日本の舞子、遊女 韓国の妓生、酌婦は性奴隷だった



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封建時代は売春婦=性奴隷であった その認識のない日韓学者の愚かさ2
日本の舞子、遊女 韓国の妓生、酌婦は性奴隷だった

妓生 (きしょう、기생、キーセン)
諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕などをするために準備されたの身分の女性(「婢」)。妓生は舞子と同じように少女に時に買われ、楽着を英才教育させられたのである。妓生も性奴隷であった。
遊女
 舞子や妓生に比べ芸はの質は低く酌婦とセックスを中心に客の相手をしたのが遊女であった。舞妓や妓生が身分の高い武士や大金持ちの承認を客にしていたのに比べ遊女は身分の低い武士や町人を客にした。彼女たちは吉原を中心に働いていた。時代劇によく出てくるのが吉原である。
 遊女は色々な事情で売られて吉原に来た女性たちである。
・農村・漁村などの貧しい家庭の親が、生活難のため娘を妓楼に売る。妓楼とは吉原の表通りにあった建物で遊女が客の相手をする建物である。
・貧しい下級武士の家の親が生活難のため娘を妓楼に売る
・不況や事業の失敗などで没落した商家の親が借金のカタに娘を妓楼に売る
・悪い男にダマされて若い娘が妓楼に売られる。

金額に関しては、農村部での場合、3~5両(現在のおよそ30~50万円)で幼女を女衒が買ったという記録があります。下級武士の娘の場合だと18両(およそ180万円)で買われたという記録がある。

年季は最長10年で27歳(数えで28歳)で年季明けとなり晴れて自由の身になれるのが原則であった。
 遊女は買われたのである。買われたということは妓楼主の私有物となる。私有物だから給料はなかった。だから自身が売られた時の代金は自分の借金となっていたが遊女の時は収入がなかったから返済することはできなかった。自分の着物や髪飾り、化粧品などは妓楼主が与えた。曲芸をするサルや犬と同じである。生活のための物は与えられたが彼女たちが自由に使える給料は与えられなかった。この吉原のシステムのために借金はまったく減らなかった。働いても働いても楽にならずであった。二十八歳になれば遊女としての価値がなくなる。だから年季明けにして吉原から追い出したのである。吉原から追い出された遊女は一人で生きていかなければならなかった。
年季明けになった遊女たちのその後
・そのまま妓楼に残って、「番頭新造」として花魁の雑用をする(原則お客はとらない)。もしくは「遣手(やりて)」として遊女の監視・管理係となる
・吉原のすぐ外にある「河岸見世(かしみせ)」と呼ばれる安い妓楼へ移籍する
・岡場所や宿場の女郎屋などで色を売る
・「夜鷹」と呼ばれる筵(むしろ)1枚を抱え辻に立つ最下級の街娼となる。

吉原を出る方法が年季明け以外に二つあった。一つは吉屋チルーのように死を選ぶことである。
「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば……」のセリフで有名近松門左衛門による大ヒット人形浄瑠璃『曽根崎心中』は大坂で実際に起きた遊女「はつ」と醤油屋の手代との心中事件を題材にした作品である。

死以外に吉原から出る方法は金持ちのお客さんにお金を払ってもらうことである。これを「身請(みうけ)」といった。
 身請代は、その遊女の身代金 + 遊女のこれまでの借金 + これから稼ぐ予定だったお金 + 妓楼のスタッフや遊女の妹分らへのご祝儀 + 盛大な送別会の宴会料 + 雑費などであった。
 身請金は下級クラスの遊女で40~50両(現在の金額でおよそ400~500万円)、中流クラスの遊女なら少なくとも100両(およそ1000万円)、トップクラスの花魁ともなれば1000両(およそ1億円)以上もの身請金を払ったという例もあるほどであった。やはり遊女は商品であり売買でしか決着はつかなかったのである。

 江戸時代の舞子、遊女は金で売買された性奴隷であった。日韓併合する前の大韓国帝国の妓生や酌婦なども性奴隷であった。封建社会では身分制度があり貧富の差は大きかった。そして、奴隷も存在していた。王族や武士階級が支配する封建社会までは奴隷が存在し、実技団や売春婦は性奴隷であったのだ。この歴史的事実を正確に認識しなければ慰安婦問題の真実は見えない。
 最近、痛切に感じることはほとんどの学者が封建時代の性奴隷の問題を追及しないで歴史的な性奴隷の認識なしに慰安婦問題を論じることである。慰安婦が性奴隷か売春婦を論じる前に大韓帝国時代の売春婦は妓生を含めてすべて性奴隷であったことを認識しなければならない。
 明治政府になって「娼妓取締規則」が施行された。この法律は遊女を性奴隷から解放し、職業婦人として認める法律であった。封建社会から近代社会へ移行する象徴的な法律であった。この法律はイギリス人の弁護士の批判なしには生まれなかった。
遊郭を奴隷制度だと非難し、改革させるきっかけになったのがマリア・ルス号事件であった。マリア・ルス号事件をきっかけに明治政府は遊女を奴隷から解放する。
マリア・ルス号事件
一八七二年(明治五年)七月九日、中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス号が横浜港に修理の為に入港してきた。同船には清国人(中国人)苦力(クーリー)二三一名が乗船していたが、数日後過酷な待遇から逃れる為に一人の清国人が海へ逃亡しイギリス軍艦(アイアンデューク号)が救助した。そのためイギリスはマリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断しイギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請した。
知っている通り明治政府は四民平等を宣言した。四民平等は奴隷制度を否定している。そのため当時の副島種臣外務卿(外務大臣)は大江卓神奈川県権令(県副知事)に清国人救助を命じた。しかし、日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかった。このため政府内には国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見もあったが、副島は「人道主義」と「日本の主権独立」を主張し、マリア・ルス号に乗船している清国人救出のため法手続きを決定した。

マリア・ルス号は横浜港からの出航停止を命じられ、七月十九日(八月二十二日)に清国人全員を下船させた。マリア・ルス号の船長は訴追され、神奈川県庁に設置された大江卓を裁判長とする特設裁判所は七月二十七日(八月三十日)の判決で清国人の解放を条件にマリア・ルス号の出航許可を与えた。だが船長は判決を不服としたうえ清国人の「移民契約」履行請求の訴えを起こし清国人をマリア・ルス号に戻すように訴えた。
この訴えに対し二度目の裁判では移民契約の内容は奴隷契約であり、人道に反するものであるから無効であるとして却下した。ところが、この裁判の審議で船長側弁護人(イギリス人)が、
「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」
として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出した。
 その頃の遊女は親の借金のかた=抵当として遊女にさせられ、利子代わりつまり無報酬で働かされていた。親が借金を返すまでは遊郭から出ることはできなかった。貧しい親に借金を返済することはできるはずもなく、遊女は一生解放されなかった。それは奴隷同然であり、船長側弁護人の政府批判に明治政府は反論できなかった。痛いところを突かれた明治政府は公娼制度を廃止せざるを得なくなり、同年十月に芸娼妓解放令が出され、娼婦は自由であるということになった。
 この驚くべき事実をほとんどの人が知らないようである。

裁判により、清国人は解放され清国へ九月十三日(十月十五日)に帰国した。清国政府は日本の友情的行動への謝意を表明した。

明治政府は士農工商の身分制度を廃止して四民平等の社会にした。それは奴隷制度の否定でもある。だから、奴隷である清国人(中国人)苦力二三一名を解放したのだ。しかし、奴隷制度を否定している日本が遊女を奴隷にしていると指摘された。そのために明治政府は公娼制度を廃止し、同年十月に遊郭の娼婦たちを自由にする芸娼妓解放令を出さざるを得なくなった。明治政府は一時的ではあるが遊女を完全に自由にしたのである。

明治政府は四民平等政策を推し進めていていったが、売春禁止はやらなかった。四民平等といっても日本はまだまだ男尊女卑の社会だった。それに遊郭からの税収は莫大であったから政府としては簡単に遊郭をやめるわけにはいかなかった。芸娼妓解放令を出した明治政府であったが、遊郭を存続させたいのが本音だったのである。また、遊女を自由にしてしまうといたるところで売春ができることになり、それでは世の中が乱れてしまう。四民平等=奴隷否定と遊郭の問題で明治政府は苦心する。
明治五年に遊郭の遊女は奴隷であると指摘されて芸娼妓解放令を出してから二十八年間試行錯誤を積み重ねていった明治政府は明治三十三年に「娼妓取締規則」を制定するのである。


一八八九年(明治二十二年)、内務大臣から、訓令で、これより娼妓渡世は十六歳未満の者には許可しないと布告された。

一八九一年(明治二十四年)十二月までは士族の女子は娼妓稼業ができなかったが、内務大臣訓令によりこれを許可するとした。

一九〇〇年(明治三十三年)五月、内務大臣訓令により、十八歳未満の者には娼妓稼業を許可しないと改正された。

一九〇〇年(明治三十三年)十月、内務省令第四十四号をもって、娼妓取締規則が施行された。これによって、各府県を通じて制度が全国的に統一された。

昭和四年には、全国五一一箇所の遊廓において貸座敷を営業する者は一万一一五四人、娼妓は五万五十六人、遊客の総数は一箇年に二二七八万四七九〇人、その揚代は七二二三万五四〇〇円であった。

マリア・ルス号事件を体験した明治政府が「娼妓取締規則」を作るにあたって、最も注意を払ったのは公娼は本人の自由意志で決める職業であり奴隷ではないということであった。そのことを示しているのが娼妓取締規則の条文にある。

第三条に、娼妓名簿に登録する時は本人が自ら警察官署に出頭し、左の事項を書いた書面を申請しなければならないと書いてある。娼妓になるのは強制ではなく本人の意思であることを警察に表明しなければならなかったのである。

第十二条に、何人であっても娼妓の通信、面接、文書の閲読、物件の所持、購買其の外の自由を妨害してはならないと書いてある。娼妓の自由を保障している。

第十三条の六項では、本人の意に反して強引に娼妓名簿の登録申請又は登録削除申請をさせた者を罰すると書いてある。
娼妓の住まいを限定する一方で行動の自由を保障しているから娼妓は奴隷ではないと明治政府は主張したのである。娼妓が奴隷ではないということは四民平等を宣言した明治政府にとって近代国家として世界に認められるかどうかの深刻な問題であった。

多くの評論家が、明治政府が売春婦を性奴隷にさせないために「娼妓取締規則」を制定したという肝心な事実を軽視している。

韓国の自称元慰安婦たちが日本軍に性奴隷にされたと日本政府を訴えているが、戦前の日本政府と日本軍は「娼妓取締規則」を遵守し性奴隷をなくすために努力していた。法治国家であった日本にとってそれは当然のことである。
日本軍が強制連行をやり性奴隷にしたという自称元慰安婦たちの主張は明治政府の四民平等と法の精神を踏みにじるものである。
      「少女慰安婦像は韓国の恥である」
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笑ってしまう 「表現の不自由展・その後」が「鑑賞の不自由展・現在」に

笑ってしまう 「表現の不自由展・その後」が「鑑賞の不自由展・現在」に
愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」は8日午後2時10分に再開した。ところが見学するのは不自由なのだ。鑑賞したい人全員が鑑賞できるわけではない。
1回あたり30人に限られ、一日にたった2回である。その上解説する教育プログラムを受けなければならない。鑑賞する前に教育されるのだから自由な鑑賞ではなく、洗脳鑑賞である。芸術の一番大切なことは自由な気持ちで鑑賞することである。「表現の不自由展・その後」は不自由な鑑賞展である。

鑑賞に来た人々は愛知芸術文化センターの中で長い列を作り、番号が書かれたリストバンドを受け取った。芸術祭の担当者によると、その後、コンピューターによる抽選で30人が選ばれた。倍率はなんと20倍であり、20人の中のたった一人しか鑑賞できない。
自由な気持ちで鑑賞することができず、自由に鑑賞することができないのが「表現の不自由展・その後」である。正真正銘の「鑑賞の不自由展・現在」である。不自由に満ち溢れた「表現の不自由展・その後」には笑ってしまう。

報道では少女慰安婦像を問題にしているがそれよりも問題であるのは「昭和天皇の写真を焼き、足で踏みつけるような映像作品の公開」である。少女慰安婦像よりも昭和天皇の写真焼きのほうが日本国民には分かりやすい問題である。 
抗議電話をした愛知県民は、主に昭和天皇の御真影を燃やしていることについて抗議したにもかかわらず、愛知県は勝手に昭和天皇に関する部分をカットし、所謂「少女像」に関する部分だけの音声を全世界に向けて公開した。昭和天皇写真焼きが伏せられたのである。愛知県と同じようにほとんどの報道は少女慰安婦像についてだけ報道している。ほとんどのマスメディアは国民がもっとも反発し怒るであろう昭和天王写真焼きを隠しているのである。

夕刊フジは、
「昭和天皇の写真を焼き、足で踏みつけるような映像作品の公開への税金投入をどう思いますか」
の世論調査をした。
(投票、約66590票)
〇賛成3%
〇反対94%
〇どちらでもない3%

反対が94%と圧倒的に多い。当然のことである。
「鑑賞の不自由展・現在」は税金を使って展示すべきものではない。

河村市長「やめてくれ」 不自由展再開に抗議の座り込み
2019/10/08 15:22


愛知県庁の前に座り込み、抗議の声をあげる名古屋市の河村たかし市長=2019年10月8日午後2時35分、名古屋市中区、岩尾真宏撮影
(朝日新聞)
 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の再開を受けて、河村たかし名古屋市長は8日、不自由展の会場の名古屋市東区の愛知芸術文化センター前で、再開に抗議する座り込みをした。
 河村氏は自らが率いる地域政党「減税日本」の市議や愛知維新の会の幹部ら数十人が集まる抗議集会に午後1時56分に姿を見せた。河村氏は、愛知県や市などでつくる実行委員会が芸術祭を主催することから展示内容を県民や国民が認めることになるとして「表現の自由に名を借りて、世論を暴力的にハイジャックするのはやめてくれ」などと訴えた。
 その後、「陛下への侮辱を許すのか!」と書かれたプラカードを手に約5分間座り込みをし、集会に参加した人たちの「県は公金の不正使用を認めるな」「知事は名古屋市民の声を聞け」「天皇の御真影を燃やすな」との呼びかけと共に拳を突き上げた。
 午後2時半には、愛知県庁前に移動し、シュプレヒコールをあげた。河村氏は「愛知県に抗議したい」と述べ、「昨日も(愛知県の大村秀章)知事に電話したが、勝手に再開を決めてとんでもないことですわ。暴力もはなはだしい。そんな人が何が表現の自由だ。いい加減にしてもらいたい」と訴えた。県庁前の路上に座り込み、「県は市との協議に応じろ」と拳をあげた。
 河村氏は8日午前に不自由展を視察した後、記者団の取材に「再開をやめてもらわないかん」と改めて展示中止を訴えていた。

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「マスクを着ける権利ある」香港デモ覚悟の抗議

「マスクを着ける権利ある」香港デモ覚悟の抗議

香港デモ動画


警察との衝突
「これまで香港では、平和的なデモで民主化や自由を訴えてきた。でも政府は対応してくれず状況は悪化するばかり。だからこうした行動に出るほかなかった」

英国から解放され、中国に返還されたときは、ようやく自由になったと喜んだが、
「それからの香港は良くなるどころか、悪化するばかりで、英国領時代に許されてきた言論の自由が今なくなろうとしている」

「私たちの多くは、元をたどれば中国人。中国の血を引く香港人がほとんどだ。だから私は、中国人を悪く言おうとは思わない。だが今の中国のように、香港に自由がなくなってしまうのは許せない」。

逃亡犯条例が可決されたら、
「一般市民だし、自分の生活に関わることはないと思う。でもこれが可決されたら、一国二制度が完全になくなってしまうも同然だ」


覆面を禁止する緊急条例が施行された香港では6日、条例を無視して数万人規模の抗議デモが行われ、警察が民主派のデモ参加者に向けて催涙弾を発射する事態となった。そうした中、深水ホ(Sham Shui Po)地区では、タクシーが取り囲む群衆の中に突っ込み、さらにタクシーの運転手が袋だたきに遭い、血まみれとなる騒ぎがあった。
 ウォン(Won)という名字を名乗った目撃者はAFPの取材に対し、「少女2人が車と衝突しはねられ、少女1人が車と商店の間に挟まれた」と説明。群衆は車を何とか押しのけて、負傷した女性から引き離したという。
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香港は民主主義運動 辺野古は反民主主義運動 違いを認識しよう


 沖縄タイムスの「父母への遺書持ちデモ 香港の学生、民意無視する政府と闘う 現地大学の沖縄出身教員『沖縄の若者も声上げて』」には頭にきた。。
 
タイムス記事
 竹富町小浜島出身で香港理工大学日本語教育のプログラムリーダーを務める松本真澄さん(教育学博士)が本紙の取材に対し、香港政府が中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案撤回を表明した後も「デモは激しくなっている」と話し、緊迫する現地の状況を明らかにした。名護市辺野古の新基地建設反対で闘う沖縄と香港の現状を重ねながら、「沖縄の若い人たちにもっと地元のことに関心を持って、関わってほしい。香港を見習ってほしい」と呼び掛けている。
              沖縄タイムス
 松本真澄さんは香港の五大要求運動と辺野古の飛行場建設反対運動を同一視しているのだ。冗談ではない。香港の五大要求運動と辺野古移設反対運動は全然違う。香港は民主主義の運動であるが辺野古は反民主主義の運動である。
 香港は普通選挙の実現を要求している。普通選挙は沖縄ではすでに実現している。戦後の日本では香港のような民主化運動はなかった。なぜならすでに選挙制度は確立し、三権分立も確立していたからだ。戦後の日本は民主主義国家になっていた。だから香港のような民主化運動は起こらなかった。
 学生運動は資本主義社会を否定し、社会主義国家を目指す運動であった。社会主義は議会制民主主義を否定し普通選挙も否定していた。学生運動は民主主義を否定する社会主義であった。
 辺野古移設反対運動は議会制民主主義を否定した学生運動と同じである。
 日本は議会制民主主義国家であり、法治主義である。辺野古移設は民主主義のルールによって決まった。
・辺野古沖移設が反対運動によって断念。
・県外移設の断念。
・沖縄地元の辺野古移設反対で辺野古移設決まらず。。
・Ⅴ字型滑走路で政府と名護市長が合意。
・辺野古埋め立てで政府と県知事が合意。
・民社党政権になり鳩山首相が県外移設宣言。
・受け入れ自治体は一つもなく県外移設断念。
・2010年民主党政権が辺野古移設決定。
複雑で困難な過程の中で辺野古移設は決まったのである。辺野古移設が決まるまで法律のルールに従った民主的な手続きにのっとっていた。

 現在の辺野古移設反対運動は政府と県、名護市の合意によって実現した辺野古移設を否定していることになる。それは民主的な手続きを否定することであり民主主義を否定することになる。辺野古移設反対運動は左翼による反民主主義運動である。香港の民主主義運動とは根本的に違う。ところが松本真澄さんは香港の民主主義運動と辺野古移設反対運動を同じ運動とみなしている。

松本さんは香港に住んで27年になる。「沖縄のことを常に気に掛けている」とし、オンラインニュースなどで情報を収集する。新基地建設問題について、「日本政府は沖縄県民に寄り添うと言いながら、県民の声を聞こうとしない。これまでの選挙で何度も県民の民意が示されてきたのに」と苦言を呈す。民意を無視する日本政府の姿勢は香港政府と「似ている」と批判する。
               沖縄タイムス
 松本さんは県内の友人や親戚と連絡するときに「辺野古の海を絶対守らないといけないと話し合っているという。辺野古埋め立てを初めて半年になる。大雨や台風が襲ってきたが辺野古の海が汚染されたことは一度もない。辺野古の海を守りながら埋め立てをしているのだ。辺野古の埋立て写真をみれば分かることだ。日本には公有水面埋立法があり、埋め立ての時に汚染することを禁止している。もし、辺野古の海を守るということが汚染されないことであるなら埋め立てをしても辺野古の海は守られている。松本さんの「辺野古の海を絶対守らないといけない」の考えで飛行場建設に反対するのは間違っている。埋め立て現場の写真を見れば分かることである。

「日本政府は沖縄県民に寄り添うと言いながら、県民の声を聞こうとしない。これまでの選挙で何度も県民の民意が示されてきたのに」は左翼が得意とする民意論である。左翼が主張している通り辺野古移設反対の県知事であり、国会議員も多数を占めている。県民投票では7割以上の票が埋め立て反対だった。民意は辺野古移設反対である。ただ、民意といっても県民の民意であって国民の民意ではない。
 米軍飛行場である普天間飛行場を辺野古に移設することは米国政府、日本政府、沖縄県の三者の合意によって決められなければならない。特に地元の沖縄県が賛成しないと決めるとは絶対にできない。県は政府と同等の権利があるのだ。
辺野古移設は三者の合意があって決まった。三者の合意によって決まったのだから辺野古移設を中止するには三者の合意が必要である。沖縄県だけの民意で中止はできない。これが政治の世界の民主主義である。沖縄県だけの民意だけでは三者の辺野古移設合意を破棄できない。それは米国も日本も同じだ。もし、沖縄の民意が優先されるのてあれば沖縄の権利が優先されることになるが、それは不平等であり民主主義の原則に反する。
松本さんは「日本政府は沖縄県民に寄り添うと言いながら、県民の声を聞こうとしない」というが、安倍政権は県民の声をちゃんと聞いている。聞いたうえで普天間飛行場の移設は辺野古しかないことを明言している。辺野古移設が国の民意であるのだ。松本さんは国の民意を聞き入れないで一方的に県の民意を国に押し付けているのである。
こんなやり方は県の選挙で勝つことはできても国全体の選挙では負けているし、行政の安倍政権の政策に勝つことはできない。つまり辺野古移設を阻止することはできない。日本は議会制民主主義国家だからだ。

議会制民主主義の政治を否定している辺野古移設反対運動と香港の市民が普通選挙を求めて闘っている民主主義運動を重ねてあたかも辺野古移設反対運動が香港の民主主義運動のように話す松本さんは日本の議会制民主主義を理解していないし香港の民主主義運動を真剣に考えていない。せいぜい辺野古移設反対運動程度にしか考えていないだろう。香港の民主主義運動を軽視している松本さんである。

松本さんは香港の民主主義運動を辺野古移設反対運動の宣伝に利用しているだけだ。香港のように辺野古移設反対運動も大きい運動に拡大したいのだ。松本さんは、普天間飛行場の移設のための辺野古飛行場建設を新基地建設と嘘をつき、反民主主義を民主主義に偽装している左翼の代弁者でしかない。

香港のデモはアジアの歴史で初めて起こった市民の市民による市民のための民主主義運動である。財力も権力も指導者もいない弱者の市民が立ち上がった運動である。このような市民による民主主義運動は過去のアジアにはなかった。歴史的な香港デモを辺野古に重ねるのは絶対に許されることではない。しぼんでいくだけの辺野古移設反対運動と中国に民主主義の風穴を開けるかもしれない香港デモは比べものにならない。
香港のデモは民主主義運動であるが、辺野古移設反対運動はは反民主主義である。二つは根本的に違う。
松本さんのような記事を沖縄二紙は二度と掲載してほしくない。

香港、覆面禁止法で初訴追 過激デモに政府強硬姿勢
【香港共同】香港当局は7日までに、九竜半島で行われた無許可の抗議活動に絡み、デモ参加者のマスク着用を禁じる「覆面禁止法」違反容疑で男女計2人を訴追した。5日の法施行後、訴追は初めて。2人は違法集会の容疑も持たれており、裁判所で7日、審理が開かれる。香港各紙が伝えた。

一部メディアは、6日のデモを巡り警察が同法違反容疑で5人を逮捕したと伝えた。5日には少なくとも13人を逮捕したとされ、5日の逮捕者は20人超に上るとの報道もある。市民の強い反発にもかかわらず、香港政府は過激なデモを力で抑え込む姿勢を改めて鮮明にした。

香港政府の弾圧が激しくなってきた。しかし、香港市民がくじけることはない。自由、民主主義を勝ち取る闘いに命を懸けているからだ。

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わたしは怖くない。逮捕したければすればいい

わたしは怖くない。逮捕したければすればいい

香港デモ映像



香港でろうそくを並べて抗議 “マスク禁止法”に市民反発
デモ参加者のマスク着用が禁じられた香港では、反発した市民が、夜になっても抗議活動を続けた。

香港では5日から、顔を隠してデモや集会に参加することが禁止されたが、日中は数千人規模のデモが行われ、夜になっても各地でマスクをした人たちが抗議活動を続けた。

デモ参加者は、「わたしは怖くない。逮捕したければすればいい」と話した。

一方、林鄭月娥行政長官は、動画の声明で「暴徒による破壊行為は前代未聞だった。公共の安全は明らかに脅かされ、まさに緊急状況規則条例を発動した理由だ」とデモ隊を非難した。

現地メディアは、4日に警察官に脚を撃たれた14歳の少年が「暴動参加」と「警官襲撃」の疑いで逮捕されたと報じ、6日に予定されている大規模なデモを前に緊張がさらに高まっている。

(フジテレビ)
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香港・覆面禁止法 市民らマスクつけて抗議

香港・覆面禁止法 市民らマスクつけて抗議

香港デモ映像

香港政府は5日、暴力行為を抑えるためとして覆面禁止法を施行したが、街の中心部では反発した市民らがマスクをつけた状態で抗議活動を行っている。

5日午後、香港中心部では市民ら数千人が集まり、幹線道路をふさいでデモ行進を始めた。参加者らは警察による暴力的な取り締まりの独立した調査などを訴えているほか、5日に施行された覆面禁止法にも強く反発している。

一方、香港政府トップの林鄭月娥行政長官は、5日、テレビで談話を発表し、「少数の暴徒の破壊行為を決して容認しない」とし、覆面禁止法の正当性を強調した上で市民に対して政府への支持を呼びかけた。

覆面禁止法に違反した場合、最高で禁錮1年が科されることになっており、マスク姿での抗議活動に対して、警察がどのように取り締まるのか、予断を許さない状況が続いている。
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中高生が警官に撃たれる しかし、民主化運動は拡大し続ける

中高生が警官に撃たれる しかし、民主化運動は拡大し続ける
香港デモで1日に男子高校生が警官に左胸付近を撃たれた。4日には中学生が私服警官に太ももを撃たれた。発砲したのは身の危険をふせぐためであったと香港警察は弁解している。大学生や成人ではなく中学生や高校生が撃たれたことに驚いた。香港の民主化デモは非暴力的の市民デモであるが、一部に過激な行動をする集団も居る。警察に撃たれたのが中高生であるのは過激な行動をするのが中高生が多いということかもしれない。
香港の民主化運動は中学生にも浸透しているのだ。そして、若さゆえに怒りを抑えることができなくなり過激な行動に走った・・・・。しかし、警察が中高生を撃つなんて許されることではない。。
香港の検察当局は銃撃された高校2年の男子生徒を暴動罪と警察官襲撃罪による裁判手続きを開始した。それは警察の実弾射撃を正当化するためだ。
香港の林鄭月娥(りんてい・げつが)行政長官は4日、諮問機関、行政会議の臨時会合を開き、「緊急状況規則条例」(緊急法)を発動し、デモ参加者のマスク着用を禁止する「覆面禁止法」を緊急立法で制定した。
警察の発砲、訴追、覆面禁止法と香港政府の民主主義デモへの弾圧が強化されている。しかし、香港の民主化運動は着実に拡大している。香港政府の弾圧に屈することはない。

香港デモの五大要求
(1)条例改正案の撤回
(2)デモの「暴動」認定の取り消し
(3)警察の暴力に関する独立調査委員会の設置
(4)拘束したデモ参加者の釈放-
(5)普通選挙の実施

五大要求の中の条例改正案は香港政府が撤回した。

五大要求の中に普通選挙の実施が含まれているから香港デモは民主化運動である。
市民を守るべきはずの警官の中高生への発砲は中高生の警察への激しい怒りと不信が増した。
五大要求は普通の市民の理解し賛同する要求である。だから、中学生から老人までデモに参加するのだ。中国政府が軍隊を派遣すれ確実に弾圧できるが、それをすれば世界から非難されるだろう。米国との貿易戦争にも悪影響を受ける。だから、軍隊で弾圧することはできない。

香港の民主化運動は香港政府と中国中央政府のどんな圧力を受けても負けることはない。絶対にだ。
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封建時代は売春婦=性奴隷であった その認識のない日韓学者の愚かさ
「表現の不自由展・その後」が再開されることになった。少女慰安婦像像が「平和の少女像」として再び展示されることになった。少女慰安婦ではなく平和の少女になったのである。ハンギョレ新聞は「少女像の展示は日本内で代表的なタブーの一つだ」と述べているが、そうではない。少女像がタブーではなく少女慰安婦像がタブーである。
平和の少女像は駐韓日本大使館前の「平和の少女像」を制作した彫刻家キム・ウンソン氏とキム・ソギョン氏夫妻が、同じ形で作ったものだ。日本大使館前の少女像は少女慰安婦像である。韓国での少女慰安婦像を愛知県の「表現の不自由展・その後」では平和の少女像と改名するのはおかしい。それは露骨な政治プロパガンダであるといってもおかしくない。愛知県で展示されると、韓国では少女慰安婦像が日本の税金で開催された展示会で展示されたと宣伝し、少女慰安増は日本国民も認めたと主張するようになるだろう。

 最近になって痛切に感じるのは日本の政府も学者も真剣に慰安婦問題に取り組んでこなかったことである。

慰安婦について一番正しいことを書いているのは私の「彼女は慰安婦ではない 違法少女売春婦だ 少女慰安婦像は韓国の恥である」であることを改めて確信した。しかし、「少女慰安婦像は韓国の恥である」に書く足りない所がある。それは封建時代の「性奴隷」についての説明が足りない。慰安婦問題では「性奴隷」については江戸時代の士農工商の身分制度の社会と明治時代の四民平等の近代社会との歴史的比較が必要である。そうしないと韓国の少女慰安婦が慰安婦ではなく少女性奴隷であったことをはっきりと説明することができない。
江戸時代の遊郭や吉原の女性は「性奴隷」であった。だから舞子も「性奴隷」であるし、大韓帝国時代の妓生は性奴隷である。性奴隷だったのに明治政府の「娼妓取締規則」によって性奴隷から解放され足りない。彼女たちは性奴隷から身分が保証された職業婦人になったのである。明治政府「娼妓取締規則」で法的に彼女たちの人権を与えたのである。ところが日本の政府も学者もこの歴史的意義を認識していない。だから、左翼の慰安婦=性奴隷の主張を打破できないのだ。
 
 
 琉球王国時代に吉屋チルーという琉歌の天才少女がいた。彼女は読谷の貧しいに農家に生まれ、八歳の時に那覇の遊郭に売られた。琉歌の天才少女は1八歳の時に食事することを拒否して自殺する。私は読谷村の生まれであり、チルーの有名な琉歌に出てくる比謝橋の近くで育った。チルーの琉歌は私に強く影響した。私の長編小説「マリーの館」に吉屋チルーのことを書いてある。
吉屋チルー
吉屋チルーの琉歌が浮かんできた。読谷の貧しい農村に生まれた吉屋チルーはたった八歳で女の性を売る那覇仲島の遊郭に売られた。

恨む比謝橋や
 情ねん人ぬ
 我ん渡さ思てぃ 
掛きてぃうちゃら

(比謝橋よ。私はお前を恨む。非情な人間が、那覇仲島の遊郭に売られていく私を渡そうと企んで、お前を掛けたのね)
搾取され、貧しい生活を強いられたチルーの親は、少女チルーを遊郭に売らなければならない状況に追いやられた。チルーは那覇仲島の遊郭に売られることになった。生まれ育った読谷から出ていく境界には比謝川が流れていた。比謝川には比謝橋が掛かっていた。比謝橋がなければチルーは那覇仲島の遊郭に売られなくてすんだ。チルーが那覇仲島の遊郭に売られなければならない貧困に追いやったのは時の権力者であり、チルーを渡すために比謝橋を掛けたのも時の権力者だった。情ねん人=非情者=権力者。チルーは比謝橋を造った非情で冷酷な権力者に琉歌で恨みを投げつけた。

吉屋チルーは一六五〇年に生まれた。八歳の時に那覇仲島の遊郭に身売りされた吉屋チルーは硫歌の天才少女として有名になりながらも、身受けされるのを拒否し、絶食して息絶えたという。一六六八年、吉屋チルーが一八歳の時である。
平敷屋朝敏(へしきや・ちょうびん 一七〇〇~一七三四年)が書いた「苔之下」という吉屋チルーの物語は、吉屋チルーは仲里按司に恋していたが、仲里按司の母親が病気になって倒れたために、仲里按司は吉屋チルーの待つ仲島の遊郭に行かなくなった。これをよいことに抱母は吉屋チルーを仲里按司から引き離すために、黒雲殿に見受けさせようとした。吉屋チルーは、そのことに怒り、失望し、食を絶って亡くなったと書いてある。
しかし、まて。それは平敷屋朝敏の「苔之下」という俗的な悲恋物語に書かれてあることであり、吉屋チルーの実話ではない。平敷屋朝敏は吉屋チルーが死んで三十二年後に生まれた人物だ。吉屋チルーを直接知っていたわけではない。吉屋チルーが琉歌の天才であり、仲島の名花と呼ばれながらも、十八歳の時に絶食して死んだという伝説を知っていただけだ。「苔之下」以外に「若草物語」「万才」「貧家記」「雨夜物語」等を書いたように、平敷屋朝敏はロマン作家であり、「苔之下」は平敷屋朝敏が書いた悲劇ロマンだ。武士階級のロマンチスト平敷屋朝敏が庶民の天才詩人吉屋チルーの魂を理解できるはずがない。
私には分かる。若い仲里按司と恋をしたというのは吉屋チルーを悲恋物語のヒロインにするための朝敏のでっちあげ話だということを。私には分かる。吉屋チルーの死はそんなロマンチズムな死ではなかったことを。私には分かる。貧しい農家に生まれて教養がないのに歴史に残る琉歌を作った吉屋チルーは天才の中の天才であり、卓越した感受性の持ち主であり、詩人としての気高いプライドを持った少女であったことを。私には分かる。吉屋チルーは女の性を絶対に売らない純粋でプライドの高い詩人であったことを。私には分かる。少女から女の体に成長した吉屋チルーは女の性を売るように強制されたが、拒否したことを。しかし、強固な遊郭の掟は吉屋チルーの拒否を許さなかった。私には分かる。詩人としてのプライドが高い吉屋チルーは、遊郭の掟に抗議して絶食をやり、詩人としての魂を全うするために死を選んだことを。
天才詩人吉屋チルー。生まれながらの詩人吉屋チルー。天才詩人であったがゆえにわずか十八歳で死を選ばなければならなかった吉屋チルー。チルー、チルー。純粋に詩人の魂を一途に生き、そして死を選んだ琉歌の天才少女チルー。かわいそうなチルー。気高いチルー。私は止めどもなく涙が溢れてきた。

琉球王国の王族や士族たちは龍潭池で舟遊びをして優雅な生活を送っていたが、その裏では過酷な搾取によって農民は極貧生活を強いられ、吉屋チルーのように身売りされる少女の悲劇が数多く繰り返されたのだ。吉屋チルーを死に追いやったのは農民を虫けらのように扱う琉球王国支配の社会だった。チルーを死に追いやったのは琉球王国だ。琉球王国のくそったれだ。
              「マリーの館」
 琉歌の天才でも遊郭の経営者にとっては商品でしかない。高い値段で売れれば売りさばいていく。チルーも商品の一つでしかないのだ。遊郭の女性はつきつめれば性奴隷あった。それは日本中みな同じであった。
 京都の舞妓も性奴隷であった。
舞子の「水揚げ」
江戸時代の舞妓は「旦那」とよばれるスポンサーを持たなければならなかった。
旦那は自分が見初めた舞妓の着物や生活にかかる多額の費用を置屋に支払い、その対価として舞妓と男女の関係を結んだ。舞妓が初めて旦那を持つことを「水揚げ」といった。
舞妓にとっての水揚げは、一人前への大きな一歩であり、髪型もそれまでの割れしのぶからおふくに結い替えた。
舞子は水揚げを断ることはできない。命令に従うだけである。従わなければ厳しい罰が下される。
吉屋チルーも舞子も性奴隷だったのだ。奴隷とは売られた人間であり仕事の選択の自由も報酬もない人間のことである。
舞子やチルーのように遊郭に買われた女性は性奴隷である。性奴隷になることを拒否したチルーは自殺したのである。死ぬことでしか性奴隷から解放される術は遊郭の女性にはなかった。
なぜ八歳で遊郭売られたか
遊郭に売られるのは八歳くらいの少女が多い。八歳ではまだ子供であるし客相手の仕事はできないはずである。吉屋チルーの話をした先生は掃除などの仕事をしたと言った。先生の言うことを信じていたが、俳句を作っているうちに八歳で売られた理由がわかってきた。俳句や琉歌などの詩は誰でもつくれるが、優れた詩は才能のある人にしかつくれない。チルーの「恨む比謝橋」がすごい琉歌であり、俳句をつくるために色々勉強しているうちに「恨む比謝橋」はとても優れた琉歌でありチルーが天才の中の天才だからこそをつくれたのだと思うようになった。先生はチルーが比謝橋を渡った時の八歳の時につくったといっていたが、八歳の少女がつくれるはずがない。そもそも貧しい農家の少女が琉歌をつくれるはずがない。チルーが琉歌を作れるようになったのは遊郭で琉歌の作り方を教えられたからである。
 遊郭が八歳という幼い時に少女たちを買うのは踊り、三味線、琉歌などを英才教育をするためであった。質の高い芸を習得させて客に披露すれば莫大な収入になるのだ。流加の天才チルーも教養ある武士たちと琉歌を掛け合って客を集めていたのだ。
和歌には連歌といって上の句(五・七・五)と、下の句(七・七)を別の人が交互に作るのがある。琉歌にも上の句(8・8)、下の句(8・6)に分けて連歌を楽しんだ。チルーは遊郭で連歌でもてなしたのである。
遊郭の客は身分の高い武士や金持ちの承認たちであった。教養の高い彼らを満足させるために子供の時から英才教育をしたのである。
 それは日本だけでなく世界共通であり、封建社会ではどこでも遊郭のようなものが存在し、遊郭の女性は性奴隷であった。封建社会は身分差別社会であり奴隷は普通に村座していた。

 日本が併合する前の大韓国帝国は封建社会であり性奴隷の社会はあった。妓生も性奴隷であった。
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デニー知事に重大疑惑受注企業と契約前日に会合



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デニー知事に重大疑惑受注企業と契約前日に会合か

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 (写真は手登根安則氏のフェイスブックより)

沖縄自民党議員の島袋大氏が9月30日の県議会で左の写真について質問している写真である。デニー知事だけが顔が見え、他の人たちは顔を隠している。
酒宴に参加したのは「万国津梁会議」に関し、会議を支援する業務を受託した会社の代表、テニー知事の義理の息子である特別秘書、県職員、そして契約によって雇用される大学の助教授と講師であった。
この酒宴の写真をアップしたのは県職員であり、発覚後にFacebookから投稿を削除し証拠隠滅を図った。

玉城デニー知事が今年5月、自身の政策の推進に向けて設置した「万国津梁(しんりょう)会議」の設置支援業務を公募した。6社が説明会に参加し、東日本大震災で沖縄に避難している被災者支援などで沖縄と関わりのある山形県の社団法人1社だけが企画提案を行い、受注した。受注額は2407万円である。業者側の会社は実績もなく代表一人の会社で、ペーパーカンパニーとの情報もある。写真の酒宴は受託した事業者と正式な契約をする前であった。

受注した山形県の社団法人の沖縄営業所所長は玉城知事の支持者で、島袋氏は「最初から受託することが決まっていた出来レースではないか」と批判した。玉城知事は「私的な懇親会だった。契約がいつかは担当部局に任せており、関知していなかった」と答弁し、問題はなかったとの見解を示した。

県も職員が参加したことに問題はないと答弁した。デニー知事は私的な懇親会であるから問題はないというが、私的な懇親会だから逆に問題である。つまり、県の受注が私的な懇親会で決まるともいえるのだ。
今後自民党県連はどのようにデニー知事を追及していくだろうか。デニー知事が返答に困る状態まで徹底して追求していくことができるか。そこが問題である。県議会で追及するだけでなく、問題の写真を県民に見せ、反デニー知事の渦を巻き起こすことも重要である。県議会でデニー知事を追い詰めたとしても、その事実を県民が知らなければデニー知事の人気は維持されるからだ。
問題は次の県議会選挙と知事選で自民党が勝つか否かである。県議会でデニー知事を追い詰めて満足するようでは駄目だ。むしろ、写真を多くの県民に見せてデニー知事が業者と癒着している可能性を県民に知ってもらうことが重要だ。
来年の県議会選の頃には辺野古側の埋め立ては終わる。移設に反対することが無駄であることを県民は認識するだろう。辺野古埋め立て反対に加えて業者との酒宴は県議会選で自民党県連を有利にする。
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