
ランナー(幻冬舎)
★★★★:80点
あの名作「バッテリー」の著者“あさのあつこ”さんの新作です。
さすがは“あさの”さん、陸上競技を描いた単純なスポーツ小説、青春小説ではないだろうなと思っていましたが、予想以上に奥深い作品でした。
(単行本帯より)
走る。
それしか、手立てはない。
少年の焦燥と躍動する姿を描いた、青春小説の新たなる傑作!
「おれは走れないんじゃない、走らないだけだ、そう信じたくて、
逃げちまったんだ」
長距離走者として将来を嘱望された高校一年生の加納碧李は、複雑な境遇の
妹を案じ、陸上部を退部することを決意した。
だがそれは、たった一度レースに負けただけで走ることが恐怖となってしまった
自分への言い訳だった。
走ることから、逃げた。逃げたままでは前に進めない。
碧李は、再びスタートラインを目指そうとする----。
本書の主題は家族の物語(「家族の肖像」?)であり、そこにランナーの美しさ、走ることの喜びと苦しみが絡められ、さらに人を想う切ない心が見事に描かれています。主人公は、高校生で長距離ランナーの加納碧李(かのうあおい)と陸上部のマネジャー・前藤杏子の二人でしょうか。そして、碧李の母・千賀子と妹・杏樹がとても重要な役割を演じています。
義弟夫婦の交通事故死に責任を感じる母・千賀子。娘・杏樹を愛したいのに素直に愛せない苦悩。母に愛されたいのに愛してもらえない杏樹。その悲しみ。そんな母と妹の溝を埋めることに全神経を使わざるを得ない碧李。非常に厳しい側面を抱えた家族です。実は杏子の家でも家族の問題を抱えていた・・・。
優れたランナーの資質を持つ碧李(あおい)だが、一度のレースの敗北で走ることに対する恐怖に縛られてしまう。走ることをやめた安堵感と挫折感の表現が見事。陸上部では唯一ともいえる親友でハードラーの久遠(くどう)信哉。彼には走れなくなることの恐れがつきまっとている。久遠はやがて走れなくなる自分の気持ちを碧李に託そうとする。
生まれながらにして長距離ランナーの資質を持つ加納碧李(かのうあおい)。彼の走りにまっすぐな眼差しを注ぐ東部第一高校陸上競技部監督、箕月衛(みつきまもる)。その箕月の背中を横顔を見つめるマネジャー・前藤杏子。
実は私がこの作品で最も印象に残ったのは、家族の物語でもランニングのシーンでもなく、この3人の微妙な心のふれ合いとすれ違いでした。ことに杏子の視点から描かれるシーンが秀逸。私がふだん読む小説ではあまりこのようなシーンがないので、余計に印象に残ったのかもしれません。女性読者にとってはありきたりのシーンなのかな?でも、あさのさん独特の雰囲気がよく出ていると思います。
以下、********で囲まれた部分は、いいなあと思ったシーンの抜粋です。
私の備忘メモも兼ねているため長々と失礼。
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「もしもし、杏子です」
さりげなく名前を口にする。
杏子です。先生。
「わたしがマネの仕事をするのは、選手が練習してるのと同じです。
好きだからやっている、それだけなんです」
余計な気遣いなど無用だ。負担をかけるなどと、的外れな気遣いをするより・・・
杏子は、気取られぬように息を呑み込み、胸を押さえた。
マネジャーとして気遣うより、わたしを見て。わたしだけを見て。
「選手ばかりを見るんじゃなくて、そういうとこもちゃんと、見ていてください」
ちゃんと見てください。
わたしをわたしだけを見て。
「おまえ、よく人間がわかってるんだな。おれの十七歳のときなんて、なーんも、
わかってなかったぞ。ずいぶん、鈍かったよなあ」
今でも充分、鈍いですよ、監督。なーんも、わかってないです。
わたしにはわからない。わたしは、ランナーではないのだ。わたしは、ランナーには
なれない。
・・・
あの人にも加納くんにも、手が届かない。
眼球が熱くなる。胸が締めつけられる。淋しくて堪らない。止めようがなかった。
驚くほど熱い涙が、湧き上がる。嗚咽が漏れる。
「加納くんが、いけないんだ・・・加納くんが・・・」
「はい」
ずっと前から気がついていた?
ほんとうに、ほんとうに、そうですか、監督。濡れて光る唇の意味を、わたしが
何を求めているかを、ほんとうに気がついているのですか。
空気がすっと緊張した。箕月が身じろぎする。
顔を上げた杏子の前を、加納碧李が過ぎていく。
・・・
さっきまで、杏子に向けていた視線とは明らかに違う。いささかもぶれず、鋭く、
きりきりと絞られている。
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お杏。
時折、箕月にそう呼ばれる。呼ばれる度に乳房の奥が鼓動を打つ。たった一声で、
ほんの一言で、こうも心を乱される。馬鹿みたいだと思いもするけれど、どうにもなら
ない。
「え?」
「加納くんに、個人的に惹かれています」
箕月の目がまともに杏子にぶつかってきた。瞬きもせずに見つめてくる。
そうよ、そんな目でみつめてよ。マネジャーでも生徒でもなく、あなたの前に立って
いるわたしをわたしとして見てよ。
挑むように顎を上げる。
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「ミッキーよ。やっぱ、何かと気になるみたい」
杏子の瞳に柔らかな光がともる。頬が仄かに色づく。恋をする心というものは瞳や
肌から、本人さえも知らぬ間に染み出してしまうらしい。
この人は・・・。
想いを胸にしまったまま去っていくつもりだろうか。それとも、失うことを覚悟の上で、
全てを告げるのだろうか。
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いやあ、なかなか切ないシーンの連続ですね。なーんもわかっていない箕月監督が秀逸。男なんて所詮そんなものです(?)。いや、碧李は感受性が鋭く、人の心の動きに敏感です。それ故に千賀子と杏樹の間で耳をそばだて、神経をすり減らし、ランナーとしての才能をその中に押し込めていってしまう・・・。
それにしても、この本は続きは書かれないのでしょうか。それが気になりました。
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◎参考ブログ
そらさんの”日だまりで読書” (2007年10月19日追加)
親子や家族、児童虐待についての考察が詳しいです。