しており、他に2本の支流があり、1本は市野倉方面から、他の支流は池上方面の呑川から流れて(「大森町界隈あれこれ 内川風景 大森町を流れる昭和の面影 第2回」参照)きます。内川は海水が遡上するため塩分が強く、飲み水や稲作には適さなかったので、昭和の初期頃まで飲み水を売る「水売り」がいました。

 東京府武蔵国荏原郡大森村地図から昔の内川の流れを再現(再掲)

六郷用水
大森村一帯は、徳川幕府により江戸の穀倉地帯としての政策がとられたので、田んぼや畑の田園風景です。内川の水は塩分のため、田畑の灌漑用水には適しないため、徳川家康は江戸幕府の成立の前の1597年(慶長2年)に、多摩川左岸(大田)に六郷用水と、同右岸(川崎)に二ヶ領用水の開削工事を、徳川家家臣の小泉次大夫の監督により同時に行い1611年(慶長16年)に完成しました。来年2011年は、丁度六郷用水完成から400年(「大森町界隈あれこれ 六郷用水完成400年 「下袋村と六郷用水」水上写真展」参照)となります。
六郷用水は、六郷領から10数キロ上流の泉村(狛江市元泉2-8)に多摩川の取水口を設け、下流に向け用水堀を開削し、武蔵野台地国分寺崖線に沿って世田谷領を通り、六郷領矢口村の南北引分(大田区千鳥3-8-2)に達します。ここから蒲田・羽田方面灌漑用の南堀と、下池上・大森・新井宿方面灌漑用の北堀の二手に分かれ用水堀が進み、それぞれの堀から支流の内堀により配水されます。
大森村絵図では、大森村の末端の用水内堀の配水構成と内川または海への廃水の様子が手に取る様に見えます。先ずは青色で示す様に、大森村での用水内堀の配水の張り巡らし方が詳細に示されております。また、灌漑で使用した廃水用の川幅1間(1.8m)余りの堀川が大森村の北側境界を東に向け掘られ、東海道の近くの不入斗村の張り出し部境界で南に向きを変え、内川に放流するという設計が克明に示されています。
前回のその3で記載のように、1872~74年(明治初年)の「東京府志料」によると、大森村の戸数は1261戸、人口7541人で、田地が104町3反5畝20歩で、畑地が77町2反2畝11歩であり、六郷用水の農業用水利用の最盛期は明治末期でした。

 大森村絵図から内川、六郷用水、海苔養殖を探る

大森海苔養殖
大森の海苔が採れはじめたのは何時ごろかは定かでないが、鎌倉時代には採集し食用に供していたものと云われています。当時の海苔は今の様に干しあげたものではなく、生の海苔が波除の麁朶や石に付着したものを採って来て食用に供したものではないかと思われます。それを進歩させて、若芽のように乾したり、筵の上に広げて乾したりするようになり、やがて今日の紙の形になったのです。大森の堀の内の野口六郎左衛門が浅草の紙漉きを見て、海苔も紙漉きの様に加工して干すことにより、保存や販売するのに都合がよいと考え、今の様な乾し海苔を作りました。その子の二代目六郎左衛門が麁朶(そだ)を海中に建て、篊(ヒビ)と呼ぶ海苔採集方法を考案しました(大森区史から)。これにより、大森の海苔の生産は盛んになり、呑川沿岸や大森村の海岸線での冬の海苔干し風景は大森の風物詩ですが、1964年に大森の海苔の生産は終焉しました。

 大森村の冬の風物詩海苔干し(左:森ヶ埼海苔干場 日本画 安西啓明、右:昭和大東京百図絵版画 大森海苔乾し 小泉癸巳男 大田区海苔物語から)

江戸時代の海苔養殖は、海岸の浅瀬に篊(ヒビ)と呼ぶ麁朶(そだ)木を建て、そこに海水に浮遊の海苔の胞子を付着させ、葉状に成長するのを待ち育成し、多量に生育・採取する方法が品川・大森の海苔養殖の発祥(「大森町界隈あれこれ 大森海苔物語 のり祭り」参照)で、「品川宿書上」[1843年(天保14年)]や「嬉遊笑覧」[1830年(文政13年)]に見られ、ヒビを用いた海苔の養殖は1716~36年(享保年間)には本格したと見られています。

 ヒビ建てとヒビの海苔採り(左:海苔養殖のヒビ建て[昭和初期頃まで]、右:ヒビの海苔採り 大森では手入れと呼び、明治期では12月上旬でした 大田区海苔物語から)

海苔養殖は幕府の許可を得た村のみで、品川宿の海晏寺門前・品川寺門前・南品川宿・品川漁師町、大井村、不入斗村、大森村、糀谷村に限られていました。

 海苔の製造1(左:洗い笊で海苔を洗う、中:海苔を刻む、右:海苔付け 大田区海苔物語から)

品川・大森の海苔養殖は、当初には海辺の農村の冬期の副業として開始されたが、その後効率的な農閑余業として価値を高めていき、農漁村の海苔生産に携わった割合は1838年(天保9年)には大森村では42.3%の383戸が、大井村では34.3%の188戸で、専業漁村の品川漁師町では72.6%の82戸が海苔魚業に関与しました。

 海苔の製造2(:東海道名所図会 竹原春斉他画、:海苔簾の裏から乾し具合を見て表へ返す、:海苔はがし 大田区海苔物語から)

江戸前の海産物の干し海苔は御膳海苔と呼ばれ、将軍家やその菩提寺の寛永寺、紀伊・尾張・水戸の徳川御三家に上納され、当初の御膳海苔の供給地は品川宿と大井村であったが、1833年(天保4年)からの無償提供になってから、天保7年の上納では大森村が38石を負担し、品川側が12石を賄うことになり、近隣村からの漁場の拡大や配置換えの申請に対して、御膳海苔に悪影響を被るとして阻止理由の大義名分としたようです。
1868年(明治元年)に江戸幕府から明治政府へと献上先が変わっても、海苔漁業に従事出来たのは、江戸期からの品川宿、大井村、不入斗村、大森村、糀谷村の5地区だけでありました。この秩序が破られたのは大森村が明治政府に5000両を提供し、新たに2万7500坪の漁場を獲得したのが契機となり、さらに、これまで永らく海苔漁業の枠外に置かれた羽田地区に対して着業の申請を促して、羽田の進出に異を唱えなかったので、1874年(明治6年)に羽田村は1万2500坪の追加認可を受けられました。これにより、大森村は羽田村より8000坪の行使権を得て、周辺地区の業者の容認と引き換えに、漁場の拡大策に転じました。(大田区海苔物語 大田区郷土博物館平成5年発行から)

 海苔漁場の変遷(大田区海苔物語から)  

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