私は復帰前に「沖縄を返せ」を歌わなかった

私は復帰前に「沖縄を返せ」を歌わなかった
 
今年は沖縄が本土復帰して50年になる。県の沖縄復帰50周年記念式典がが令和4年5月15日(日) 午後2時に沖縄コンベンションセンターで行われる。祖国復帰したのは23歳の時だった。私の思想は復帰前の米民政府が統治していた時代に培ったということになる。

復帰前の沖縄では小学生になると沖縄は日本であると学校で繰り返し教えられた。一年生の時から君が代を教えられた。君が代はラジオても流れていいたから日常的に聞いていた。それから君が代と同じくらいに聞いていたのが「沖縄を返せ」である。復帰50周年式典を宣伝する時はバックで沖縄を返せが流れる。祖国復帰運動に関する番組で必ず流すのが「沖縄を返せ」である。
「沖縄を返せ」は復帰運動の集会で歌われ、復帰前は集会やデモは多かった。ラジオからも「沖縄を返せ」は流れていた。「沖縄を返せ」は子供の頃からよく聞いていた。
高校生になると「沖縄を返せの詞に疑問を持つようになった。

沖縄を返せ

かたき土を破りて 民族のいかりにもゆる島 沖縄よ
我らと我らの祖先が 血と汗をもって 
守りそだてた沖縄よ
我らは叫ぶ 沖縄よ 我らのものだ 沖縄は
沖縄を返せ 沖縄を返せ

私が感じた疑問点
〇沖縄人は日本民族なのか
〇祖先は沖縄を守り育てのか
〇我らとは誰のことか
〇誰に沖縄を返すのか

〇沖縄人は日本民族なのか
子供の頃、大人はみんなウチナー口を使っていた。共通語を使える大人はとても少なかった。祖母と父はウチナー口だけを使っていて、共通語は話せなかった。母は話せたがぎこちない共通語だった。
幼稚園に通うまではウチナー口だけを使っていた。小学生になると先生は生徒に共通語を教えた。そのくらい私たちは共通語を知らなかった。
小学3年生の時、先生はチュブルと呼んでいる野菜があるが共通語でなんというか私たちに聞いた。ほとんどの生徒は知らなかった。一人の生徒が手を上げた。先生が指名するとその生徒立ち上がり大きな声で「あたま」と言った。みんな大笑いした。チュブルは頭のウチナー口でもある。他の生徒は野菜の名前が頭ではないことを知っていたから答えなかったがその生徒は「アタマ」と答えたので笑ったのだ。
チュブルという野菜はゆうがお(夕顔)である。ゆうがおを栽培している家は非常に少なかった。だから、チュブルを知っている生徒は少なかった。友達の家が栽培していたので、その野菜がチュブルと言い、共通語ではゆうがおというのを友人の父親が教えたので知っていた。誰も答えないので私は手を上げて、「ゆうがお」と言った。

学校では沖縄は日本であると教え、日本の象徴として日の丸と君が代であると教えた。あの頃はほとんどの家庭は旧正月をしていた。先生は本土では新正には日の丸を掲揚すると教え、日の丸を掲揚するように指導した。日の丸掲揚と君が代斉唱を学校で推進していたのが復帰前の沖縄であった。
私は沖縄が日本であることには納得していたが、沖縄人が日本民族というのには抵抗があった。沖縄はずっと琉球王国という独立国であった。沖縄人は日本から移住したのではなく、大陸や南方から移住した可能性が高い。目鼻立ちも本土の人とは違う。だから、沖縄人が日本民族というのには疑問を持っていた。「沖縄を返せ」で沖縄は日本民族であると断言していることに疑問を持つようになった。
中学生の時にアメリカ新聞の配達をした。古堅にはモーガンマナーという米人住宅街があった。私はモーニングスターというアメリカ新聞を配達した。米国は多民族国家と言われる。そのことを新聞配達することで実感した。白人と黒人だけでなく色々な民族がいることを知った。だから、沖縄人が日本民族ではなくても日本人になれるということを私なりに納得した。その気持ちが強くなればなるほど「沖縄を返せ」は沖縄人を強引に民族主義にしようとしている歌であると思った。
米国人が他民族の集まりであることを実感した私は政治に関しては民族主義にこだわらないようになった。政治は民主主義か独裁かを基準に考えるようになった。

〇祖先は沖縄を守り育てのか

琉球王国を明治政府が滅ぼして日本の一部として沖縄県にした。沖縄県になると琉球王国の身分制度が廃止され四民平の沖縄になった。明治政府の政策によって沖縄は発展していった。沖縄を育てたのは沖縄人の祖先てはなく日本政府である。「沖縄を返せ」の祖先が沖縄を守り育てたということに疑問を持つようになった。

〇我らとは誰のことか

「沖縄を返せ」で沖縄は我らのものだというが我らとはいったい誰のことなのか。
沖縄に住んでいるのだからすでに沖縄は我らのものである。沖縄は米国のものになったからそれを沖縄人に返せという意味なら分からないことはないが、沖縄が米国の物になり米国の植民地になったにしては沖縄の教育は日本式の教育をしている。政治も立法院があり、沖縄人が政治をしている。戦前の台湾は日本の植民地になったので政治は日本がやり、日本と同じ教育をした。日本語を公用語にした。しかし、沖縄は日本教育をしたし、日本と同じ映画、雑誌などを販売した。英語教育はなかったし米国流の教育もしなかった。私には沖縄は米国の植民地ではないという確信があった。そもそも沖縄は「もの」ではない。沖縄を我らのものと沖縄をもの扱いしているほうが沖縄を植民地扱いしていると思い「沖縄を返せ」の詞に反発した。「沖縄を返せ」の我らは沖縄人でないことは確実である。我らとは誰なのか。謎であった。

〇誰に沖縄を返すのか
沖縄を我らに返せということであるが、我らとは誰なのか。日本のことなのか。日本に返せなら納得できる。そうすると我らとは日本人ということになる。そうなると「沖縄を返せ」は沖縄人の歌ではなく日本人の歌ということになる。沖縄人だったら「沖縄を返せ」てはなく「沖縄は帰りたい」の歌にならなければならない。沖縄は日本の所有だ。だから、日本に返せというのが「沖縄を返せ」であると解釈することができる。
沖縄人が歌うときの「沖縄を返せ」は「沖縄人は日本のものです。早く沖縄を日本のものにしてください。沖縄人は喜んで日本の奴隷になります」という内容になる。と考えるようになって次第に「沖縄を返せ」は歌わなくなった。

祖国復帰が決まると、日本の象徴として歌わせてきた君が代を教員が勧めることはなくなった。それどころか君が代は天皇崇拝の歌であると否定するようになった。
日の丸も復帰前は正月には掲げるように指導していたのに復帰が決まると否定するようになった。高校生が日の丸を焼き捨てる事件も起こった。沖教祖の君が代、日の丸に対する対応は180度転換した。
復帰前の沖縄では日の丸と君が代は祖国復帰運動の象徴であったが、本土では違っていた、君が代は天皇崇拝の歌であり、日の丸はアジアを侵略した帝国主義国家日本の象徴として批判の対象にしていた。
戦後の社会運動を率先していたのは本土も沖縄も日教組と自治労であった。日教組、自治労は日の丸と君が代を本土では批判し沖縄では称賛するという二重のやり方を実行していたのである。そして、本土復帰が決まると沖縄の日の丸、君が代運動は本土並みになったのである。

戦後の労働運動、復帰運動を主導してきたのが日教組と自治労である。日教組と自治労は公務員である。反米主義、反資本主義、反自民党が日教組と自治労の運動の核となっている。支持する政党は旧社会党、共産党だった。

 ネットで「沖縄を返せ」の作詞作曲者が分かった。
 高校生の頃に疑問を持つようになり、歌わなくなった「沖縄を返せ」はやはり沖縄で生まれた歌ではなかった。私が疑問や反発を感じた原因は「沖縄を返せ」は本土で つくられた歌だったからである。本土の「我ら」が日本に返せというのが「沖縄を返せ」である。しかも、公務員がつくった歌であった。
「沖縄を返せ」は1956年9月。労働組合の全司法福岡高裁支部が作詞作曲し、大分市で開かれた合唱祭「九州のうたごえ」で創作部門1位になった歌であった。
やはり「沖縄を返せ」は沖縄で創られたものではなかった。本土でつくられたものであっったのだ。しかも、公務員がつくった。
「沖縄を返せ」の「我ら」とは日本であったのだ。日本てあった沖縄が米国に取られたから取り返そうという内容の歌が「沖縄を返せ」であるのだ。

復帰前の沖縄は米軍に統治され、沖縄人の自由はなく、米軍基地の被害に悩まされていたというイメージが定着している。
そんな沖縄であるのに戦前は60万人から増えなかった人口はどんどん増え、復帰直前には100万人近くまで増えていた。復帰していた奄美大島は人口が減っていた。多くの奄美大島の人が沖縄に移住した。沖縄は経済が発展し働く場所が多かったからである。沖縄が米軍庶民地で沖縄人には自由がなかったなら人口が増えるはずがない。自由で民主的な沖縄だから人口がどんどん増えたのである。人口が大幅に増えたこと、増えた原因については誰も明らかにしない。

沖縄を統治していた米民政府はハワイから製糖工場を移設して砂糖産業を発展させた。琉球銀行を設立して資金調達をしやすくした。生活用品を中心に製造業を設立させていった。米国流の経済政策を沖縄で実践して沖縄の経済を発展させていったのが米民政府である。

沖縄の民主主義、経済発展には無縁な祖国復帰運動に没入していたのが沖教祖、自治労であった。
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