アフガニスタンのタリバン支配は仕様がない  沖縄からそのことが分かる


本土取次店
 (株)地方・小出版流通センター
 TEL.03-3260-0355 FAX 03-3236-6182
メールchihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 
株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170 FAX 098-861-5499
メールshopping@o-kyohan.co.jp


内なる民主主義26新発売

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アフガニスタンのタリバン支配は仕様がない 
沖縄からそのことが分かる
 
タリバンがアフガニスタンを制圧した。別に驚きはしない。がっかりもしない。当然の成り行きと言えば当然成り行きだ。
 高校生の頃からベトナム戦争が激しくなった。ベトナム戦争は1975年に米国の敗北で終わる。米国が統治している沖縄に育った。嘉手納飛行場の近くに住んでいた。米国に爆弾を落とすB52が毎日嘉手納飛行場から飛び立っていた。ベトナム戦争について考えた。
 他国に攻め入るのはその国を植民地にして政治支配し搾取して富を得るのが目的である。支配するためには独裁政治をやり、反発する勢力を駆逐する一方、すり寄る有力者を取り組む。そのように植民地支配体制を強固にする。米国の統治していた沖縄に住んでいたから米国には植民地主義がないことを知った。ベトナム戦争で米国が植民地主義の戦略を実施していたらベトナム戦争に勝利して、ベトナムを支配していただろうと思った。
 米国は議会制民主主義国家である。民主主義は植民地支配を否定する。米国は南ベトナムを植民地にして搾取する目的はなかった。米国がベトナム戦争をやったのは植民地にする目的ではなく南ベトナムが社会主義に支配されるのを防ぐためだった。アジア大陸のほとんどは社会主義体制であり、社会主義が拡大していた。


 東アジア大陸で社会主義国家でないのは韓国、南ベトナムしかなかった。南ベトナムを社会主義国家にしない目的で米国はベトナム戦争をしたのである。
 ベトナム戦争は南ベトナムを社会主義にしようとする南ベトナム解放戦線ベトコンとベトコンを支援している北ベトナムとの戦いであった。
 米国は南ベトナムを支配し搾取する目的はなかった。だから、戦争の費用は全て米国民の税金を使った。莫大な税金がベトナム戦争に使われ、そのために米国のドルの価値が落ち、経済にも悪影響した。1971年に米国は、固定比率(1オンス=35ドル)による米ドル紙幣と金の兌換を一時停止 した。ドルの価値は落ち続け,1ドル=360円が300、250円と下がっていき1978年には1ドル=182円になった。
 国家予算の悪化、経済の悪化を招いたのがベトナム戦争であった。経済危機に陥った米国は1973年ベトナムから撤退した。
 沖縄は1972年に本土復帰した。原因はベトナム戦争による米国政府の財政難だった。日本政府は米国の財政難を補完するために米軍基地の地料や日本人従業員の給料等の基地維持費を補助した。沖縄の本土復帰はベトナム戦争で財政難になった米国を日本政府の財政でカバーするするためであった。

 2001年に米同時多発テロをきっかけに米軍はアフガニスタンのアルカイーダとタリバンを排斥した。米国はアフガンを民主主義国家にすることを目指した。大統領選挙をやり、国会議員選挙をやって議会制民主主義の体制をつくり、タリバンにも選挙への参加を呼び掛けた。

 米国がアフガンでやったことは沖縄でやったことと同じである。沖縄に生まれ育ち、政治、文化等を見てきた私はアフガンが米国の狙い通りになるとは思わなかった。民主主義は外から与えることは困難であることを知っていたからだ。
米国は議会制民主主義国家である。大統領の政府が行政をやり、上院下院が法律を制定する。裁判所は法律によって裁く。軍部は大統領の管理下にある。軍部が政治を行うことはない。米国にとって沖縄は米軍基地を配置するための存在である。軍事目的の沖縄だから米軍が統治していたと思うだろうがそれは間違いである。米軍が沖縄を統治していなかった。統治していたのは米国民政府通称民政府である。米国には軍が政治を行うことはない。軍政府というものはない。沖縄にも軍政府はなかった。

 米民政府は主席、立法議員、裁判を設置して三権分立の沖縄をつくろうとした。しかし、行政の長である主席は一回選挙しただけで、次からは米民政府が任命した。選挙では主席にふさわしいと思われる人物が選ばれなかったからだ。1950年沖縄・宮古・八重山で群島知事選挙が行われ、沖縄群島知事に平良辰雄、宮古群島知事に西原雅一、八重山群島知事に安里積千代がなったが、その制度は廃止され。1952年に米民政府が琉球政府行政主席を任命し、その後は米民政府の任命制にした。議員は選挙で選ばれ立法院で法律を制定した。米民政府は沖縄をアメリカ的な民主主義社会にしようとしていった。しかし、沖縄の反発が強かった。

 沖縄は琉球王国であった。明治政府が武力を使って王国を排して日本の一部である沖縄県にした。戦前の日本は中央政権であり、沖縄の知事は中央政府から派遣され、中央政府の政治に従った。沖縄には選挙で選んだ首長や議員が政治をやるという経験がなかった。議会制民主主義の素地は戦沖縄にはなかっのである。
昭和初期から沖縄は貧困時代になり、増え続けてきた人口も60万人でストップした。戦前の沖縄は60万人しか生きることができない社会になり、多くの県民は生きるために本土や外国に渡った。そんな沖縄に民主主義が育つのは難しい。そんな沖縄の戦前に育った人たちに民主主義社会を築くのはできるはずがない。そもそも民主主義思想が沖縄にはなかった。戦前になかったのだから戦後にあるはずがない。民主主義には外から知識として入ってくる民主主義と内側から湧いてくる民主主義がある。内から湧いてくる民主主義がなければ本当の民主主義社会にはならない。それが沖縄で如実に表れたのが米民政府統治時代である。

 沖縄には内から湧いてくる民主主義がなかったことが如実に表れたのがキャラウェイ高等弁務官時代である。
 米民政府の高等弁務官で一番嫌われたのがキャラウェイ高等弁務官である。キャラウェイ氏は布令をどんどん出してキャラウェイ旋風を巻き起こし、沖縄を支配した帝王と呼ばれている人物である。1961年から964年の3年間高等弁務官であった。高等弁務官に興味がなかった少年の頃の私でさえキャラウェイという名前だけは知っていた。そのくらい悪の高等弁務官として有名だった。彼は保守にも左翼にも嫌われた高等弁務官であった。
 彼がなにをやったかは知らなかった。米兵相手のバーをÅサインという許可制にしたのがキャラウェイ氏であるということは人から聞いて知っていた。知っていたのはそれだけで、彼がどのような布令を出したかは知らなかった。ただ、高校生の頃の私は彼が噂されている帝王のような弁務官とは思わなかった。高等弁務官に帝王であるような弁務官が居るはずはないと思っていたからだ。米国はリンカーン大統領の「人民の人民による人民のための政治」が有名であるように民主主義を代表する国であることを学校で習った。映画が好きで米国の映画を何度も見ていたから米国に対しては自由で平等のイメージが強かった。。ポール・ニューマンや黒人俳優のシドニー・ポワチェのファンだった。
だから、キャラウェイ氏が帝王と呼ばれるほどに沖縄にひどいことをしたとは思わなかった。しかし、キャラウェイ氏が何をやったかを知らなかった。知りたいという気もなかった。10年ほど前から気になってきたのがキャラウェイが言ったという「沖縄の自治は神話」であった。キャラウェイ氏は「沖縄の自治は神話にすぎない」と公言し、米民政府の法令である布令を多く発動して、琉球政府の権限を制約してきたという。それが沖縄の常識になっている。キャラウェイ氏の弾圧に対して沖縄が民主主義の闘いをしたという。民主主義国家米国に沖縄が民主主義の闘いをしたというのはおかしいと思った。
有難いことにネットのグーグルを利用すればキャラウェイ氏のことも詳しく調べることができるようになった。
 キュラウェイ氏がやったことを調べて驚いた。調べていくうちに自由、平等の考えと同時に経済発展を実現していく米国の民主主義を見せつけられた思いがした。
 
 沖縄に嫌われているキャラウェイ氏であるが唯一キャラウェイ氏に感謝し銅像まで建てている島がある。大東島である。
明治時代に八丈島からの開拓団が入植するまでは、大東島全島が無人島であった。南大東島の開拓を始めたのが玉置半右衛門だった。半右衛門は開拓団を募集し、その時に「30箇年の政府貸下げ期間経過後は、各耕作者に開墾した土地の所有権を与える」ことを口約束したといわれ、開拓団の人々はそれを励みに大木生い茂る亜熱帯の原生林を切り拓いていった。しかし、玉置半右衛門の病没後、南大東島が東洋製糖へ譲渡されてしまったことにより、耕作者に土地の所有権が認められない状態が戦後まで続いた。
戦前は大東島の土地はすべて製糖会社が所有していて学校教育や医療、交通制度もすべて製糖会社が運営していた。
1945年(昭和20年)終戦。南大東島も終戦までは戦争に翻弄され、空襲や激しい艦砲射撃を受けた。製糖工場が焼かれたことと、自給自足が必要となったことで、入植以来行われてきた製糖業も中断せざるをえなかった。
1946年(昭和21年)に米軍政府は製糖会社による経営という社会制度を排除し、村制が施行されて「南大東村」が誕生した。これまですべて経営する会社に頼ってきた学校教育や医療、交通制度は政府や村に委ねられることになった。新しい村づくりが始まり、村議会や婦人会、青年会も発足。郵便局や警察署も次々に設置された。南大東島の土地を所有している大日本製糖は本土に引き揚げ、大東糖業社が設立された。
新しい村が作られていく中で、島民の気掛かりは土地のことだった。村制が敷かれたとはいえ、土地は相変わらず大日本製糖の所有だったのだ。

戦前の大東島は企業が島をまるごと所有する状態だったため、通常の行政制度の適用を受けなかった。大東島諸島は行政区分としては島尻郡に属していたが、島ごとが社有地であるために、そこに生活する農民や「仲間」は形式上は社有地に仮住まいしているようなものだった。そのため、戸籍人口は一人もいないという特異な状況だった。

米民政府によって会社員から村民となった南大東島の人々は土地の所有権を主張し1959(昭和34)年6月21日に「土地所有権獲得期成金」を結成し、国、琉球政府、民政府への陳情をくり返し訴えた。島の土地所有権を主張していた大日本製糖と村民は土地の所有権をめぐり裁判で争うことになった。 
1952年に琉球政府が設立され、行政、立法、司法の三権分立の沖縄になったから、長きにわたり解決しなかったこの土地問題は米民政府ではなく琉球政府の司法にゆだねられた。しかし、59年から大東島村民の訴えは4年経過しても琉球政府は村民の土地所有権を認めるまではいたらなかった。
1961年(昭和36年)に南大東島の視察に来た時キャラウェイ高等弁務官に、島民達は半右衛門の口約束から始まったこの島の土地問題を直訴した。裁判が続く中で、キャラウェイ高等弁務官は米琉合同土地諮問委員会に調査を命じ、調査の結果、島民に土地の所有を認めた。
1964年(昭和39年)7月30日、キャラウェイ高等弁務官により島民の請求した農地や土地が無償で譲渡されることになった。島民の願いが叶えられたのである。入植から64年、南大東村にとってこの日は歴史的な日になった。歴史的な日の翌々日の1964年8月1日にキャラウェイ氏は第3代琉球列島高等弁務官を退官した。南大東村民の土地の所有権を認めたのがキヤラウェイ高等弁務官の最後の仕事になったのである。

61年に大東島の問題を知ったキャラウェイ弁務官は裁判の様子を見守っていただろう。しかし、琉球政府の裁判がもたもたして大東島の島民の立場に立っていないことに失望したキャラウェイ弁務官は退官するぎりぎりになって島民の土地の所有権を獲得させたのである。

 このことはあまり知られていない。ネットでキャラウェイ氏のことを調べていくうちに見つけた。

沖縄の金融界は腐敗していた。
そしてその監督業務を履行しない琉球政府および、司法機関に米民政府は警告するが自浄の努力が全く見られなかった。
 キャラウェイ高等弁務官が強権を使い、独裁であると言わしめたのが金融界への介入である。金融界に対しては強引に介入している。キャラウェイ氏が保守にも嫌われたのが金融界介入である。米民政府は沖縄経済を発展させるものとして琉球銀行を設立した。復帰前までは琉球銀行は米民政府が所有していた。米民政府の指導で琉球銀行以外にも民間銀行を設立していった。
 経済発展に銀行はなくてはならない存在である。戦前の沖縄は企業といえば製糖だけであり、全て本土企業が製糖工場を設立して経営していた。60万人しか住めない沖縄には製糖以外の企業は少なかった。企業資金は銀行ではなく資産家から借りていた。戦後、米民政府が銀行を設立し、経済が発展していったが、経済が発展するに従い金融界は腐敗していった。賄賂が当たり前になっていたのだ。沖縄には地銀二行(琉球銀行含む)、相銀七行、保険会社4行があったが、琉球政府役人と銀行、保険会社との癒着による不正が横行していた。
 米民政府は癒着をなくすように琉球政府を指導したが聞き入れることはなかった。そのような時期に高等弁務官に就任したのがキャラウェイ氏であった。
キャラウェイ氏は金融機関を調査させた。琉球銀行を除く各金融機関の杜撰(ずさん)な経営内容が発覚した、民政府は「厳重警告」を発したが聞き入れなかった。再三にわたって銀行行政の改善を求め、琉球政府に金融監督権や逮捕捜査権を与えても発動することをしなかった。金融機関の腐敗は拡大の一途を辿ることになる。
この状況を見かねた、キャラウェイ氏は金融検査部の独立制をを保つため、人事権を高等弁務官のものとした。沖縄側から見れば沖縄の自治権を奪ったことになる。
民政府は金融検査部長に、当時琉球大学で教鞭をとっていた公認会計士の外間完和を任命し、各金融機関の一斉捜査を開始した。この結果、沖縄銀行の頭取を含む三行の役員数名を背任行為で逮捕した。琉球農林中央金庫などの公的機関を含む、沖縄14金融機関65人を退任させた。外間完和はその当時金融機関からのコーヒー一杯の接待も拒否したという。
琉球政府はその重い腰をあげ、各金融機関に対し綱紀粛正を促す通達を出した。それが「政治献金の全面禁止、および金融機関職員の融資の際の金品の供応等の受領禁止」であった。

米民政府の高等弁務官であるキャラウェイ氏が動くまで琉球政府は今では当たり前で、当時でも当たり前な「政治献金の全面禁止、および金融機関職員の融資の際の金品の供応等の受領禁止」すら警告も出さずにいたし、その不正を見逃し続けてきたのである。
キャラウェイ氏による行政指導はこれにとどまらなかった。自己利権に固執する沖縄財界への啓蒙活動をやり、琉球銀行に対しても総裁以下4名の重役を解任した。役員の高配当を指摘し欧米水準にまで引き下げさせた。
当時沖縄には5つの民間配電会社があり、電気料金をカルテル状態にしていた。キャラウェイ高等弁務官の命令で一律20%電力料金を引き下げさせた。さらに、地元金融界の猛反対を押してアメリカン・エキスプレス、バンク・オブ・アメリカなどの外資系銀行の沖縄支店の開設を認可し、金融機関の自由競争を促し、地元金融機関の閉鎖性を打破した。この結果、沖縄の金融界は正常化し、人事も一挙に若返った。
キャラウェイ氏がやったことは沖縄自身ではできなかった金融の民主化である。もし、沖縄側に民主主義があったなら民政府の指摘で気づき、金融界の民主化を進めていたはずである。しかし、沖縄には民主主義は存在しなかった。琉球王国の流れである特権階級の利権を守ることだった。政治・経済の権力者に富が流れるシステムであった。そのシステムを当然と考えていたのである。
琉球政府はキャラウェイ氏の実力行使に仕方なく従っただけであり、キャラウェイ氏の金融界民主化を理解したわけではなかった。
キャラウェイ氏を帝王、独裁者呼ばわりしているのは逆に沖縄側に民主主義思想が欠落している証拠である。
キャラウェイ氏を帝王、独裁者呼ばわりしているのが「沖縄の自治は神話である」と発言したキャラウェイ氏の演説である。私たちが目にすることができるのは題名だけであり、書かれている内容を直接目にすることはできない。
ところがネットで見つけることができた。ネット時代は専門家やマスメディアと同じように情報を得ることができる。そして、マスメディアや専門家のでっち上げを暴くことができる。
「沖縄の自治は神話である」の全文を読んだ。
キャラウェイ弁務官は「沖縄の自治は神話である」の演説で琉球政府、立法院、司法が沖縄住民のためではなく一部のための政治であることを指摘し批判している。

琉球政府批判
1、琉球政府は失業保険制度が制定されたとき、その資金の管理者にされたのである。しかし、同資金は琉球政府のものではないのである。その資金は被雇用者や雇用者が納入した者であり、それから利益を受ける労働者に所属するものである。琉球政府は単に、その資金を労働者のために保管しているのに過ぎないのである。しかし、同資金を労働者の利益以外の目的のために流用しようとしたことが、これまでに幾度となくあったのである。同資金の保全にとっての脅威は、やっと最低必要な保護策が立法されるまで続いたのである。

2、琉球政府は、労働争議の一部である小さな暴力になるかもしれない行為と、争議の一部ではなく、実際に刑事上の行為である暴力行為とを区別することをこれまで一貫して拒否してきたのである。政府は労働争議中のすべての行為を、争議の一部とみなす傾向があったのである。この主張は、法律的見地から支持することはできないのである。これは、その平和と安隠を保つため社会に対して責任を持つ当局によって、全社会を相手として犯された欺瞞行為である。そして、これは琉球政府の方で責任を取ることを拒否することになるのである。

3、西原地区における二つの競合する製糖工場の問題は、責任回避の一例である。道をへだてて二つの製糖工場を設立し、同じ農民からサトウキビの奪い合いをさせることに経済的な妥当性がないことは知られていたのである。それにもかかわらず、琉球政府は二つの製糖工場を許可したのである。この措置には、その地域の住民への、ひいては琉球経済全般に対する影響についての考慮がなされていなかったのである。今日、農民も工場側もこの問題および少なくともこれと性質を同じくするもう一つの問題に対して、無謀にも無責任であった琉球政府も、砂糖産業を合理化することを狂気のように試みており、その反面それと同時に他地域からの競争に対処するため、より大型の、したがってさらに小数の製糖工場にする決裁を避けようとしているのである。

4、多年にわたって琉球の銀行は、ほとんど完全な許可証を受けて運営を許されてきたのである。私は自由という言葉よりむしろ許可証という言葉を用いる。というのはここでもまた、私たちは、銀行と政府による信用機関の甚だしい濫用を見出すからである。この分野における不正行為の一例として、理事たちは彼らが経営している営利会社に無担保貸し付けを行うことが認められていたのである。これらの資金は、銀行に彼らの貯金を任せた大小多数の預金者の預金から出たのである。このような行為は他国ではほとんどどこでも重罪となるのである。琉球政府は、これに対して措置を取ることを拒否し、その代り弱々しくもその責任を回避して、米国民政府にそれを転嫁しようとしたのである。

立法院批判
1.医療法案は病院、診療所および助産院が一般大衆保護のための最低基準に適っているか、いないかを確かめるために必要な年次監査を規定しなかったのである。法律違反に対する刑が専門的水準を維持する上に全く不十分であり、また、不法営業を除去したり、厳重に防止することもできなかったのであろう。
2.立法院は、その労働者災害保障保険法案の草案の中で労働者が被った業務上障害のため、雇用者が当然も持つべき負担額を納税者に負わせるように法案を書き表して、納税者の税金の不当な使用を許可しようとしたのである。

立法院は、行政府と同様、琉球住民の利益のために必要とされているすべての法律を制定する権限を委任されているのである。立法院がそれをなし得なかったことに対して、高等弁務官が立法院に十分な権限を委任しなかったり、その行動に対する責任を与えなかったとして、高等弁務官のせいにして逃れることはできないのである。

司法批判
司法はその義務と責任の性質上、責任を引き受け、それを遂行するのに最も優れた記録を持っているのである。したがって司法府はおそらくもっとも広範囲の責任を持っているのである。しかし、ここにも法律上迅速な裁判をなす場合、それをよほど遅らせたり、法曹人の職業的水準が望まれているよりも低いのを黙認している例があるのである。

「沖縄の自治は神話である」の演説で指摘した問題はキャラウェイ弁務官が初めて指摘していたものではない。以前から米民政府が指摘して沖縄側に正すように忠告していた問題であったが、沖縄側は米民政府の忠告に目を背け正すことはしなかった。しびれを切らした米政府は沖縄の政治を正す目的でキャラウェイ氏を弁務官に任命したようである。それはキャラウェイ氏の履歴を見れば納得できる。

ポール・ワイアット・キャラウェイの履歴
キャラウェイ氏は1905年12月23日、アーカンソー州ジョーンズボロで父・サディアスと母・ハッティの間に生まれた。三人兄弟の一人であり、兄弟の名はフォレストとロバートで、後にフォレストはポールと同じくアメリカ陸軍将官となった。
両親はともにアーカンソー州選出のアメリカ合衆国上院議員を務め、母は女性で初めて選挙により選出された上院議員である[。
キャラウェイ氏はジョージタウン大学を卒業し、1933年弁護士の資格を取得した。軍を退役した彼は、1965年から1968年の間アーカンソー州のハーバー・スプリングスで弁護士を開業し、その後ワシントンD・Cのベンジャミン・フランクリン大学で教鞭を執った。彼はメリーランド州で晩年を送ったとされる。

キャラウェイ氏は弁護士であり法律に詳しく、法治主義・民主主義に徹していた人物であったのだ。だから米政府は彼を沖縄の高等弁務官に任命したのである。

「「沖縄の自治は神話である」」全文を読んだ私は、6年前の2015年04月24日 「キャラウェイが保守にも革新にも嫌われた理由」をブログに掲載した。

キャラウェイ弁務官の「沖縄の自治は神話」の演説は県民の「自治権拡大」の熱望に冷水を浴びせ、同日夕刊で立法院野党各党は猛反発したと沖縄紙は報道している。革新政治家たちは、
「沖縄が植民地であることを弁務官自身が裏づけた民主主義の否定」(安里積千代社大党委員長)、
「弁務官は法なりの独裁支配、植民地支配」(岸本利実社会党政審会長)、「沖縄県民の解放の盛り上がりに弁務官が直接統治による弾圧に出ることを示す」(古堅実吉人民党書記長)人民党=共産党
と、キャラウェイ弁務官は民主主義を否定し独裁支配、植民地支配をしていると非難した。
彼らの主張する民主主義、自治権とはどんなものであったか。それが分かる二つの事件がある。
ひとつはサンマ裁判であり、もうひとつは教公二法阻止闘争である。
サンマ裁判はキヤラウェイ弁務官の時に起こり、教公二法阻止闘争は1967年に起こった。キャラウェイ弁務官以後に起こったことであるが、自治権拡大運動が民主主義運動とはかけ離れたものであることがはっきりと分かる事件である。

サンマ裁判
日本から切り離された沖縄を米民政府は独立国に近い存在であると考えていた。日本も外国だとしていたから「日本から輸入される鮮魚は『外国製品』だ」ということで布令を出して、20%もの輸入関税(物品税)をかけた。
ところがサンマは物品税の品目に書かれていなかったが琉球政府は関税を徴収した。ところが関税品目に書かれていないことに気づいたラッパと呼ばれた立法院議員で弁護士の下里恵良が魚業者の玉城ウシを原告に立てて払った関税を戻す裁判をやった。裁判はウシが勝ったがキャラウェイ高等弁務官はサンマが書かれていなかったとしても関税の対象であり関税を徴収するのは当然であると、徴収したお金を返済する必要はないとした。布令にサンマを書き加え、琉球政府が支払うことを禁じそのお金は琉球政府の収入であって米民政府の収入にはならない。

サンマ裁判問題を革新側から見た文章を紹介する。
 
アメリカ高等弁務官のなした裁判移送命令の撤回に関する件(第五決議)沖縄のアメリカ高等弁務官が、琉球上訴裁判所に繋属中に友利隆彪から提訴された当選無効事件並びにサンマ事件と呼ばれる物品税加納金還付請求事件を、アメリカ民政府裁判所へ移送せよ、と命じたのは、沖縄県民の司法自治を否定し、且つ、基本的人権を奪うものである。
日本の代表的な大衆魚といえば、やっぱりサンマ。漢字で「秋刀魚」と書くように、秋ともなれば安くてうまいサンマを食べたくなるものですが、そうは問屋が卸さない・・・いや問屋も怒りを爆発させたのが飛び地の現実、異民族支配というもの。
脂がのった美味しいサンマが獲れるのは北日本の沿岸だ。そこで沖縄では本土から運ばれたサンマを売っているのだが、沖縄がアメリカに統治されていた頃、つまりアメリカの飛び地みたいだった時代、アメリカは「日本から輸入される鮮魚は『外国製品』だ」ということで布令を出し、20%もの輸入関税(物品税)をかけてしまった。

アメリカ統治時代の沖縄で、植民地で言えば総督に当たる最高権力者が高等弁務官で、総督府に相当する政府が米国民政府。さらにその下で沖縄住民による自治政府のような存在だったのが琉球政府で、そのトップは主席であった。

 沖縄の自治権の拡大を望む者たちには沖縄の司法権や自治権の侵害、さらには沖縄住民の基本的人権に対する侵害だと考えたのである。

サンマ事件の根本的な問題は物品税である。「アメリカの都合で沖縄を占領し続けておいて、サンマのような庶民の魚にまで輸入関税をかけるとはヒドイ話だ」と輸入関税をかけるのはアメリカの都合でありサンマを安く食べられないのはひどいことだと非難している。しかし、物品税は米民政府ではなく琉球政府の収入になる。アメリカが金銭的に得することではない。
なぜ米民政府は物品税をかけたか。理由は琉球の産業を保護するためであった。外国からの安い輸入品が琉球列島に出回ると島内で生産した物が売れなくなる。島内企業は破産してしまう。だから、島内産業を保護するためには物品税が必要だったのである。独立した国家が自国の産業を保護するために輸入品に関税をかけるのは常識である。
ところが琉球政府時代の沖縄では関税をかけるのは常識ではなかった。
沖縄が求めている自治権拡大は民主主義社会を目指したものではなかった。琉球のことは琉球が決めるという独立主義だったのである。独立と民主主義は違う。独立国には軍事独裁国家があるし、中国のような共産党独裁国家もある。
自治権拡大=民主主義と勘違いしていたのが沖縄の政治家、運動家、識者であった。

サンマ裁判は1966年12月に米国民裁判所で判決が下された。
アメリカ人の裁判官は、サンマに対する課税は「物品税の課税項目は一例を挙げたものに過ぎず、『サンマ』という項目がなくても課税は有効」だと払い戻し請求を退けた。
「そもそもアメリカ側が出した物品税の布令の中には『サンマ』という項目がなかった」からサンマに物品税をかけるなという考えは物品税を理解していない証拠である。
物品税は琉球列島の産業を保護するのが目的である。本土から安い商品が流入すれば琉球の産業のほとんどは廃業に追い込まれるだろうし、新しい産業も生まれない。事実復帰した後は物品税がなくなり本土の安い商品が出回り、沖縄の製造業の多くはつぶれた。
味噌醤油会社赤マルソウの創立に尽力したのが米民政府職員のサムエル・C・オグレスビー氏であった。赤マルソウ創立のために彼はボイラー、発電機、ポンプなどを米軍から払い下げるのに尽力した。
1951年に本土と自由貿易が始まった時、本土からの大量輸入で味噌醤油産業が大ピンチになった。そのピンチを救うために米民政府は1953年に「醤油の輸入全面禁止措置」の布令を出した。琉球の産業育成に心血を注いだことが理解できよう。自由貿易をモットーにしている米民政府だから輸入禁止は一時的であった。しかし、物品税を高くすることで沖縄の味噌醤油産業を保護した。
物品税は琉球の産業を保護育成するために必要だった。物品税は輸入品すべてに平等に適用するのが基本である。もし、物品税をかける品目とかけない品目を琉球政府の判断でやるようになれば不徳な輸入業者が政治家に賄賂を贈って物品税を免除する工作をしただろう。
民主主義国家であるなら物品税をすべての輸入品にかけるのを基本とするのは当然のことである。そのことさえ沖縄の政治家も裁判官も知らなかったのである。当時の沖縄は民主主義も本当の自治も知らなかったのである。
米国は米民政府を通じて沖縄の政治経済を民主化していった。米民政府が民主化したのは政治経済のシステムであった。沖縄の民主主義を内から改革するのはできなかった。外から民主主義化するのは形式であり、内側まで民主化することはできない。

沖縄が現在も民主主義ではないことを実証しているのが映画「サンマデモクラシー」である。製作したのは沖縄テレビである。政治、経済、文化などの情報、主張で沖縄の民主主義をリードする立場にあるのが情報産業であるはずであるが・・・。民主主義の先端をいっていると自負しているから「デモクラシー」をタイトルに使用したのだろう。
輸入する魚に関税をかけたのは沖縄の漁師の収入を守るためであった。だからサンマに他の魚と同じように税金をかけるのは当然である。ところが沖縄テレビはそのことを理解できないのだ。理解できないからサンマ裁判を独裁者キャラウェイと闘ったデモクラシーと思っているのである。戦後の沖縄を米国が統治し、1972年からは日本国家の地方自治体となったから民主主義システム・・・外なる民主主義は発展してきたが、内なる民主主義はまだまだである。

米国がアフガニスタンを制圧した後にアフガンを民主化する方法として日本をモデルにするといった。日本のように選挙制度による議会制民主主義国家体制のアフガンをつくれば日本のように民主主義国家になると予想したのである。沖縄に生まれ育った私は米国の方法はうまくいかないと予想した。
日本は明治に自由民権運動が始まり、民主主義は次第に浸透していった。大正になると政党政治も発展し、選挙で選ばれた原敬が首相になった。5・15事件で犬養毅首相が軍部に暗殺されて軍部が政権を握るようになったが、日本の民主主義は明治時代から徐々に発展していた。戦後に議会制民主主義国家になるが、日本には民主主義の土台があったから民主主義が発展したのである。しかし、アフガンには日本のような民主主義の土台がない。土台がなければ民主主義は築かれない。沖縄に育った私はそう思っていた。
米国はアフガンに選挙制度を導入し、大統領や議員を占拠で選出するようにした。選挙制度は米国がアフガンに強制したことであってアフガンの民主主義運動によって実現したものではない。大統領、議員になった連中は沖縄と同じように、国を自由・平等の社会にし、国の政治・経済を発展させていくことには興味がない。民主主義政治を行うことより地位を利用して自分の富をむさぼることを優先する連中が多い。
男女平等、女性の教育、働く権利は米国が与えたのであってアフガンの民主主義が勝ち取ったものではない。女性は働けるようになり、外国企業も進出して経済も発展していったがアフガンの民主主義体制は内から強化してはいなかった。。
タリバンが攻めてきたとき、アメリカの優れた武器を持ちながらアフガン兵士は闘わないで逃げた。武器を放棄して。軍隊が武器を放棄して逃げた原因は大統領や閣僚にある。大統領や閣僚、議員はアフガンの民主主義を守り発展させていく気がなくて自分の富を増やすことに執心していたからだ。軍隊を強くするか否かは大統領や閣僚に責任がある。彼らには国を守るために軍隊を強化する気はなく、賄賂に明け暮れ、軍部も賄賂が横行していた。だから、兵士には国を守る気はなくタリバンが攻撃する前に武器を放棄して逃げた。
アフガンの崩壊は米国式の議会制民主主義国家つくりの結果である。外からの民主主義体制の強制だけでは内からの民主主義は形成されない。それが沖縄であったし、今のアフガンである。

ガニ大統領は国外逃亡したがタリバンが権力を掌握した後、「何があってもタリバンには服従しない」とツイートしたサーレ副大統領は政権の崩壊を認めず、「暫定大統領」になることを宣言した。ザーレ氏は全国で唯一、タリバンに制圧されていない北東部パンジシール州に移動した。数千人の兵士も全国から同州に逃げてきたという。
タリバン支配を恐れ国外脱出する人々にアフガンの民主化は期待できない。ザーレ氏のように国内に残りタリバンと闘う決意をしているアフガンの人たちが立ち上がればアフガンの民主化の可能性が生まれる。女性は学ぶ自由、働く自由を体験した。タリバンが支配していたアフガンより経済は発展し生活は豊かになった。
民主主義を求める国民も多いだろう。ザーレ氏を中心に反タリバン勢力が拡大していく可能性がある。

米国式の外からの民主主義体制つくりは失敗する運命にある。内からの民主主義でなければ本当の民主主義体制は築けないことが真実であることはアフガンではっきりした。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« パラリンピッ... コロナ感染は... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。