沖縄2紙の慰安婦「軍強制」報道の嘘




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「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

ブログ・光と影  古代ヒロシ

那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

じんじんのブログ  じんじん

米統治により、
沖縄は近代化されたことを忘れてはダメ   九三
                        
ブログ・沖縄に内なる民主主義はあるか
                     又吉康隆

二年連続教え子へのわいせつ行為ができる島・沖縄 九五


短編小説  又吉康隆
港町のスナックはてんやわんや  九九


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沖縄2紙の慰安婦「軍強制」報道のの嘘


今朝のタイムス・新報に掲載された「慰安婦『軍強制』の文書」は白馬事件のことである。この事件は裁判も行われた有名な事件である。白馬事件の全容を紹介する。

白馬事件(しろうまじけん)とは、日本軍占領中のインドネシアで日本軍人によりオランダ人女性に対して行われた監禁・強姦事件のこと。「白馬」の由来は、白人を白いウマに擬(なぞら)えていた事から。慰安所の所在地から、別名スマラン事件、オヘルネ事件。

一九四四年二月、南方軍管轄の第一六軍幹部候補生隊が、オランダ人女性三十五人を民間人抑留所からスマランにあった慰安所に強制連行し強制売春させ強姦した容疑で、戦後、国際軍事裁判において(将官や兵站責任者の佐官などの高級将校を含む)当該軍人・軍属(請負業者)たちに有罪が宣告されている。

日本軍による白人への性犯罪事件という点でも珍しい事件であるが、同時に、国際裁判で裁かれた日本軍人によるアジア諸国での監禁・強姦事件である。

概要[編集]オランダの軍事裁判の報告を調査した吉見義明によれば、

当時スマランには既に慰安所があったが、性病の蔓延から新たな慰安所の設置が計画された。慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には自由意思の者だけ雇うようにというジャカルタの第十六軍司令部のガイドラインを無視した。

複数の将校と慰安所業者は、ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所から十七歳から二十八歳の合計三十五人のオランダ人女性を強制的に集め、スマラン市内のカナリ通りの建物で日本語で書いた趣旨書への署名を強制した後、スマランの4つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘)に連行した。

三月一日から営業を始め、女性達は毎日強姦された。給料は払われず、暴行され、その上、性病を移された者、妊娠した者がいる。週に一度医師の身体検査があったが、充分な治療はほとんど行われなかった。

しかし自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーが、陸軍省俘虜部から抑留所視察に来た小田島董大佐に訴え、同大佐の勧告により16軍司令部は、一九四四年四月末に四箇所の慰安所を閉鎖した。(小田島大佐の視察は、事件と前後して抑留所の管理が軍政監部から現地軍司令部に移管したためのものである。)しかしながら、日本軍は、当事者を軍法会議にかける事も処罰も行なわなかった。

終戦後の一九四八年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として十一人が有罪とされた。罪名は強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。有罪者は、軍人および慰安所を経営していた日本人業者等であり、責任者である岡田慶治陸軍少佐には死刑が宣告された。また、中心的役割をはたしたと目される広島県生まれの陸軍大佐[誰?]は戦後、日本に帰っていたが軍法会議の終了前に自殺した。裁判では、慰安婦にされた三十五人のうち二十五名が強制だったと認定された)。


一方、オランダ人女性の強力な抵抗により若い女性が連行されることを防いだ抑留所(スモウォノ・バンコン・ランペルサリ)もあった。年上の女性たちが志願することで、若い女性が助かった事例もあった。また、以前に日本人と関係があった「道徳観念に乏しい」女性達のリストを作り若い女性の身代わりとさせたケース等もあり、これらの身代わりとなった女性は「志願者」と呼ばれた(この件では戦犯裁判で無罪)。

一九九四年のオランダ政府の報告書では、インドネシア各地の慰安所で働いていた二〇〇~三〇〇人のオランダ人女性のうち少なくとも六十五人は絶対確実に(most certainly)強制売春の犠牲者だったとされている。

一九九〇年に対日道義的債務基金(JES)が結成され、日本政府に対し、その法的道義的責任を認めて一人当たり約二万ドルの補償を支払うよう求める運動が始まった。これに対し日本政府は、アジア女性基金により総額二億五五〇〇万円の医療福祉支援を個人に対して実施し、二〇〇一年オランダ人女性に対する「償い事業」を「終了」した。

しかし二〇〇七年、オランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされた。二〇〇八年に訪日したマキシム・フェルハーヘン外相は「法的には解決済みだが、被害者感情は強く、六〇年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」と述べ、日本側の償い事業の継続を求めた。

また同二〇〇七年、米国議会での慰安婦聴聞会にこの事件の被害者・証人としてたったジャン・ラフ・オハーン(ジャンヌ・オヘルネとも表記)は、 当時19歳だった42年、日本軍占領後、収容所に入れられ、「日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。 彼は刀を抜いて‘殺す’と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。

その夜は何度強姦されたか分からない」「一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」と証言し、「日本は九五年にアジア慰安婦財団を作って私的な補償をしたというが、これは慰安婦に対する侮辱」とも主張。 「日本は政府レベルで残虐行為を認め、行動で謝罪を立証しなければならず、後世に正しい歴史を教えなければならない」と求めた。 「日本人は私たちが死ぬのを待っているが、私は死なない」とし、日本が正式に謝罪するまで闘争を続けるとした。

付記[編集]秦郁彦は、判決で被害者のオランダ人三十五人のうち全てが強制とはされなかった事、慰安所に連行される以前に売春婦であった女性が存在した可能性について述べている。

一九九九年には女性のためのアジア平和国民基金が(白馬事件の裁判証言記録を含め)オランダ国立公文書館・アムステルダムの国立戦争資料研究所・オランダ外務省公文書室の資料を調査し「慰安婦」問題調査報告に発表した。 

これらの資料には、白馬事件以外にも日本軍による強制連行の様子や憲兵隊による地位の濫用、また逆に軍の強引な「志願者」徴募に対し憲兵隊が介入して女性を守った事例も述べられている。
                 ウイキペティア参考

「慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には自由意思の者だけ雇うようにというジャカルタの第一六軍司令部のガイドラインを無視した」
白馬事件は軍司令部が「自由意思のある者だけ」を雇うように指示したにも関わらず、幹部候補生隊長は軍司令部の指示を破って強制的にオランダ女性を慰安所に連行した。慰安婦制度に違反した犯罪行為である。だから、事実を知った第一六軍司令部は、一九四四年四月末に四箇所の慰安所を閉鎖したのだ。

タイムス・新報は「『慰安婦』は軍強制」と大見出しで、あたかも「慰安婦」は日本軍の強制連行であったように報じている。

戦時中、旧日本軍がインドネシアの捕虜収容所からオランダ女性三十六人を強制連行し、「慰安婦」としたとの記載がある公的資料が六日までに、国立公文書館(東京)で市民団体に開示された。資料は軍の関与を認めた河野官房長官談話(一九九三年)の基となるもので、存在と内容の骨子は知られていない。詳細な記述が明らかになるのは初めて。
                   沖縄タイムス
沖縄二紙は慰安婦制度に違反した四つの慰安所が四カ月後に閉鎖したことを故意に報道しない。バタヴィア臨時軍法会議では全員ではなく三十五人のうち二十五名が強制だったと認定された。十人は慰安婦に同意したから強制連行ではないと軍法会議が認めたのである。そのことも故意に報道しない。あたかも三十五人全員が強制連行だったように報じている。

白馬事件の問題は慰安婦になることを拒否した二十五人のオランダ女性を連行したことにある。それに加えて女性たちに賃金を与えなかった。これも慰安婦制度に違反している。

石川県庁で行われた聞き取り調査の記録によると、中将は「連合軍の取り調べとなると、婦人たちもあることないこと並べ立て、日本軍部を悪口する」と戦犯法廷に反論する一方、「(慰安婦となる)承諾書を取る際も若干の人々に強制があった」と述べた。
                 沖縄タイムス
承諾を強制することは違反行為であることを中将が認めているように日本軍は本人の自由意思で承諾した女性だけを慰安婦にしたのだ。強制は違反行為だった。
白馬事件で明確になったことは、慰安婦は十七歳以上であること。本人の自由意思で慰安婦になること。仕事には相応する給料を払うことを日本軍は遵守していたことである。一方日本軍の指示を破って違反行為する日本兵がいたことも事実であった。

バタヴィア臨時軍法会議で有罪としたのは日本軍でも有罪であり、バタヴィア臨時軍法会議で無罪と判定したのは日本軍でも無罪であった。ただ、日本軍は慰安所を閉鎖しただけで違法行為をした者たちを裁いていない。このことは批判されても仕方がないことである。

タイムスはこの事件が河野談話の基になっていると報じている。もし、白馬事件の全容を知ったならば、日本軍は強制連行、強姦を禁じていたことが理解できる。白馬事件は河野談話の基になっていない。河野談話は政府の調査では強制連行の事実はなかったが韓国の元慰安婦の圧力に屈して強制連行を認めたと当時の政府関係者が述べている。

白馬事件を参考にして韓国の慰安婦問題を見ると、多くの矛盾が分かる。
十四歳、十一歳で慰安婦させられたというが日本軍は十七歳以上の女性を慰安婦として認めた。十四歳、十一歳で慰安婦になったのはあり得ないことである。

韓国の元慰安婦は騙されて慰安婦にさせられたと主張している。日本軍は本人の自由意思で慰安婦になることを条件にしているし承諾書にサインもさせている。本人の意思に反して慰安婦にすることはできなかった。強制的に慰安婦にさせられたというのは白馬事件のように犯罪行為以外にはあり得ない。

もし、本人の意思に反して承諾書が作成されたなら公文書偽造の犯罪行為である。公文書偽造を取り締まる責任は日本軍にはない。韓国の警察にある。実際韓国の警察は少女たちの年齢詐称や強制による公文書偽造をした業者を摘発している。しかし、すべての公文書偽造を摘発できたのではなかった。そのために強制的に慰安婦にさせられた女性もいただろう。

十四歳十一歳の少女を十七歳に偽装するのは無理がある。彼女たちは慰安婦ではなく違法な少女買春婦にさせられたとしか考えられない。

新聞二紙は白馬事件の一部を報道して日本軍は強制連行・強姦したと何度も繰り返し報道している。それが沖縄二紙の常とう手段である。新聞だけを読んでいる人たちは沖縄二紙の報道を鵜呑みにしているだろう。

新聞二紙は白馬事件の全容を知っている。知っていながら一部を報道して慰安婦は軍が強制連行・強姦していた女性であると主張するのである。何度も何度も繰り返し嘘の報道をするのにはあきれるばかりだ。しつこく嘘の報道を続ける新聞二紙は狡猾で頭が狂っているというしかない。

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本土のオスプレイ訓練反対集会に見える本当のこと







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「オスプレイNO」のメッセージカードを一斉に掲げる反対集会参加者=滋賀

オスプレイの絵の上に赤いバツ印と「No(ノー)」の文字を書いた紙を掲げ、訓練反対をアピールする集会参加者(高島市今津町・住吉公園

 滋賀県高島市の陸上自衛隊饗庭野演習場で日米共同訓練が始まるのを前に、訓練に反対する集会が6日、同市今津町の住吉公園一帯で開かれた。近畿を中心に各地から約1100人(主催者発表)が参加し「オスプレイは来るな」などと訴えた。

 滋賀県内の平和団体や労働組合などでつくる「ふるさとをアメリカ軍に使わせない滋賀県連絡会」が主催。
 集会では、同連絡会の杉原秀典代表委員が「オスプレイの訓練が本土で増えれば、沖縄での離発着もそれだけ増える。負担軽減をいうなら、今すぐ米国に戻すべき」と述べた。高島市民でつくる「あいば野平和運動連絡会」の大野哲朗共同代表も「高島はじめ日本中のふるさとにオスプレイが飛び回っていい所などない」と訴えた。

 京都、高知、山口各府県の団体代表や、共産党の市田忠義書記局長らも参加した。市田氏は「オスプレイの訓練は適地へ潜入し、奇襲をかけるのが目的で、侵略戦争そのもの」と強く非難した。

 集会宣言を採択後、参加者たちは訓練反対の横断幕やプラカードなどを掲げ、シュプレヒコールを上げて同町内をデモ行進した。
京都新聞 十月六日

この二つの写真は沖縄ではない。本土のオスプレイ訓練反対集会である。黄色のプラカードを掲げている集会は沖縄の集会と見間違うほどそっくりである。この写真を見て分かるように沖縄でオスプレイ配備反対、オスプレイ訓練を沖縄だけでなく本土でも平等に負担しろと主張している沖縄の自治労、沖教祖を中心とした団体と本土のオスプレイ訓練反対の団体は同じ仲間の自治労、日教組である。同じ仲間なのに言うことはずれている。

共産党の市田忠義書記局長が参加しているように、彼らのリーダーは共産党である。この集会は地元の人たちだけの集会ではない。京都、高知、山口各府県からも党員を動員しているだろう。共産党は全国組織であり、資金が豊富だからこのような集会には全国から党員を動員することができる。半分以上の参加者が県外の党員の可能性が高い。
普天間飛行場の野嵩ゲートのオスプレイ配備反対の集団のほとんが宜野湾市外の老人たちであるのと同じである。

沖縄では、普天間飛行場の県外移設を知事はじめ全市町村長が主張している。新聞も知事、市長村長、県民は県外移設を主張していると書いている。オスプレイは本土に配備しろと主張している。

「オスプレイ配備反対」「普天間飛行場の県外移設」を大衆運動でけん引しているのが自治労であり、沖教祖とそのOBたちである。そして、彼らの運動の象徴が「怒」「オスプレイNO」などを書いたプラカードである。

本土のオスプレイ訓練反対集会でも同じプラカードをかざしているということは、彼らと沖縄でプラカードを掲げている連中は同じ仲間であるということだ。本土の仲間たちが集会を開いているということだ。つまり、自治労、日教組そして共産党の全国組織が沖縄でも本土でもオスプレイ反対運動をやっているということだ。

「あいば野平和運動連絡会」の大野哲朗共同代表は「高島はじめ日本中のふるさとにオスプレイが飛び回っていい所などない」と言い、共産党の市田忠義書記局長は「オスプレイの訓練は適地へ潜入し、奇襲をかけるのが目的で、侵略戦争そのもの」と非難したという。

大野哲朗共同代表と市田忠義書記局長が沖縄の自治労、沖教祖、共産党、社民党の本音であるのは間違いない。それなのに翁長那覇市長は「オスプレイの沖縄配備反対」「普天間飛行場の県外移設」は党派の垣根を越えた「オール沖縄」の主張だなどと自信満々である。

自民党は本部は「辺野古移設」を主張し、沖縄は「県外移設」を主張したように本部と地方の主張が違う場合があるが、徹底した序列型組織であり、資本主義国家を打倒して社会主義国家をつくる大義名分を掲げ、反米主義、日米安保破棄の主張が強固である共産党には本部と地方のずれはない。だから共産党に結集している全国の共産党員の思想にぶれは全然ない。共産党がイニシアチブを握っている沖教祖、自治労も共産党本部とのぶれはまったくない。

翁長那覇市長が「オール沖縄」の音頭をとって共産党、社民党、社大党をうまく丸め込んだと思っているが、本当は自分が共産党に丸め込まれているのだ。

共産党は「県外移設」に反対である。なぜ、「県外移設」反対を表で主張しないかというと、「県外移設」派を巻き込んで自民党政府の「辺野古移設」に圧力をかけ「辺野古移設」を潰すためだ。共産党にとって「辺野古移設」を潰すための圧力に利用しているのが「県外移設」であって「県外移設」を目的にはしていない。共産党、自治労、沖教祖は「県外移設」に本当は反対である。

それが如実に表面化したのがオスプレイ訓練反対高島集会である。オスプレイ訓練を沖縄だけに押し付けるな。本土でも訓練して沖縄の苦痛を体験させろと主張していたのが沖縄二紙であり、自治労、沖教祖などオスプレイ配備反対派であった。ところが本土訓練が現実になると本土の共産党、自治労、日教組はオスプレイ訓練反対集会を開いたのである。沖縄二紙は本土で訓練しても沖縄の負担は減らないなどとおかしな理屈をいうようになった。オスプレイ訓練くらいでこの反応である。もし、普天間飛行場を本土に移転しようとするとどうなるか。

「県外移設」が現実的になると共産党、社民党、自治労、日教組は「県外移設反対」の先頭に立ち、自治労、日教組が中心となり一般市民も巻き込んで普天間飛行場移設反対は大規模な運動になるだろう。

党派を超えた「オール沖縄」は「県外移設」を主張しているという翁長市長や「県外移設」のほうが簡単だなどという仲井真知事は本当は共産党の思惑に縛られているのである。


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比屋根照夫琉球大名誉教授批判







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 オスプレイの沖縄配備一年を記念して、沖縄タイムスは「識者談話」というコラムでは比屋根照夫琉球大学名誉教授(七十四)の談話を掲載している。比屋根琉大名誉教授の専門は沖縄近代思想史である。

「オスプレイ配備に反対して、昨年の県民大会から普天間飛行場のゲート封鎖、今年の全市町村による東京行動へと続いた一連の運動は、一九五〇年代の土地接収に対する島ぐるみ闘争を想起させた。戦後六十八年間続く占領状態の不条理に対し、沖縄は非暴力で抵抗してきた」
           比屋根照夫・琉球大名誉教授談
 比屋根氏は琉大の名誉教授ある。彼は学者である。政治家でもなければ大衆運動家でもない。学者であるなら事実を客観的に把握することがなによりも大切である。主観で判断するのは学者として失格である。ところが比屋根名誉教授の談話は主観だらけであり、学者というより革新政治家である。いや、政治家ではなく政治屋のほうがふさわしい。

「オスプレイ配備に反対して、昨年の県民大会から普天間飛行場のゲート封鎖、今年の全市町村による東京行動へと続いた」の批判は後にするとして、
 比屋根氏は一九五〇年代の土地接収に反対する運動を「島ぐるみ闘争」と呼んでいるが、土地接収反対運動は宜野湾の伊佐浜と伊江島の二か所だけで起こったのであり、ほとんどの土地接収はスムーズに行われている。政治活動家は元々主観的だから「島ぐるみ」と言ってもいいが、学者である比屋根氏が「島ぐるみ」となんの疑問もなく言い放つのはどうだろうか。「島ぐるみ」は学者としての比屋根氏の発言としては適切な発言とはいえない。

 読谷村ではトリイ通信基地建設予定地内にあった楚辺と渡久地が強制移転させられた。強制移転といっても移転場所は米軍が原野を切り開き、区画整理した住宅地に移転した。この事実を隠したまま、米軍の無慈悲な強制移転を演出しているのが「島ぐるみ闘争」を伝える時の沖縄の新聞、革新系政治家、識者である。比屋根照夫琉球大名誉教授もその一人である。
 私は読谷村の比謝区に住んでいたが、トリイ通信基地建設予定地にあった渡久知は海の近くから遠く離れた一号線(国道五十八号線)に隣接する比謝区の側に全住民が引っ越してきた。でこぼこだらけの原野にブルドーザーが入り、木やすすきをなぎ倒し、平らにして大きな平地をつくった。原野から平地へと変わっていく様子を比謝公民館の広場から見ていた私は初めて見るブルドーザーのものすごい力に驚いた。鍬と比べることができないものすごいブルドーザーの力であった。
 ブルドーザーのガードマンが友達の父親だったので、夕方に私たちはブルドーザーのほうに行き、父親に頼んでブルドーザーに乗った。ハンドルを握って「ブーブー」と言いながら運転のマネをして遊んだ。キャタピラを触ったり、後ろのエンジンの屋根に上ったりして遊んだ。ごついブルドーザーに感激したのを覚えている。

 楚辺の人口は読谷村の中で一番多く、三つくらいのが集まったくらいに大きい。楚辺もトリイ通信基地の建設予定地にあったので米軍が原野を整地して、現在の場所に全住民が引っ越した。このように米軍は強制撤去をするかわりに代替地を設けた。決して民を路頭に迷わすような強制撤去はなしなかった。このことを新聞や識者は隠したままだ。
幼稚園の時に仲良しになった子の家は軍用地になっていて米軍から立ち退きを言い渡された一号線(国道五十八号線)の東側にあった。他の家は移転していて、家は友達の一軒だけで周囲は畑と原野だった。屋敷の周囲に大きなゆうなの木があり、ゆうなの木の枝に乗って大きく揺らして隣の畑に飛んだり、すすきが茂っている広場では忍者ごっこをして遊んだ。遊ぶ場所が多かったので私は友達の家によく遊びに行った。
 軍から家の撤去は要請されていたと思う。しかし、ブルドーザーなどによる強制撤去はなかった。友達の父親は人民党員だったので立ち退きに抵抗したと思うが、米軍は強制撤去をしなかった。多分区長などの説得で平和的に移転したと思う。

 同年七月十一日、米軍はさらに伊佐浜の土地を十万坪(立ち退き家屋三十二戸)接収すると通告し、住民は「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対しました。しかし、七月十九日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、三十二戸一三六名の住民が住む家を失いました。
この土地の強制収容は県民に大きな衝撃を与え、米軍の占領支配への抵抗運動として「島ぐるみ闘争」へと発展していきました。
                 伊佐浜土地闘争
 米軍の強制撤去に沖縄の多くの人々は従った。伊佐浜と伊江島だけが移転を拒否し土地闘争を展開したが、果たして伊佐浜の全住民が反対したのか、それとも一部なのか。米軍は住居の代替地を準備しないで一方的に明け渡しを強制したのか、その点についてはなぜか公表しない。米軍は接収すると通告している。米軍の要求を一切無視して土地接収に反対したのが三十二戸の住民だったのではないか。朝鮮戦争がありり休息に社会主義化していく中国などがあって米軍にとっては戦略上どうしても軍用地として伊佐浜が必要だったから接収したのだ。そのことを理解しないで自分の利益だけを主張する利己主義の伊佐浜の住民にも問題がある。

 「三十二戸一三六名の住民が住む家を失いました」というのはおかしい。まるで米軍が代替地を準備しないで追い出したように見えるがそうではなく、住民は米軍が準備した代替地に移転することを拒否したのではないか。だから「住む家を失いました」である。渡具知や楚辺のことを考えると米軍が代替地を準備しないで一方的な撤去を強制したとは考えられない。
 渡久知は一〇〇戸以上が移転してきた。楚辺は三〇〇戸かそれ以上の戸数だったと思う。渡久知や楚辺に比べて伊佐浜の三十二戸一三六名は少ない。立ち退きを拒否したのは一部の住民ではなかったか。

 伊佐浜の水田は収穫量も多く、戦前からチャタンターブックヮ(北谷のたんぼ)」と呼ばれる美田が広がっていて、土地を接収されたら生活ができないと信じていたからである。だから、「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対した。
                    伊佐浜土地闘争
 しかし、伊佐浜の住民たちの「土地取上げは 死刑の宣告」という主張は間違っていた。「土地を接収」されても飢え死にはしなかった。それどころか米軍相手の仕事が増え、伊佐浜のある宜野湾市は空前絶後の経済発展をした。現在の人口は九万人である。戦後沖縄で一番の人口増加率である。
 もし、伊佐浜の住民たちの主張が通り、伊佐浜は米軍基地にならないで農業を続けていたらどうなっていたか。
サトウキビ農家が普通の生活をするのに必要な畑はおよそ一〇ヘクタールである。一ヘクタールは約三〇〇〇坪である。伊佐浜が接収された土地は一〇万坪だったから、もし、伊佐浜がさとうきび農家になっていたら接収された当時と同じ、三十二戸一三六名の住民が住んでいたと想定できる。(さとうきび一トンの値段は二万二、三〇〇〇円であるが、その内の一万六〇〇〇円は政府援助である)

 農業をしていたら伊佐浜で生活できるのは三十二戸一三六人前後である。もし、子どもが三人居て、三人で平等に土地を相続すると三人とも農業で生活することはできない。長男のために次男、三男は土地を相続しないで伊佐浜を出ていくしかない。
もし宜野湾市全体が農業中心であったら現在九万人の人口が五、六〇〇〇人の貧しい宜野湾になっていただろう。

「この土地の強制収容は県民に大きな衝撃を与え、米軍の占領支配への抵抗運動として「島ぐるみ闘争」へと発展していきました」と書いてある通り、島ぐるみ闘争は広がっていくが、しまいには空中分解して衰えていく。そのきっかけが辺野古であった。 
 辺野古は米軍の余った水や電気を提供するなどの条件をつけて米軍基地を受け入れた。米軍基地を受け入れた辺野古は空前の経済発展をした。辺野古の経済発展を見て金武村など他の市町村も米軍を積極的に受け入れた。そのために島ぐるみ土地闘争は受け入れ賛成派と反対派に分裂して衰退していった。

 伊佐浜を含む宜野湾市はめざましい経済発展をした。「土地取上げは 死刑の宣告」の考えはその後の歴史をみれば間違いであったことが分かる。それが「島ぐるみ闘争」の歴史的事実である。
 比屋根氏は学者である。学者であるなら島ぐるみ闘争の歴史を最後まで見届けて「島ぐるみ闘争」全体を把握するべきである。ところが比屋根氏は「島ぐるみ闘争」の最初の部分だけを取り上げ、「戦後六十八年間つづく占領状態」と土地接収は「死の宣告」であったと嘘をつくのである。「死の宣告」は土地を接収される農民の取り上げられる前の思い込みであって歴史的事実ではない。
 土地闘争の始まりから終わりまでを客観的に見ないで始まりだけを見てそれを土地闘争だという比屋根氏はまるで三流の政治屋と同じである。到底学者とは言えない。しかし比屋根氏は国立大学の名誉教授である。国立大の名誉教授としてのプライドが比屋根氏にはないのだろうか。

 五〇年代と決定的に違うのは、沖縄文化を見直す機運が高まり、自立・自決論が公然と語られることだ。日本国家に対し、これほどインパクトがある思想運動はない。しまくとぅばや沖縄文化の復権を通して、アイデンティティーを取り戻そうとしているのは画期的だ。
比屋根照夫琉球大名誉教授談

 マジでそんな風に考えているのか。信じられない比屋根氏の歴史観である。五〇年代と現在が決定的に違うのは、五〇年代はほとんどの人がウチナー口で話し、ウチナー芝居は盛んで、歌も踊りも盛んで沖縄文化は隆盛だったことだ。五〇年代は私の少年時代であるが、あの頃はテレビは無論だがラジオさえない時があった。私の家に二チャンネルの有線ラジオが入ったのは私が小学二、三年生の頃だった。それまではラジオさえかった。娯楽といえばウチー芝居であり沖縄民謡だった。大木には芝居小屋があった。広場に臨時の芝居小屋を造ったり、公民館を舞台にしたりして旅回りの劇団が沖縄芝居をよく上演したものである。劇団がやってくると宣伝カーが村中を走り回った。流れる音楽は民謡ではくなぜか春日八郎の「お富さん」だった。

お富さん
作詞:山崎正
作曲:渡久地政信

粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の 洗い髪
死んだ筈だよ お富さん
生きていたとは お釈迦様でも
知らぬ仏の お富さん
エーサオー げんやだな

 お富さんの作曲は沖縄出身の渡久地政信であるが、見ての通り歌詞の内容は難しい。ラジオからも宣伝カーからもよく流れるものだから内容は知らないで小学生ながら覚えて歌ったものである。お富さんは歌舞伎の物語の主人公を歌ったもので歌舞伎の物語を知らないと歌詞の意味を知らない。「粋な黒塀」「見越しの松に」「仇な姿の」「げんやだな」は今でも意味が分からない。それから「お富さん」は女ではない。男である。私はずっと女だと思っていた。リズムもよく歌いやすい歌であるが、内容は複雑で理解するのに難しい歌である。

 芝居が盛んだった五〇年代の頃に私たち子供に流行したのが「ヌギバイ」である。お金のない私たち貧乏な家の子供はテントカバーで作ってある囲いを潜り抜けるのである。見張りの男に見つかったら叱られ摘まみ出された。芝居見たさに私たち子供は芝居小屋の回りをうろうろし、中の華やかな歌や芝居にわくわくし、そして勇気ある者は「ヌギバイ」をした。芝居が最高の娯楽であった時代のことである。
 五〇年代は沖縄で映画製作もしていた。私は怪盗運玉ギルーの映画を見たのを記憶している。村の広場に米軍払い下げのカバーを張り巡らしてお粗末な囲いをつくり、自家発電機を使って白黒映画を上映した。フィルム逆戻し手法を使って運玉ギルーが高い木に飛び上がるシーンがあり、子どもでも分かるトリックだったが、そのシーンだけは記憶に鮮やかに残っている。
 比謝の公民館で逆立ちユーレー(幽霊)を見た。足を釘で打ち付けられたので逆立ちで歩く幽霊になったという内容だったが、逆立ちする珍しい幽霊は子供たちの話題になった。祖母と妹が芝居公演のくじでそうめんひと箱の商品を当たったこともあった。

 五〇年代はウチナー文化は盛んだった。沖縄文化を見直す機運うんぬんで現在と比較する比屋根氏は五〇年代沖縄文化の隆盛を知らないようだ。

 五〇年代の沖縄文化は隆盛であったが六〇年代になると、本土の映画上映が盛んになる。嵐寛壽郎、大友柳太郎、片岡千恵蔵、大川橋三、石原裕次郎、小林旭、勝新太郎、加山雄三、山本富士子、吉永小百合・・・多くの映画スターが登場し六〇年代は映画花盛りだった。嘉手納町にはなんと映画館が五軒もあった。映画が盛んになるにつれて沖縄芝居は廃れていった。
 ラジオからは新しい歌謡曲がどんどん流れ、漫才、落語、ドラマが流れた。私は「高丸菊丸」と少年用ドラマが好きだった。主題歌を今でも途中まで覚えている。「頑張れー、頑張れー 高丸菊丸 青空高く海越えて 山賊海賊うち破りー にっこり笑った高丸菊丸 えいえいおう・・」
 美空ひばり、フランク永井、島倉千代子、舟木一夫、三田明、橋幸夫・・・・数えたらきりがないほどの歌手が登場しヒット曲を連発した。民謡も新曲を出しヒット曲もあったが本土の歌謡曲と比べたら微々たるものであった。

 私の個人的な体験を話すと、私は小学六年生の時から赤木圭一郎の熱烈なファンになった。現在でもファンである。赤木圭一郎の歌は全部覚えているし、映画のDVDもほとんど持っている。
中学生の時映画館で圭一郎を隠し撮りした。その写真を今でも持っている。
もう、50年以上も前になるのか・・・。映画好きの私は、夜遅く映画を見て、刑事につまみ出されたこともあった。





赤木圭一郎は私が小学六年生の時に二十一歳の若さで死んだが、その後は勝新太郎や加山雄三、田宮次郎、高倉健などのファンになった。私は青春映画は好きでなかった。現在テレビで活躍している仲村玉緒さんが勝新太郎主演の「悪名」に出て、映画で夫婦なるシーンなども見た。



 五〇年代に盛んだった「沖縄文化」は六〇年代に入り本土の映画や歌謡曲に押されていき、次第に廃れていった。
私は仲田幸子は喜劇役者の天才だと思っている。本土の役者以上の役者だと思っている。渥美清や藤山寛美級だと思っている。高校時代からそう思っていたわたしは琉大生の時、首里の有楽座で仲田幸子の公演があったので見に行った。中に入って驚いた。みんな老人だけだった。四〇年以上も前のことである。六〇年代末の頃にはウチナー芝居を見る若者は皆無だったのだ。沖縄文化からほとんどの若者は離れていき日本文化に親しんでいった。
 それはなぜか、答えははっきりしている。沖縄文化より日本文化のほうが沖縄の若者の心を捉えたからである。

舟木一夫
高校三年生(一九六三・六)
作詞:丘灯至夫
作曲:遠藤実

赤い夕日が 校舎をそめて
ニレの木陰に 弾む声
ああ 高校三年生 ぼくら
離れ離れに なろうとも
クラス仲間は いつまでも

泣いた日もある 怨んだことも
思いだすだろ なつかしく
ああ 高校三年生 ぼくら
フォークダンスの 手をとれば
甘く匂うよ 黒髪が

残り少ない 日数(ひかず)を胸に
夢がはばたく 遠い空
ああ 高校三年生 ぼくら
道はそれぞれ 別れても
越えて歌おう この歌を

 舟木一夫 の「高校三年生」は全国の中・高校生の心を捉えた。沖縄の中・高校生も同じである。それまで歌謡曲は青年や大人の心をテーマにした歌だけだった。「高校三年生」が初めて高校生の心をテーマにした歌だったのだ。その時私は中学生だったが多くの中学生もこの歌に心を奪われていた。
(赤木圭一郎のファンだった私は「高校三年生」を好きではなかった。圭一郎の最初に歌った歌は「黒い霧の街」だが、一番の歌詞は、「黒い霧が降る街 肩をすぼめて 俺は独りゆく コルトを持てば冷たく燃える 命知らずのこの俺も 真はさみしい男だよ」である。こんな歌を毎日歌っている中学生はちょっとませていて「高校三年生」は好きになれなかった)。
少年、若者、大人が惹かれるのはそれぞれ自分の心情に刺激を与えるものや夢を与えるものゃ心を癒してくれるものである。日本文化は沖縄の人々の心を捉える作品をどんどん発表したが沖縄文化はそうではなかった。だから、沖縄の人々は沖縄文化から離れていった。

 私は琉大受験に失敗したら、沖縄の劇団に入り芝居変革をやろうと考えていた。沖縄芝居は背景を布に描いた絵である。全然リアリティーがない。これではウチナー芝居は廃れていくだけだ。もっとリアリティーのある舞台装置と日本映画のように新鮮な内容の芝居をするべきだと高校生ながらに考えていた。悲劇では主人公が泣き声で話すのも駄目だと思っていた。アメリカ映画のようなリアリティーのある演技をしなければウチナー芝居の発展はないなどと考えていた。
ウチナー芝居は四〇年前の高校生だった私が批判した通りの芝居を今もやっている。なんの進化もしていない。

 博物館行きを沖縄文化というのならウチナー芝居はすでに沖縄文化だろう。しかし、人々の心を捉える表現としてのウチナー芝居はポンコツである。ミイラである。ポンコツでもミイラでも観る人はいる。博物館の中で。
 比屋根名誉教授は沖縄文化が博物館の中に入ったから見直すと言っているようものである。
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