香港を第二のハンガリーにしてはならない

香港を第二のハンガリーにしてはならない
 見たい番組がなかったので、チャンネルを変えていたがNHKの画面になった時止めた。番組はすでに始まっていた。教室の高校生が映り、ナレーターか「ハンガリーの犠牲者のために2分間の黙とうを捧げた・・・・」と話していた。私は「ハンガリーの犠牲者」と聞いた途端にそれがなんのことか分かったし、番組に興味を持った。
時代は1956年、場所は東ドイツの高校だった。高校生が教師に許可なく理由も説明しないで授業中に2分間の黙とうをしたことが問題になり、黙とうの目的、主導者ば誰かを厳しく問い詰められていった。番組は冷戦下の東ドイツで起きた高校生19人の2分間の黙とうとその後を追ったものだった。
ネットで調べると、そのことが映画化されていた。NHKは映画化を知って番組を作ったのだろう。
映画は『僕たちは希望という名の列車に乗った』である。この映画はまだ東ベルリンと西ベルリンを分ける壁ができる前のことである。ベルリンの壁ができたのは1961年であったらしい。それまでは東西ベルリンは自由に行き来できた。1956年には壁はなかったのだ。私は初めて知った。


ベルリンの壁がなかった1956年に東ドイツのスターリンシュタット(現在のアイゼンヒュッテンシュタット)の高校に通うテオとクルトが、西ベルリンに行って映画を見た。映画の合間のニュースで二人はハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を目の当たりにした。
クラスの中心的な存在であるふたりは、級友たちに呼びかけて授業中に2分間の黙祷を実行し た。それは自由を求めるハンガリー市民に共感した彼らの純粋な哀悼だったが、ソ連の影響下に置かれた東ドイツでは社会主義国家への反逆と見なされる行為だった。
やがて当局が調査に乗り出し、人民教育相から直々に一週間以内に首謀者を告げるよう宣告された。もし、首謀者を告げなければ彼らは高校を退学させられ大学進学の道が断たれる。生徒たちは人生そのものに関わる重大な選択を迫られたのである。大切な仲間を密告してエリートへの階段を上がるのか、それとも信念を貫いて大学進学を諦め、労働者として生きる道を選ぶのか・・・・。彼らは過酷な選択を迫られた。
人生のすべてを懸けて下した彼らの決断は黙秘することだった、 脅しにも負けず大人たちに抗う彼らであったが、クラスのみんなを犠牲にすることに耐えきれず、リーダーの一人は自分がリーダーであると白状する。白状した彼は東ドイツでは一生虐げられた生活をしなければならない。彼は両親と別れて一人で西ドイツに亡命する。NHKではその後の彼らが大学に進学し、エリートの道を歩んだことも描いていた。
 
ハンガリー動乱は60年以上も前のことであり、しかもハンガリーだから知っている人はほとんどいないのではないだろうか。私は学生運動に参加し、しかも革マルだったからハンガリー動乱のことを知っている。ハンガリー動乱は革マルを誕生させたという歴史もある。

ハンガリー動乱
 ハンガリー動乱は、1956年にハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起のことである。ハンガリー事件、ハンガリー暴動、ハンガリー革命ともいう。
第二次大戦直後にハンガリーでは国民選挙が行われた。独立小農業者党が大勝しハンガリー第二共和国が成立した。ティルディ・ゾルターンが大統領となった。しかし1947年にソ連軍を後盾とする共産党がクーデターをおこし、ヨシフ・スターリンに忠実だったラーコシ・マーチャーシュが全権を握った。それは共産党による代議制民主主義の破壊である。

共産党独裁のハンガリーの経済は悪化し。1952年には7割まで労働者の給料が急速に落ち込んだ。労働者の不満は工場の自主管理と労働組合の結成の自由の要求という形となり、それはサッカー場での暴動という形で現れた。また、農民たちも政府の強制的な集団化によって悲惨な状況にあり、農地の私有と耕作の自由を要求していた。共産党独裁国家では農地も工場もすべて国の所有である。
ハンガリーの国内問題を見直そうとする動きが学生やジャーナリストの間に広がった。スターリン主義者のゲレー・エルネーが選出されたが、これに反発した市民は集会禁止令にも関わらず、ブダペストで大規模なデモを行なった。そして、民主主義を求める労働者、市民とソ連軍の戦いになった。
武力に勝るソ連軍によって労働者、市民の蜂起は鎮圧され、およそ1200人が処刑され、20万人が難民となって亡命した。

テレビで「ハンガリーの犠牲者」と言った瞬間に犠牲者とはハンガリー動乱の時に犠牲になった人々のことであることを知っていた。ハンガリー動乱とは社会主義の独裁政治に反対した労働者が蜂起したことである。ハンガリー革命ともいう。蜂起はハンガリー軍ではなくソ連軍により鎮圧された。その時に数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡した・・・と学生の時に聞いていた。ハンガリーの市民、労働者の放棄こそが本当の革命である考えていた私は、労働者の蜂起を否定した共産党や社会党には反発した。

ハンガリー動乱は日本の共産主義者に大きな影響を与えた。ハンガリー動乱で労働者の蜂起を弾圧したソ連を批判したのが黒田寛一たちであった。彼らはソ連を批判し、日本共産党もソ連を批判するべきであると幹部に要求したが幹部は軍の弾圧を容認した。
宮本顕治が党中央委員会の多数派を占める日本共産党は、ソ連の武力介入を機にハンガリー事件について、蜂起した市民、労働者を反革命家とした。
黒田寛一はハンガリー事件に対しソ連を擁護した社会党や日本共産党と絶縁した。黒田はこの後「革命的マルクス主義」という独自の思想を展開し、その実践として「日本革命的共産主義同盟」を創設し、新左翼の先駆けとなった。革共同は「反帝国主義・反スターリン主義を掲げていた。米国は帝国主義、ソ連はスターリン主義であるとして米国、ソ連を打倒するのを目指していた。革共同は革マル派と中核派に分裂する。

ソ連が崩壊すると、ハンガリーは多党制に基づくハンガリー第三共和国を成立した。1990年代にはヨーロッパ社会への復帰を目指して改革開放を進め、1999年に北大西洋条約機構 (NATO) に、2004年に欧州連合 (EU) に加盟した。

ハンガリー動乱は60年以上も前のことであり社会情勢は現在の香港と違うが香港の運動はハンガリー動乱と同じように社会主義を否定して民主主義社会を目指した闘いだ。
ハンガリーの民主主義運動はソ連の軍隊に潰されたが、香港の民主主義運動はハンガリーの二の舞になってはならない。香港の市民運動の敗北は民主主義の敗北である。勝利するのは困難であるが達成しなければならない。。
習近平国家主席は、「中国のいかなる地域で分裂を図るいかなる者も打ち砕かれるだけだ」といった。反政府抗議活動が続く香港などの問題で習氏は強硬姿勢を改めて鮮明にしたとマスメディフは報道した。しかし、ハンガリー動乱のように中国軍で弾圧すれば世界から非難されるだろう。中国は経済を発展させ、一帯一路を展開しなければならない。だから他国とは仲良くしなければならない。世界二位の経済大国になった中国は軍事力を簡単に使えなくなった。天安門事件のように軍事力を使えないのが習政権の弱点である。軍事力以外のあらゆる手を使って香港の民主主義運動潰しをしてくるだろうが香港のデモは香港中を這いずり回り、潰されても潰されてもアメーバーのように蘇生し続ける。香港の民主主義アメーバーは中国本土にも侵入し這いずり回るようになるだろう。
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