国家の第一は民主主義である。美しさとか品格はまやかしの国家論である。新聞に掲載されている論文を中心に批判する。
品格より民主そして自由
とんでもない見出し、「調査員推薦のない育鵬社」
「同協議会会長を務める石垣市の玉津博克教育長が採択権限のない教員ら教科書調査員の意向で選定される従来の不適切な採択方法の改善を打ち出したところ、『保守系教科書を採択させるためではないか』との臆測が広がり、市民団体や教職員組合などが不採択を求める集会や会見を繰り返した」という記事が産経新聞に掲載されていた。
沖縄の新聞には、「調査推薦のない育鵬社」とでっかい見出しの記事が掲載されている。そして、「調査推薦のない育鵬社」の教科書が選ばれたことは、調査員の「形骸化」であると主張している。
調査員推薦とは、調査員に選ばれた数人の教員による推薦された教科書のことである。協議会は教育長、教育委員、保護者代表、学識経験者で構成されている。一方調査員は数名の現場教員で構成されている。今までは、調査員に選ばれた数人の教員が教科書に順位付けをやり、一番に順位付けされた教科書が協議会に推薦され、協議会は協議をするまでもなく、調査員が推薦した教科書を選択してきた。
沖縄では数人の現場教員が教科書を選択してきたのである。
新聞はごらんの通り「、調査員の推薦ない育鵬社」と大きな見出しの記事を掲載している。新聞は調査員が推薦していない育鵬社を選んだことを非難している。調査員が推薦しない育鵬社の教科書を選択することはいけないことなのか。
沖教祖の委員長は、調査員が育鵬社の教科書を推薦することは絶対にないと断言している。どうして調査員は育鵬社の教科書を推薦することは絶対にないのだろか。
調査員は現場の教員である。教育の専門家といっても、彼は沖縄の一介の教員であり、教科書を推薦するときには沖教祖の圧力によって自分の経験や専門知識を自由に発揮することはできない。調査員の教員が育鵬社の教科書を推薦すれば、彼は学校で他の教師からいじめられるだろう。沖教祖の一員である調査員が沖教祖が反対している育鵬社の教科書を推薦することはあり得ない。
調査員の推薦する教科書を選択するということは沖教祖が望む教科書だけを選択されるということだ。
新聞の、「調査推薦のない育鵬社」という見出しは、教科書は現場の教員によって選択されるべきと主張しているのに等しい。自衛隊に例えると現場の兵士の意見が優先されるべきと主張するのと同じである。新聞社、沖教祖、知識人などの教科書選択の現場主義は、軍隊に置き換えると軍国主義になるのだ。
協議会は委員8人による無記名投票で教科書を選択したが、調査員の順位付けによる教科書選択よりは民主的である。
玉津会長が従来の調査員の順位付けを廃止して、協議会の無記名投票で教科書を選択することにしたのは、自由社、育鵬社の教科書を選択する目的があったのは明らかだ。しかし、だから駄目であるというのは間違いだ。選挙で選ばれた市長が協議会の会長を任命するのは民主的な手続きであり、協議会で教科書を選択するのは民主主義のルールにのっとっている。次の選挙で革新系の市長が当選すれば自由社、育鵬社以外の教科書が選択されるだろう。
調査員の順位付けによる教科書選定は、実質的に沖教祖に選択権があるということになる。沖教祖は市民に選ばれた組織ではないし、政治的に中立の組織でもない。沖教祖が教科書を選択するというのは非民主的である。
現場教員で組織された調査員に教科書の選択権はない。調査員による順位付けは越権行為だ。やってはいけないことだ。調査員は全ての教科書の特徴を調査して協議会に報告するだけでいい。協議会は調査員の報告を参考にして教科書を選択すればなんの問題もない。
調査委員の推薦から外れた教科書を選択したことを、教育関係者から「調査委員の形骸化」だと批判がされているが、調査委員は全ての教科書の特徴を調査するのが本来の役目であり、特定の教科書を推薦するだけで、推薦しない他の教科書については調査報告さえもしないというのは調査委員のあるべき姿ではない。
調査委員の推薦から外れた教科書を選択したことを、教育関係者は「調査員の形骸化」だと批判しているが、調査委員の順位付けによる推薦で教科書を選択するのは逆に協議会を形骸化しているし、民主主義を形骸化している。
「調査推薦のない育鵬社」は民主主義を知らない見出しである。
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