伊佐浜の激しい抵抗運動の裏の存在非合法沖縄共産党



伊佐浜が激しい抵抗運動になった原因

 伊佐浜の強制撤去
伊佐浜の水田は収穫量も多く、戦前から「チャタンターブックヮ」(北谷のたんぼ)」と呼ばれる美田が広がっていました。戦時中も米軍の土地接収からもまぬがれ、戦後もかつてのように稲が植えられていました。
 米軍は1954(昭和29)年12月に住民へ立ち退きを勧告しましたが、翌年1955年3月11日、武装兵とブルドーザーを出動させ、約3万坪の土地を接収しました。また3月14日には、伊江島の真謝でも約300人の武装兵が島に上陸し、家から住民を追い出した後、13個の家屋をブルドーザーで破壊して焼き払い、10万8千坪の土地が米軍に接収されました。
 その状況に対し、琉球政府立法院でも住民の生命と財産を守る基本的な立場から米側に対して軍用地収容取り止めの請願を再三行いました。
「土地収用家屋立退き指令撤回要求決議案」第5回臨時第5号 1955年3月4日 
 同年7月11日、米軍はさらに伊佐浜の土地を10万坪(立ち退き家屋32戸)接収すると通告し、住民は「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対しました。しかし、7月19日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、32個136名の住民が住む家を失いました。
 この土地の強制収容は県民に大きな衝撃を与え、米軍の占領支配への抵抗運動として「島ぐるみ闘争」へと発展していきました。
                 「沖縄県公文書」
 有名な銃剣とブルドーザーによる伊佐浜の土地接収である。1954(昭和29)年12月、米軍は宜野湾村伊佐浜の住民へ立ち退きを勧告、55年3月に再度通告したが区民、支援者は座り込みで反対した。米軍の武力による強制接収の時には多くの逮捕者や負傷者が出た。土地接収は伊佐浜や伊江島だけではなかった。他の多くの場所で土地接収があった。
米軍は1953(昭和28)年4月3日に琉球列島米国民政府布令第109号「土地収用令」を公布し、同年4月11日に真和志村(現那覇市)の銘苅と安謝の一部、ついで天久と読谷村渡具知、楚辺、同年12月には小禄村具志で土地接収をやった。だが、伊佐浜のように土地接収に反対し、座り込みなど激しい抵抗運動をしたのは他の土地ではなかった。戦争で勝利した米軍に住民が命がけで抵抗する気力はなかったはずである。伊佐浜と伊江島の抵抗運動は特殊なケースであったのだ。

戦後の沖縄の人々は米軍を戦前の日本軍と重ね合わせていただろうから米軍も恐ろしい存在に見えただろう。米軍に抵抗したらひどい目に合わされると信じていただろうから強制土地接収に対して抵抗運動は起こさなかった。伊佐浜の農民が自然発生的に激しい抵抗運動を起こすことはあり得ないことである。なぜ、伊佐浜は激しい抵抗をやり銃剣とブルドーザーによって強制接収されたのか。それには原因がある。伊佐浜の激しい抵抗運動の裏には沖縄の非合法共産党の存在があった。そして、伊佐浜の激しい抵抗運動は日本共産党が本気で暴力革命を目指していたことに深く関係していた。

日本共産党の暴力革命
日本共産党の歴史
1920年12月、労働条件の改善という高まる社会運動とロシア革命の影響を受けて、日本社会主義同盟が結成。
1921年4月、ロシア革命の影響を受けた堺利彦や山川均らにより日本共産党準備委員会が結成。日本共産党宣言、日本共産党規約が採択。
1921年7月15日、日本共産党創立大会が開かれ、堺利彦が委員長となった。
1921年11月、コミンテルン支部・日本共産党として承認された。
1923年2月、日本共産党綱領草案が審議された。
1923年5月、早稲田軍教事件を機に共産党の存在が明らかになり、当局は堺、山川、徳田,市川正一、野坂参三ら党員を逮捕し 29 名を治安警察法違反で起訴した。
1924年2月、解党を決議した。
1925年1月、コミンテルンは解党に反対し上海会議で党再建を指示。9月に機関紙、無産者新聞を発刊。
1926年12月、山形県五色温泉で再建 (第3回) 大会を開催した。福本和夫が理論的指導者となる。
1927年7月、コミンテルンは福本イズムを分裂主義として批判。党再建の組織方針と日本革命の基本的方針を示した。
1927年12月、中央委員会は工場細胞の建設、機関紙赤旗を 創刊。
労農党、日本労働組合評議会、日本農民組合、全日本無産青年同盟などをとおしての労農運動、対支非干渉運動,初の普通選挙などに活動した。
1928年、1929年、三・一五事件、四・一六事件の大検挙で党組織と労農党は大打撃を受けた。しかし満州侵略に反対する闘争で党勢を拡大した。
1932年10月、川崎第百銀行大森支店襲撃 3 万円余強奪事件などで信頼失墜した。さらに熱海事件と呼ばれる代議員が一斉検挙されたことで壊滅的打撃を受けた。
1933年12月、赤色リンチ事件で宮本顕治、袴田里見が逮捕され党中央部は解体した。
1945年10月、占領軍の指令で獄中にあった徳田、志賀義雄らは釈放され、機関紙赤旗が発刊され活動再開。
敗戦時の食糧難と労働運動で盛り上がりを見せた。
1946年4月、戦後初の総選挙で 5 名の当選者を出した。1949年1月、35 名を当選させた。

1951年10月、平和革命方式から武力革命方式に転換。山村工作隊や火炎瓶闘争などの軍事方針を実施した。
1952年、総選挙で前回の得票数 298 万表から 89 万表 (議席はゼロ) に激減した。国民大衆の支持を失うに至った。
1955年7月、武装闘争を放棄し大衆運動との結合をはかった。原水爆禁止運動、基地反対闘争、警職法闘争、安保闘争を展開。
1961年7月の党大会で反米・反独占の民族民主主義革命を経て社会主義革命を達成するという綱領を採択した。
中央委員会議長に野坂参三、書記長に宮本顕治の 50 年問題で分裂した両派の幹部を選出した。


日本共産党はロシアや中国のように武力によって日本国家を倒し、社会主義国家を樹立するのを目的に結成した党である。

1949年11月、中国の劉少奇は中国流の武装闘争方式を日本を含むアジアに広げる見解を打ち出していた。日本共産党は中国共産党のアジア戦略に呼応じようとしたのである。
1950年6月4日、参議院選挙で日本共産党から3人が当選すると、6月6日、マッカーサーは中央委員24人の公職追放を指令し、その政治活動を禁止した。日本共産党の書記長徳田球一らはこの弾圧を自らの党支配を実現する絶好の機会とし、政治局会議や中央委員会を開催せず、党規約にない手続きで「臨時中央指導部」を指名した。徳田らは、意見の異なる宮本顕治ら7人の中央委員を排除して、非公然の体制に入った。
日本共産党の革命運動が広がることはなかったが、事件の多さには驚く。信じられないことだが、日本共産党は本気で暴力革命を目指していたのだ。

●1951年10月16日(火)第五回全国協議会で新綱領採択。
革命を達するには暴力しかない、とする武闘闘争の正当化。2月に蒲田で火炎瓶が投げられたのがこの綱領を受けての武力闘争の始まりだった。
●1951年12月26日(水)練馬署旭町駐在所勤務伊藤巡査(当時32歳)殺害事件。
製紙労組員を暴行傷害事件で逮捕後、ビラ貼り、駐在所押し掛けなどの嫌がらせが続いていた。ビラには「伊藤今に引導を渡すぞ O労組」など書かれていた。26日深夜「O製紙先の路上に人が倒れている」との通報で出かけたまま行方不明。翌朝撲殺死体で発見さる。拳銃も奪われる。あとには夫人と3歳と1歳の幼児が残された。
●1951年12月末~昭和27年1月27日(火)小河内山村工作隊。
日本共産党が中国共産党にならい「農村解放区」を設定しようとしたものが「山村工作隊」である。都内では小河内山村工作隊が最も活発であった。
●1952年1月21日(月)白鳥事件。
札幌市南6条の通りで、日本共産党党員が、中央署の白鳥警備課長を射殺。それまでに、自宅に数百通の脅迫状が来ていた。日本共産党札幌委員名の「みよ、ついに天ちゅう下さる。(ママ)」のビラが市内に撒かれた。
●1952年2月3日(日)長野県南佐久郡田口村で、無灯火自転車に乗った日本共産党の一団が5人の警官に暴行を加えピストルを強奪。逃げ遅れた日本共産党地区委員をその場で逮捕。
●1952年2月21日(木)蒲田署警官襲撃事件。
日本共産党が「反植民地闘争デー」を期して軍事方針に基づき行動した集団暴行事件。午後5時すぎ、大田区糀谷の電業社付近に約70人が集まり、不穏な状況に対し蒲田署K巡査が職質したところ、「この野郎、人民の敵だ、殺してしまえ」と襲いかかり暴行、手錠をかけ拳銃を強奪した。その後250人位に増えた暴徒は、2隊に分かれ無届けデモを行った。目つぶし、投石、派出所を襲撃破壊した。
●1952年2月23日(土)京都税務署を日本共産党員が襲撃。
●1952年2月28日(土)荒川署を日本共産党員が襲撃。
●1952年3月16日(月)鶴見、川崎税務署火炎瓶襲撃事件。
●1952年3月20日(木)京都の派出所を日本共産党員が襲撃。
●1952年3月28日(金)一連の日本共産党が引き起こした暴力革命闘争に対応するため「破壊活動防止法」案の綱領を発表。
●1952年5月17日(土)栃木県那須郡金田村村役場事件。
日本共産党党員らにより三月以来、人糞の投げ込み、集団脅迫、傷害が続いていたが村役場での会議中20名あまりの日日本共産党員が乱入。
●1952年6月2日(月)大分県菅生で交番が爆破される。4日襲撃首謀者逮捕。
●1952年6月10日(火)京都で朝鮮人50人が警官隊と衝突、パトロール車に火炎瓶投入、警官ら火傷。
●1952年6月25日(水)朝鮮動乱2周年記念集会、前夜祭のデモ隊は「人民電車」を動かし吹田で警官隊と大乱闘。
デモ隊2500人は新宿前で警官隊4000人と乱闘衝突。東口広場は「火炎瓶広場」と化した。
●1952年6月28日(土)東芝府中工場火炎瓶事件。
●1952年7月4日(金)破防法案は衆院本会議で可決成立。
●1952年7月7日(月)名古屋大須球場で訪ソ・中視察報告大会後デモ隊火炎瓶で警官隊と衝突、路上車放火 121人検挙。
●1952年年7月16日(水)都下恩方村山村事件。
 前村長宅に数名の「山村工作隊」の男が表門のくぐり戸をぶちこわして侵入、風呂場のガラス戸15枚、玄関や十畳間の雨戸五枚を破壊しこぶし大の石を投石。
●1952年年7月21日(月)破防法公布施行。公安調査庁発足。
●1952年7月30日(水)山梨県曙村山村地主襲撃事件。
就寝中の小中学生3人を含む家族を竹槍で突き刺す。3人は血の海の中に息も絶え絶えになって横たわっているところを
駆けつけた警官に救われた。
●1952年年8月6日(水)都下町田町の朝鮮人集落とマーケットより、時限爆弾製造法等が書かれた日共秘密文書「料理献立表」など押収。
●1952年8月7日(木)横川元商工大臣が埼玉県河村で襲撃され重傷。日共党員の容疑者3人を逮捕。
●1953年2月16日(月)小岩派出所侵入事件。
●1953年3月3日(火)警察爆破の陰謀発覚 日共党員3人を検挙。岡谷市署川岸村の旧防空壕に隠してあったダイナ
マイト50本、導火線10mなどを押収した。
●1953年3月5日 スターリン死亡。
●1953年5月17日 舞鶴引き揚げ援護局不法監禁事件。
 第三次中共帰還の際、舞鶴で援護局女子職員をスパイだとして吊し上げ、軟禁した。後に日本共産党員国民救援会事務局長小松勝子と都立大教授在華同胞帰国協力会総務局長阿部行蔵を検挙。
●1953年10月14日 徳田球一北京で病死。その死は1955年まで公表されなかった。
●1953年11月5日 高萩炭鉱所長宅爆破事件。
●1953年11月11日 京都荒神橋事件。
学生を含む800人が不法デモ。中立売署県警本部等に投石、窓ガラス破壊の乱暴狼藉。警官隊により鎮圧。警官7人学生4人が負傷。
●1953年11月12日 新潟県で講演内容が気にくわないと県教組(日教組)が文部常任専門員を吊し上げる事件発生。
●1953年11月12日 日鋼・赤羽争議事件。
中立労組員第2組合員とピケを張って就業を阻む第1組合員との間で乱闘。就業希望者側の女性(21)ら7人に重軽傷。

日本共産党のロシア革命、中国革命のような暴力革命を目指した闘いは当時の国民に不安と反感を与え、1951年の総選挙で300万票34席の当選を出したものの、1952年年10月の総選挙ではわずか89万票で全員落選した。武装闘争は日本国民の反感を生み、日本共産党は衰退したのである。日本共産党の暴力革命は国家打倒というスケールの大きい戦略のわりには数多くの「小さな事件」のまま収束した。日本共産党の革命運動が国民に広がることはなかった。

 日本共産党の「農村部でのゲリラ戦」の方針は沖縄にも影響した。沖縄では「山村工作隊」や「中核自衛隊」などのような過激な行動は起こさなかったが、非公然組織が作られ、「アメリカ帝国主義の沖縄の植民地化に対する闘争」を展開した。沖縄共産党は、米帝国主義は沖縄人民を搾取や弾圧する存在であると決めつけていた。

琉球人民党大島地方委員会(党綱領の改正はなぜ必要になったか,とくに改められている部分はどこか,アメリカ帝国主義は完全に琉球を植民地・軍事基地・奴隷化した,アメリカ帝国主義は琉球の独立国家を企んでいる,琉球の解放は祖国日本の解放・独立と不可分である,一般的要求,政治的要求,労働者の要求,農民の要求,社会的日常要求,教育文化の問題,琉球を解放するものは誰か)
「金沢資料1 党文書「琉球人民党改正綱領草案」1953年12月 謄写版17ページ」
 復帰前の沖縄の共産党と言えば人民党のことであり、代表者は瀬長亀次郎氏だと思われているが、瀬長亀次郎は表の合法的な活動をした共産党員であり、裏には非合法的な日本共産党が存在していた。非合法日本共産党のリーダーが国場幸太郎(国場組社長と同姓同名の別人)であった。非合法組織というのは国がその存在を認めない組織のことである。非合法日本共産党とは国家転覆を企む組織である。沖縄では合法共産党が人民党であり瀬長亀次郎がリーダーであった。一方非合法日本共産党は国場幸太郎がリーダーであった。

一九五二年十一月の末党地方委員会は中央から派遣された同志国場幸太郎が持って来た党中央の指導によって,
(1)中央に南方地域特別対策委員会がつくられたこと,
(2)琉球の党組織はこの下におかれること,
(3)現在の党組織とメンバーを正式な正規の手続きがとられるまで暫定的に認めること,
(4)急いで正式な手続を完了する旨の指示を受けた。
「 金沢資料1 党文書「琉球人民党改正綱領草案」
沖縄人民党は表向きは日本共産党に属していなかった。だから日本共産党本部の指導は非合法共産党員によってなされた。米軍の「反共攻撃」と向き合う沖縄人民党を地下で指導していたのが非合法共産党のリーダーであった国場幸太郎だったのである。
国場幸太郎は1951年に日本への「留学生」として東京大学経済学部で学んだ後、1953年に沖縄に戻り、人民党員として土地闘争その他の活動にかかわるが、非合法共産党のリーダーであった彼は米軍対敵諜報部隊の厳しい監視下にあった。国場幸太郎は1950年代末の島ぐるみ運動の退潮のなか、1960年に本籍地を東京に移す形で沖縄を脱した。

奄美共産党の働きかけによって生まれた沖縄の非合法共産党については,合法政党沖縄人民党の影に隠れて,公然と語られることは少ない。それは,沖縄人民党自身が米軍から「共産主義者」として弾圧されてきた「反共攻撃」の歴史と重なり合い,人民党幹部が共産党員であることは厳しく秘匿されてきた歴史と関わっている。ようやく最近になって,当事者の一人である国場幸太郎氏が,「現代世界史の中の沖縄」(『現代思想』2000年6月号),「沖縄の50年代と現在」(『情況』
2000年8/9月号)などで,なお断片的だが,その存在を語り始めている。
           加藤 哲郎(一橋大学大学院教授・政治学)

 新聞報道では沖縄人民党の背後の地下組織の存在や「本土」との暗号連絡がクローズアップされていて、それはそれで重要であるが、長く戦前戦後の各国共産党史や日本共産党文書を見てきた私には、むしろ、沖縄共産党の「本土」共産党とは異なる動きが、驚きであった。
 だから、米軍の「反共攻撃」と向き合う沖縄人民党を地下で指導していた共産党の存在が明るみに出ても、長く沈黙を守ってきた人民党関係者にとって、不名誉なことではない。「五〇年問題」で分裂し孤立した「本土」の共産党から相対的に自立した組織をもち、独自に島民と結びつき、瀬長亀次郎氏を那覇市長に押し上げる原動力になりえたことを、誇りとすべきだろう。当時の「本土」共産党の極左方針に従うだけの党であったならば、党員たちが復帰運動の先頭に立つことはできなかったであろう。
                    加藤 哲郎(一橋大学大学院教授・政治学)
 共産党は労働者階級の解放を目指した闘いであった。労働者とは自分の労働力を売ってお金をもらう人間である。戦前は労働者を無産階級と呼んでいた。共産党は財産を持たない無産階級である労働者の解放を目指していたから、土地所有者は解放の対象ではなかった。社会主義国家では私有財産は許されていない。土地も会社も住宅もすべて国が管理している。
 労働者の解放を目指す沖縄共産党は労働者の組織化を目指した。

奄美共産党では一九五三年十月以降日本共産党の琉球地方委員会としての方針のもとに琉球地方特に沖縄の基地労働者を中心とする琉球の十万労働者の組織化に重点をおき奄美地区と沖縄の同志とが密接な連絡をもってアメリカ帝国主義の植民地化に対する闘争を組織する方針をたて、
「沖縄・奄美非合法共産党文書」
 この方針が沖縄共産党の方針であった。労働者の組織化は国家打倒を目指した闘いに発展することを前提としていた。つまり革命を目指した運動である。だから方針を表に出すことはできなかった。沖縄共産党は合法と非合法を巧みに使い分けながら運動を展開した。

合法面では人民党を始め各種社会団体議会を通じて労働法規の制定,条約三条の撤廃,即時祖国復帰,アメリカ軍の土地取り上げ反対,人権ヨーゴを訴え議会においては決議案などを上程するなど植民地政策をバクロし,これに対する抵抗組織の確立をはかり,
                        「沖縄・奄美非合法共産党文書」
非合法面では党員の獲得と組織の拡大と党の政策の合法面における実践化につとめ重点を当面基地労働者の組織において努力した結果,一九五二年六月には琉球において始めての日本道路会社スト闘争を組織し,ついに完全勝利をかちとったのである。日本道路ストは沖縄を始め全琉球の労働者を目覚めさせ,団結させる歴史的意義をもち一般人民にも植民地政策にめざめさせ,これに対する抵抗を組織する方向を与えた革命的記念闘争であった。
                         「沖縄・奄美非合法共産党文書」
 このように合法的な大衆運動を組織しながら沖縄共産党は共産党員を増やしていったのである。国場幸太郎を中心とした非合法沖縄共産党の目的は暴力革命を目指している共産党本部と同じように沖縄でも「山村工作隊」を結成して「農村解放区」をつくることであっただろう。

労働運動と植民地反対闘争の革命的基礎はこれを出発点としてなされ,この労働者たちを中心として急速に成長し発展した。琉球地方委員会は琉球の労働者階級に根を張り,十分労働者を組織する基礎を確立し,琉球住民の民族解放民主統一戦線の基礎をつくった。
松村組,清水組砕石工場,K・O・T等々,これらのすべての闘争は党によって指導された。琉球地方委員会はほとんど奄美出身の党員によって構成され,沖縄細胞として活動したが,名実ともに琉球地方委員会になると共に正式には日本共産党の指し示す民族解放民主革命の達成のためにその一翼として琉球の祖国復帰による住民解放の綱領を決定し,党中央の承認をうけるため,一九五二年七月沖縄に於いて琉球地方委員会を開催して,この方針を決定したが,この地方党大会はつねに革命え[へ]の道を共にして来た人民党の瀬長亀次郎書記長と島袋嘉順組織部長の両氏を始め他の沖縄出身者が[数文字空白=「入党」?]として党の方針の実現をみた。  
                          「沖縄・奄美非合法共産党文書」
 非合法文書では民族解放民主統一戦線、民族解放民主革命、住民解放、革命の文言を使っている。それは国家転覆を目標にしている組織であることを明示している。
 革命という目標は共産党本部と同じでも本土と沖縄の実情が異なっていたために本土のような警官殺害、火炎瓶闘争などの過激な行動を沖縄ではできなかった。沖縄では共産党本部の極左的指令を敢えて無視し、土地接収反対運動や「本土」と比較にならない低賃金・無権利の労働者を組織して「島ぐるみ闘争」に入っていった。

 伊佐浜は銃剣とブルドーザーによる土地接収として有名であり、繰り返し繰り返し伊佐浜のことを報道をするので米軍は全ての土地を銃剣とブルドーザーで接収したようにイメージしてしまうが事実は全然違う。北谷村,浦添村,真和志村,越来村,読谷村など多くの場所で土地接収を行ったが、激しい抵抗をしたのは伊佐浜と伊江島だけであり、他の多くの場所では抵抗運動は起こっていない。読谷村では楚辺と渡具知のは全て接収されて新しい場所に移動したが抵抗運動はなかった。
 伊佐浜は非合法沖縄共産党が裏で暗躍したから激しい抵抗運動が起こったのである。非合法沖縄共産党の中心的メンバーだった国場幸太郎は米軍に逮捕され、拷問されて沖縄共産党員の名前を自白したという噂がある。そのために瀬長亀次郎から党を除籍されたという。

 土地接収反対運動は辺野古の経済発展をきっかけに下火になっていく。

辺野古は「島ぐるみ闘争」の最中に条件付きで米軍の土地接収を受け入れた。「土地取上げは 死刑の宣告」だと伊佐浜では徹底抗戦をやったのに辺野古では逆に土地接収を受け入れたのである。どんなに反対しても伊佐浜のように強制接収されるのなら、条件をつけて受け入れをするというのが辺野古民の考えだった。
 辺野古民の出した条件は、
1 農耕地はできるだけ使用しない。
2 演習による山林利用の制限。
3 基地建設の際は労務者を優先雇用する。
4 米軍の余剰電力および水道の利用
5 損害の適正保障
6 扶養地の黙認耕作を許可する。
の6項目であった。要求がすべて受け入れられたのではないが、米軍と辺野古区は友好関係になり、キャンプシュワブが建設された。
 すると、辺野古の経済は空前の活況になる。五年間で辺野古の人口は4倍になり、多くの青年男女が、建設工事、PX(売店)、クラブ、メスホール(食堂)の職員として従事するようになり、彼らの給料は民間会社や地方公務員よりも高かつた。軍作業の人気も高まっていった。
水道の整備は米民政府の援助で行われた。辺野古の土地造成工事も米民政府が陣頭指揮をとって協力した。辺野古の驚異的な発展の噂はまたたく間に県内に広がり、経済発展を望んで米軍基地を受け入れる村がどんどん増えていった。そのために土地闘争は衰退していった。
基地経済が沖縄を貧困から救うということが分かった時から、沖縄の人々は米軍を受け入れるようになっていったのである。戦前の貧困を体験した沖縄の人たちにとって戦後の基地経済による繁栄は天国であった。

戦後米軍は、沖縄の人々の健康と政治、経済向上に尽力した



米国は民主主義国家であり、米軍は民主主義軍隊である。米軍は沖縄を植民地支配する気はなかった。むしろ沖縄の人々の健康と生活向上に尽力した。

植民地支配をする気なら莫大な経済援助をするはずがない。米軍が沖縄の人々の幸福のために尽力したひとつが医療政策である。
終戦直後にすぐに米軍が取りかかったのが沖縄の人々の健康・衛生の改善であった。1946年1月には、米海軍指令90によって、公衆衛生部の管理機構の再編が行われ、公衆衛生部の運営管理責任を、米海軍政府長官から軍政府本部専任軍医に委譲し、軍政府職員、沖縄人職員の診療、医療の一切の責任を持つこととした。


 戦後米軍政府が行った医療改革

(1) 官営医療制度
     軍政府は戦後直ちに官営医療制度を実施し、医師の個人自由開業を禁止した。医師は各地区の病院や診療所などの医療機関に公務員として勤務することとし、非常事態に対応したのである。
(2) 介輔制度
     戦後の医師の絶対数不足の中で旧日本軍の衛生兵、戦前に医学教育を受けていて、戦争のため学習を中断せざるを得なかった元学生などが医師助手として医療活動に従事させられた。彼らはその後、地域医療に大きく貢献することになった。
(3) 本土医学生留学制度
     軍政府は医師不足の解決のため医師養成の必要性を重視し、1949年に契約医学留学制度を開始した。
(4) 保健所の設立
     保健衛生行政の対策として、軍政府は各地区に次々と保健所を設立した。以後保健所は、本土同様、保健衛生指導に大きな役割を果たしてきた。
(5) 公衆衛生看護婦の育成
    保健所の設立と同時にコ・メディカルズの育成にも力が入れられていったが、そのなかでも特に公衆衛生看護婦(公看)の育成が進められ、各保健所を中心に地域に密着した保健医療の担い手として当時深刻な問題であった結核、ハンセン病の予防と治療などに重要な役割を担った。
(6) 臨床検査技師の育成
伝染病や寄生虫の疫学的調査を行うなど、地域衛生業務には欠かせない臨床検査技師の 養成も進められた。

米軍は医療や道路など生活環境を整理した後に政治・経済の発展に取り掛かった。

米軍による政治改革
戦前は地方議員に対して報酬(月給)を支払うことは法律で禁じられていた。地方議会議員は名誉職的に考えられていて、生活に困らない資産家が立候補する例が大半であった。
戦前の沖縄は中央政府から派遣された知事が権力を握っていたから、地方自治は有名無実だった。戦前に自治の体験をした政治家はいなかったのだから戦後の沖縄には自治能力はなかったと言っても過言ではない。
米軍はそんな沖縄に自治能力を育てていったのである。

立法院 
1952年4月1日、定員31人(任期2年)の議会として発足。
立法院は、米国民政府布令第68号「琉球政府章典」により設置された、琉球政府の立法機関である。立法院の権限は、沖縄に適用されるすべての立法事項について立法権を行使することができるが、米国民政府の制約下にあり、法令の無効を命じられることもあった。
1952年4月1日、定員31人(任期2年)の議会として発足。
1952年5月1日、議長・副議長が議員の互選となる(それまではアメリカ上院にならって行政副主席が議長になっていた)。
1953年12月26日、奄美地区が日本に返還される。
1954年2月1日、民政府布令第57号「立法院議員選挙法」改正第5号により、立法院議員の選挙制度が「中選挙区制」から「小選挙区制」になる。また、民政府布令第68号「琉球政府章典」改正第6号により、定員が29人となる。
1954年7月29日、立法院新議事堂が完成し、移転する。
1954年10月21日、沖縄人民党の瀬長亀次郎議員が議員資格を剥奪される(人民党事件の軍事裁判で懲役2年の判決が下ったため)。
1956年1月31日、立法院制定の立法院議員選挙法(1956年立法第1号)が公布される。
1962年2月19日、大統領行政命令改正により、立法院議員の任期が3年になる。
1965年5月28日、立法院議員選挙法が改正され、立法院の定員が32人となる。

立法院の権限

(1)立法権
米国民政府の布告・布令・指令に反しない限りにおいてその範囲内ではあるが、日本本土においては法律で定めるべき事項に対して立法権を行使した。立法院が制定する法令は立法と呼ばれる法形式が取られており、米国民政府の承認を経て施行されていた。「立法」は「旧日本法(1945年のニミッツ布告公布時点での日本法)」に優越するため、立法をもって旧帝国議会制定の法律の改廃が可能であった。よって、日本の地方議会の条例のように「2年以下の懲役・禁固もしくは100万円以下の罰金もしくは没収、5万円以下の過料」という罰則の制限はなく、法理論上は死刑を含む刑罰を定めることができた。
立法提出権は議員のみが有し、行政主席には与えられなかった。その代わり、立法が必要とされる場合には行政主席は参考案が付いた立法勧告書(メッセージ)を提出することができた。

(2)規則制定権
立法院における会議その他の手続及び内部の規律について「立法院規則」を制定する権限を有する。

歴代立法院議長
初代 - 泉宇平(1952年4月1日-1952年4月30日)※行政副主席
2代 - 護得久朝章(1952年5月31日-1953年12月26日)
3代 - 平良幸市(1954年4月5日-1954年9月13日)
4代 - 大浜国浩(1954年9月13日-1956年3月31日)
5代 - 与儀達敏(1956年4月12日-1958年3月31日)
6代 - 安里積千代(1958年4月7日-1960年11月30日)
7代 - 長嶺秋夫(1960年12月1日-1967年5月12日)
8代 - 山川泰邦(1967年5月12日-1968年11月30日)
9代 - 星克(1968年12月7日-1972年5月14日)
          
米軍は沖縄の議会制民主主義を育てていったが、沖縄の革新勢力は議会制民主主義を破壊する行為に出た。それが教公二法阻止運動である。教公二法には教員の政治活動を規制した条文があり既に本土では制定された法律であった。しかし、沖縄の教職員は政治活動を規制されることを嫌い、教公二法阻止闘争を展開した。
民主党(自民党系)は教公二法案の成立への手続きは進んでいった。危機を感じた教職員は10割年休闘争を決定して立法院を取り巻いた。そして、1967年2月24日、民主党が教公二法を強行採決しようとした時、教職員は警護している警察管をごぼう抜きにして立法院に突入して教公二法の議決を阻止した。 教公二法闘争は教職員の政治力の強さを証明した事件であった。
アンガー高等弁務官は「教公二法案を可決することは沖縄における民主主義がかかっています。民主主義や多数決のルールに従うのか、それとも暴徒のルールに従うかです。教師の政治活動や子供への影響の問題も重要なことですが、より深刻なのは、果たしてこの島で民主主義が生き残れるかということです」と心配した。
革新系政治家や知識人から植民地支配をしていると言われている米軍民政府のアンガー高等弁務官が「果たしてこの島で民主主義が生き残れるか」と教職員の立法院乱入を民主主義を破壊する行為とみなしたのである。アンガー高等弁務官は、米国は沖縄の民主主義を守る側にあると認識していたのだ。アンガー高等弁務官の発言から米国が沖縄を民主主義社会にしようとしていたことが窺える。
アンガー高等弁務官は、対立が沖縄人同士であるという理由で琉球政府からの米軍の直接介入の要請を断っている。これもまたアメリカ流の民主主義である。


行政主席

行政主席は琉球政府の行政府の長である。今でいう県知事である。戦前の知事は中央政府から派遣されていたから沖縄出身の知事はいなかった。行政主席が歴史上初めての沖縄出身の首長ということになる。
琉球政府の行政権は行政主席に属するとされたが、実際の権限は米国民政府が掌握しており、行政主席の権限は制約されたものであった。
行政主席は、立法院の立法案(予算案等も含む)に対して異議のある場合は、理由を明示して立法院に返送することができる(いわゆる拒否権の行使)。ただし、立法院の3分の2以上の多数で再議決された場合は、米国民政府の民政副長官(後の琉球列島高等弁務官)の決定を待たなければならない。また、行政主席は法案提出権や議会解散権を持たないなど、都道府県知事や市町村長の権限と大きく異なるところがあった。

行政主席指名権
立法院発足当初はなかったが、自治権の拡大にともない、行政主席を指名することが可能になった。1968年に行政主席公選制が実現し、発展的解消された。
1952年 - 57年 米国民政府による直接任命
1957年 - 61年 立法院の代表者に諮って、米国民政府が任命
1962年 - 65年 米国民政府の受諾できる者を立法院が指名し、米国民政府が任命
1965年 - 68年 立法院議員による間接選挙
1968年 - 72年 住民による直接選挙 沖縄の歴史上初めてである。
 このように米民政府は、直接任命から直接選挙へと発展させていった。

○琉球大学 1950年に首里城跡後に設立した。
○米琉親善記念日の制定
1853年5月26日のペリー提督来琉を記念して、5月26日を米琉親善記念日に定め、様々な記念行事が行われた。その後、この日の前後1週間を米琉親善週間と定めた。
○広報活動
米国民政府は、『今日の琉球』『守礼の光』の2種類の月刊誌を発行していた。これらの雑誌は、戸別に無料で配布されたほか、各地の琉米文化会館や琉米親善センターでも無料で入手することができた。
『今日の琉球』 1957年に創刊された米国民政府発行の月刊誌である。米国民政府の宣伝や施策の解説や琉米親善活動の記事が多かった。
『守礼の光』 1959年に創刊されたPR用の月刊誌である。上記の「今日の琉球」とは異なり、主として沖縄文化やアメリカの歴史などを紹介し、親しみやすく編集されていた。実際の編集は、東南アジアの共産勢力向けのプロパガンダをしており、沖縄に印刷工場や放送局を有していた米陸軍第7心理戦部隊が行っていた。
○琉米親善委員会の組織化
1950年代後半に、琉米相互の親善と理解を図ることを目的とした琉米親善委員会が組織された。しかし、親善団体というよりは、米国民政府に対する援助要請窓口という色彩が濃くなっていった。
○文化施設の建設
琉米文化会館琉米文化会館 米国民政府の文化施設で、名護市・石川市(現うるま市)・那覇市・平良市(現宮古島市)・石垣市・名瀬市(現鹿児島県奄美市)に設置された。アメリカ型の文化施設で、図書室・ホール・集会室が完備されていた。復帰時に日本政府に買い上げられて、各自治体に無償譲渡された。
○琉米親善センター 琉米文化会館と同じ目的の施設であるが、こちらは自治体の施設で、米国民政府の援助と地域住民の寄付によって建てられた。コザ市(現沖縄市)・糸満町(後市制施行し糸満市)・座間味村にあった。

○琉球銀行設立 1948年5月1日。
戦後のインフレ抑制と沖縄経済の正常な発展のため、「金融秩序の回復と通貨価値の安定」を目的とし、米国軍政府布令に基づく特殊銀行として設立されました。
○製糖工場設立 1952年  
ハワイの遊休2製糖工場の機械設備を導入 1953年に1回目の操業を行い亜硫酸法による耕地白糖を製造。

 米民政府は沖縄の医療、政治、経済、文化などあらゆる分野の発展に尽力したのである。


沖縄産業の恩人 サムエル・C・オグレスビー
沖縄を愛し、経済の発展に全力を注いだ人がサムエル・C・オグレスビー氏である。沖縄産業の90パーセントにオグレスビー氏は関わったと言われている。彼は沖縄産業の恩人と呼ばれ、今でも経済界の人たちは毎年命日には泊の外人墓地にあるオグレスビー氏の墓を参拝している。


オグレスビー氏は1911年10月アメリカ合衆国バージニア州で生まれ、メリーランド大学で学士号及び博士号を習得、さらに、エール大学で極東問題と日本語の研鑽を積み卒業した。同氏は1950年に米国民政府職員として沖縄に赴任し、沖縄の経済、特に諸工業復興の趣旨を撒き芽を育て、戦前の沖縄では夢想だにできなかった各種の近代的工業の隆昌を見るに至ったことは、真に沖縄を愛し、沖縄の繁栄を願う同市の16年余にわたる献身的努力の賜物である。
               「沖縄産業の恩人 サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」

オグレスビー氏は1950年(昭和25年)に、琉球列島米国民政府経済局次長として沖縄に赴任した。当時の沖縄の経済は、戦前より製糖産業以外の産業がまともに存在しておらず、戦争で焼け野原になった事もあって、ほぼ何もない状態であった。オグレスビー氏は赴任早々に、製糖産業とパイナップル産業の発展に着手し、この2つの産業を「沖縄二大産業」と呼ばれるくらいまで成長させた。
1953年(昭和28年)に琉球工業連合会(現・社団法人沖縄県工業連合会)が設立されると、会のアドバイザーとなり、産業界への融資や新しい機械の導入を進めて、沖縄の経済特に工業の振興に献身的に尽くした。彼が携わった産業には、製糖、味噌醤油、製油、ビール、セメント、鉄筋、合板、菓子類など数多くあり、沖縄の製造業の90%はオグレスビー氏の支援や指導によるものと言われている。1965年(昭和40年)10月1日より琉球開発金融公社の3代目理事長に就任し、翌1966年(昭和41年)4月まで務めた。
1966年12月20日、宜野湾市にて死去。55歳没。「自分が死んだら沖縄に埋葬してほしい」と遺言していた事もあって、那覇市泊にある国際墓地にタイス夫人と一緒に眠っている。
オグレスビー氏の告別式に参列した政治家、経済人
 琉球商工会議所会頭・宮城仁四郎   沖縄経営者協会会長・船越尚友   
 琉球分蜜糖工業会会長・石橋好徳  琉球工業会会長・具志堅宗精
友人代表
 松岡政保、長峰秋夫、小波蔵政光、久手堅憲次、崎山秀英、宝村信雄、大城鎌吉、国場幸太郎、稲嶺一郎、仲田睦男

 オグレスビー氏に関する本は「沖縄産業の恩人 サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」一冊だけである。この本は研究者が書いた本ではなく、オグレスビー氏の死去から20年の節目を記念して、「オグレスビー氏産業開発基金」が発行した本であり、内容は生前のオグレスビー氏と交友のあった経済人や政治家の思い出を書いたものである。本に書かれたオグレスビー氏の説明をするより、宮城仁四郎氏の告別式での弔辞のほうがオグレスビー氏の人物像が分かってくると思うので弔辞を紹介する。

宮城仁四郎の告別式での弔辞
 私とオグレスビーさんが最初にお会いしたのは1950年、オグレスビーさんが沖縄へ来られて直後だと思います。それも当時、琉球政府、民間人から「沖縄の農業は、甘藷作りでなければならない、又、工場も昔と違って初めから大型分蜜糖工場にするべき」との意見書が、民政府に出されていて、民政府ではハワイ、ルイジアナその他から専門技術者を招聘し、これらの方々の意見書が出てその結論を今日言い渡される様であるが、「どうも良いことではないようだから一緒に行ってくれ」と琉球政府の糖業関係の係員が来て頼まれました。
 私は当時、勢理客で製塩業をして居りましたが、要望があってお会いしたのがオグレスビーさんでした。案の定、オグレスビーさんは沖縄の糖業は専門家の意見では、「大型工場にする程もない。せいぜい黒糖工場でやっていく程度だ」とのことでした。それで私は立ち上がってオグレスビーさんを指さして「それなら沖縄はどんな農業をすれば良いというのか!沖縄の農業について貴方より私の方が詳しいつもりだ」と随分、失礼な云い方をしたのですが「それでは君が、毎日でも来て私を説得してみろ」とのことで「よろしい」と別れました。当時はキャンプ桑江には、自動車がないと乗り入れが出来なかったが、私の製塩会社にはトラックが1台配車されていたので、約1年ほど毎週2回位行って琉球製糖建設の話をしたものでした。いつも午後1時に行って帰りは日暮れでした。いつの間にか二人は仲良くなり、砂糖以外の沖縄の産業についても意見を交換するようになりました。桑江キャンプには5つのセクションにそれぞれ部長が居て沖縄問題はこれらの方々の合意により処理された様でしたが、オグレスビーさんは遂にこの方々と沖縄群島民政官を説得され、ガリオア資金により琉球製糖工場を建設されることになりました。琉球製糖は始まっても金もないのでハワイの遊休工場を13万8千ドルの全くの捨て値で購入して建設したのですが、工場を知らない人達から色々なデマや誹謗があって常に苦労をし、私は琉球製糖を引かざるを得ないようになりました。後で分かったことですが、オグレスビーさんも大変な非難を受けられた様ですが、私には一言もそれらしいことは云われませんでした。
 或る経済団体の祝賀会で、オグレスビーさんは「琉球製糖建設で私も10年歳を取ったが、宮城さんも10年ふけた」と云って笑われたのを想い出します。
 普通の官吏であれば、それにこりて後は事なかれ主義で通したと思われますが、その後も沖縄に於ける新しい企業には例外なく、オグレスビーさんが努力されて実現しています。今日、沖縄にある二次産業の90%はオグレスビーさんのお蔭で出来たといっても決して過言ではありません。
 もう一つ忘れてならないのは、石垣島で沢山のパインアップルが栽培されて収穫期になるのに工場建設は未だ手つかずの有り様で、それを振興開発金融公社に融資申請しても恐らく許可を得て建設までは1年もかかると思われるので収穫期には間に合わないので、「各工場の建設資金を民政府で一括し、直接融資をしてもらいたい」と申し出のです。それには振興開発金融公社の悪口も随分云ったので初めはオグレスビーさんも怒っていましたが、民政官の直接調書をもらって2日で決定し、機械設計、建設に進みパイン企業初年度の業績を上げ、パインもほとんど腐らさずに処理できて後で民政府から逆に例を言われました。
 オグレスビーさんは、この5~6年余り、健康がすぐれない様子でしたが、時々訪問すると「この仕事で今晩は12時まで家でやらなければ」ということが続いていたようでした。最近でも沖縄の糖業問題を聞かれたり、北部製糖のことで随分気を使われて近々、話し合いたい、と云われていましたが、遂にその機会もなく逝去されました。
 役人の立場でオグレスビーさんほどお仕事の出来る方は、私は世の中にそんなに沢山は居られないと思います。オグレスビーさんの偉業は、沖縄繁栄の礎となって永久に残るでしょう。
 ご冥福を心から御祈り申し上げお別れの言葉とします。
               「宮城仁四郎の告別式での弔辞」

 その時の軍政本部商工局長は、分からず屋で通った男だった。いったん認可した機械の払い下げを、朝鮮戦争勃発による事情急変を理由に取り消しを通告してきた。その時窮地に陥った私のために、商工局長とのあっせんの労をとってくれ、機械の払い下げを約束通り実現してくれたのがオグレスビー氏である。赤マルソウ味噌醤油合名会社を那覇市与儀から現在地の首里寒川町に移し、工場を拡張できたのもそれからのことである。昭和26(1951)年1月末から本土との自由貿易が再開され本土産品の大量輸入で大ピンチを迎えた地元醤油業界に対しても彼は救援の手を差し伸べてくれた。
 操業間もないわれわれ生産業者の窮状の訴えに対し、早速関係者を説き伏せて、昭和28(1953)年4月「醤油の輸入全面停止」の実施に力を注いでもらった。
 この措置が、米民政府のとった、地元産業育成の第1号となった。
        赤マルソウ、オリオンビール株式会社創設者具志堅宗精
 


オグレスビー氏の功績を記念して二つの賞が創設された。

(1)オグレスビー氏工業功労者賞
 沖縄の工業発展に著しく功績のあった者や沖縄の産業開発に有益な事業を興した者に授与する。
○新規企業を導入して成功した者
○新製品を開発して成功した者
○その経営する企業によって沖縄経済に大きく貢献した者
○人格高潔なる者
○その他
2015年度受賞者
 沢岻カズ子  株式会社御菓子御殿代表取締役会長
 金城博  株式会社トリム代表取締役会長

(2)工業関係学生の学資援助
 オグレスビー氏奨学金は、工業関係学科の在学生に対して、心身健全、志操堅固、学業優秀で、経済的に学資の支出が困難な学生に学資の一部を支給している。
2015年度受賞者
 沖縄高専の安元康貴さん
2014年度受賞者
美里工業高校の上江洲紅歌さん
浦添工業高校の松本勇志さん
 
オグレスビー氏工業功労者賞と工業関係学生の学資援助は現在も続いている。


 銃剣とブルドーザーによる強制土地接収、墜落事故、騒音被害、婦女暴行、交通事故等々が報道され続け、米軍は悪であるというのが沖縄では定着している。それは「アメリカ帝国主義は完全に琉球を植民地・軍事基地・奴隷化し」と決めつけている共産党の論理が深く浸透していったからである。革新、沖縄タイムス、琉球新報も米軍に対する思想は共産党の影響を強く受けている。革新や沖縄二紙が反米軍基地運動していた裏で、米軍は医療で沖縄の人々の健康を守り、立法院、行政主席、裁判所を設立して沖縄の民主化を進め、琉球大学を設立して沖縄発展のための人材を養成するシステムをつくり、経済を目覚ましく発展させたのである。それが民主主義国家米国の民主主義米軍の真実である。



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