沖縄二紙よ、普天間第二小を忘れたのか



「沖縄内なる民主主義6」(A4版・60ページ・600円税抜き)。
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普天間第二小学校の写真である。小学生が運動場で遊んでいる頭上を軍用機が飛んでいる。テレビではベトナム戦争を彷彿とさせるようなヘリコプター数機の飛行も放送していた。
爆音による授業妨害、飛行機、ヘリコプター墜落の危険性を盛んに訴えていたのは沖縄二紙やテレビなどのマスコミであった。
世界一危険な普天間飛行場を強調し続け、普天間飛行場の一日も早い閉鎖・撤去を主張してきた沖縄二紙であった。
 しかし、最近は普天間第二小学校のことが掲載されなくなった。特に、子供たちの頭上を飛ぶ軍用機の写真は見たことがない。

 普天間飛行場の危険性を報道しなくなった原因は辺野古移設にある。

 普天間飛行場の危険性を掲載すると、普天間飛行場と辺野古飛行場を比べる県民が出てくる。特に、普天間第二小学校の子供たちに同情が集まるだろう。普天間飛行場の危険性を考えると辺野古に移設するのは仕方がないと考える県民が増えてくるのは確実だ。それでは沖縄二紙は困るのである。だから、普天間第二小学校のことを掲載しないのだ。

 沖縄二紙は普天間第二小学校を掲載しないで、辺野古にやってきた小中学生の写真を毎日のように掲載している。


 純真な子供たちを利用したプロパガンダである。写真はさわやかだが、写真を掲載した沖縄二紙の心は策略にたけて汚い。

辺野古移設を断念すれば普天間飛行場が固定化する。その時には再び普天第二小学校のことを掲載するのだろうか。考えただけで興ざめする。


琉球王朝逆流への琉球処分論批判 1

 しつこく繰り返される沖縄二紙の「琉球処分論」である。私は「小説 琉球処分」を参考にして沖縄二紙や識者の琉球処分論があると思っていたが、それは小説を読んでいない私の勘違いであった。小説のほうが沖縄のリアルな社会を描き、「琉球処分」の過程をリアルに描いている。沖縄二紙は琉球王朝の側にだけ立った「琉球処分」を書いている。

 沖縄タイムスでは「岐路 歴史を掘る 未来を開く」のシリーズコラムがあり、第二部 近代編 琉球処分の意味㊥で、琉球処分の「処分」につい追求している。

 明治政府は十九世紀の末、当時の独立国だった琉球王国を強制的に近代日本の一部に組み込んだ。その過程で琉球は、従来通り王国の存続を望んだが、政府はこれを命令に従わないものとして一方的に「処分」し、沖縄県を設置した。
           「沖縄タイムス・岐路」
 一般に「処分」の意味には、始末をつけ処罰する際の「基準に照らして処分する」、公法上の「行政権」または「司法権」の作用権の発動、という二つの用法がある(「広辞苑」第4版)。
           「「沖縄タイムス・岐路」
「沖縄タイムス・岐路」は「琉球処分」の文言にこだわり、琉球を「処分」したという考えにこだわっている。確かに、明治政府は「琉球処分」することを決め、琉球王国に琉球処分官として松田道之を送った。
 琉球処分は廃藩置県のことである。廃藩置県は全国で行われた。日本の全ての藩を廃して、県を設置した。
 そうであれば明治政府が行った全国の廃藩置県について調べ、他県の廃藩置県と琉球処分の共通する点と違う点を比べる必要がある。ところが「沖縄タイムス・岐路」は他の廃藩置県と比べることはしないでまるで琉球王国にだけ「処分」したものとして書いている。
「明治政府は十九世紀の末、当時の独立国だった琉球王国を強制的に近代日本の一部に組み込んだ」と述べているが、当時の琉球王国は独立国ではなく薩摩藩の植民地であった。

一六一〇年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府で家康に、八月二八日に江戸城にて秀忠に謁見した。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。

一六一一年、尚寧と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文を提出した。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、琉球を間接支配するようになる。

以後、尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球と清との朝貢貿易の実権を薩摩藩が握るようになった。薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続けた。薩摩藩は、江戸へも琉球の使節を連れたが、その際の服装は、琉球に清使節が来た際に用いる中国風のものを着させた。
琉球王国は毎年莫大な生産物を薩摩に献納しなければならなかった。
年貢    9000石
芭蕉布   3000反
琉球上布  6000反
琉球下布 10000反
むしろ   3800枚
牛皮     200枚

この事実を見て、琉球王国が独立国であったと主張することができるだろうか。琉球王国は独立国ではなかった。それが歴史的事実である。
薩摩藩は江戸幕府から琉球の支配権を承認されている。明らかに琉球王国は薩摩藩の支配下にある植民地であった。植民地だったからといって、すべての人間が搾取されていたわけではない。薩摩藩は琉球の管理・支配を琉球王朝に任せて、決まった生産物を上納させていた。要するに琉球王朝は琉球の支配を薩摩藩から委託されていたのである。琉球の本当の支配者は薩摩であった。
 琉球王国が独立国であったというのは嘘である。沖縄タイムスの「岐路」は嘘を前提にして論を進めるから、嘘の積み重ねになってしまう。

 「琉球処分」は、懲罰的な措置か、単なる行政権の行使か、解釈は研究者間でも分かれる。だが今日まで多くの沖縄の人々の間で「琉球処分」が、日本政府の沖縄に対する差別的処遇と重なるものと認識されている点は無視できない。
           「沖縄タイムス・岐路」

 大城立裕氏の「小説 琉球処分」の第一章は「ぼんやり王国」である。

 明治五年五月、琉球 ―
 首里王城から一里ほどはなれた浦添間切り沢岻から内間村の方向へ向けて、三人の旅の男が歩いていた。五月といっても、すっかり夏で、ことにあめがかなり遠のいていたので、畑にはまだ十分にのび切ってない大豆がもう黄ばんでいて、空気がもえあがりそうな昼下がりだった。
 三人の男は、その服装からしていかにも薩摩商人の商用の旅というふうにうけとれたが、ただ野良の服装からして誰もがはっとしたように眼をとめるのが、その断髪にした頭だった。いや正確にいえば、先頭にたった一人だけはまだマゲを残していたが、後の二人の頭のかっこうは、百姓たちが初めてみるものだった。
          「小説 琉球処分」
 三人の男は、薩摩人であるが日本政府の使節として琉球にやってきた。彼らは七日間琉球の百姓の生活を調べていた。

「七日間をつぶしてこの島の百姓の生活を見てきてその疲弊ぶりに舌をまいた君が、やはりそのようなことしか言わないのか。ぼくとしては納得いきかねる」
・・・・・・・
「確かに貧乏には驚きます。なにか腹立たしいものを感じます。だからといって、それをすべてわが責任であるかのように、苦しむいわれはないと思うだけです。正月二十五日にこの島へ来てからずっと、首里の政庁でも調べたではありませんか。なるほど島津が琉球を収奪した。しかし、琉球の百姓をしばりあげたのは、島津が直接にしたのではなくて、琉球政庁の役人どもだ。かれらは島津にひたすら頭を下げて苦しい苦しいといいながら、百姓と苦しもうとはしなかった。自分らはぬくぬくと暮らした。その責任をまず問うべきですよ。それが琉球の御一新というものだ」
「皮肉をいうわけではないが、きみはやはり、封建政治をにくんだ勤王の志士奈良原幸五郎だ。しかしきみは、自分が鹿児島の人間だということを忘れている。見たまえ。ぼくらが自分では日本帝国の官員として琉球の人民を開放するために来たつもりでも、百姓どもはぼくらを島津の片割れとして警戒しているのだ」
「それは思いすごしだ、伊地知さん。いや、確かに百姓たちはまだぼくらをこわがっているかもしれないが、そんなことを、いちいち気にしていたってはじまらない。ぼくらとしては、この島の産業開発と教育とに努力を傾けること。きのう話したとおりです。いまのところ、それ以上に欲はだせませんな。一体、思い出してもごらんなさいよ。ぼくらが最初首里の政庁へのぼったときの役人どもの間の抜けた顔は、どうでした。明治御一新を説明するのに、あれだけ骨が折れるとは思いませんでしたぜ。薩摩の国が鹿児島県になったのがなんだか悪いことをしたみたいで、へんな錯覚まで起こしましたな」
            「小説 琉球処分」
 「琉球処分」は明治政府が全国一律に行った廃藩置県のひとつである。
 明治政府は士農工商の身分制度を廃止し「四民平等」の社会にした。そして、法治主義を掲げ、憲法・法律を制定して全国に平等に適用した。沖縄県も四民平等の社会になり、他の県と同じ法律が適用された。いわゆる「明治御一新」である。
 「小説 琉球処分」の書き出しで、明治政府の意向とそれを理解しきれない琉球王朝が象徴的に描かれている。

 明治政府による「琉球処分」は「沖縄タイムス・岐路」で述べているような懲罰的な措置ではないし、単なる行政権の行使でもない。日本全体を近代社会へと変革させる琉球版であった。
 琉球処分によって、武士は平民になり、農民も琉球王朝支配から解放されて平民になった。
 「琉球処分」によって沖縄の人々は解放されたのである。そのおかげで貧乏人であった謝花昇が学校に通うことができ、沖縄県庁の役人になったことは有名な話だ。

沖縄の民権運動の父。謝花昇

謝花昇(じゃはなのぼる)は、他府県(たふけん)の人たちと同じような権利(けんり)を、沖縄の人たちが勝ち取るために活動した社会運動家である。

 謝花昇は、1865年、東風平間切(こちんだまぎり)のまずしい農家に生まれた。おさないころから勉強が大好きで、農作業をしながらも、地面に字を書いたりしていた。しかし、「ひゃくしょうに学問はいらぬ」という父は学校に行かせてくれなかった。そのため、かれは父にかくれて学校に行き、教室の外から先生の話を聞いていたという。

そんな昇が学校に行けるようになったのは、かわいそうに思った母が父をせっとくしてくれたおかげであった。ゆうしゅうな成せきをおさめた昇は、17さいの時、間切の人々にあとおしされ沖縄師範学校(おきなわしはんがっこう)に進んだ。

 師範学校の生徒は、ほとんどが士族(しぞく)の子どもだった。そんな人たちから「いなか者」とばかにされながら、かげ口も気にせず勉強にはげんだ昇は、1882(明治15)年に、留学生(りゅうがくせい)に選ばれて上京することになった。

 学習院(がくしゅういん)で学んだ昇は、二年後、帝国農科大学(ていこくのうかだいがく)に進み、近代農業を学んだ。同じころ、日本では、「人民による人民のための政治(せいじ)」を求める自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)が起こっていた。
 「長い間、しいたげられてきた農民を救うために戦うのだ」とうったえる自由民権運動に感動した昇は、「大学に残り農学士として研究をつづけるより、沖縄に帰ってまずしい農民たちを救おう」と決めた。

沖縄ではじめての学士になった昇は、沖縄にもどり県庁で働くことになった。そのころ県庁で働く人はほとんどが他府県の人だった。沖縄出身の昇は、かれらもおどろくほどに活やくしたことから、他府県人に見下げられていた沖縄の人々を「農民の子でもえらくなれる」と勇気づけた。

 しかし、奈良原繁(ならはらしげる)が県知事になると、杣山(そまやま)のはらい下げ問題で、昇は知事と対立することになった。
 杣山とは材木を切り出すための山で、農民たちが管理していた。そのため、この山林をまずしい士族のためにはらい下げる計画が持ち上がると、農民たちは自分たちの生活がおびやかされると反対した。
 

 「奈良原がいるかぎり、沖縄の人々はゆたかになれない」と思った昇は、かれのわがままぶりを明治政府にうったえたが、奈良原をやめさせることはできなかった。
 そこで昇は県庁をやめ、沖縄の人の権利をかくとくするために、仲間といっしょに「沖縄クラブ」というグループをつくり、『沖縄時論(おきなわじろん)』という本で奈良原のわがままぶりをあばいた。
これに対し奈良原は、新聞社を味方にして「沖縄クラブ」をひはんしたため、謝花昇らの「沖縄クラブ」は2年でつぶれてしまった。

 仕事をなくし、これまでの運動にすべてのお金を使いはたした昇は、悲しみの中、仕事を求めて山口県に向かった。しかし、そのと中の神戸駅でとつぜん気が変になってたおれた。
それから沖繩に帰ってきた謝花昇は、7年後、病気が直らないまま44さいという若さでこの世を去った。

 あらゆるときにも農民の立場で、沖縄の人々の権利をかくとくするために戦った謝花昇の運動は、実を結ばなかったものの、その勇気ある行動は多くの人々の心に残り、今も語りつがれている。
「琉球文化アーカイブ・沖縄人物伝」

 謝花昇が立身出世したのは明治政府の四民平等・教育改革の方針があったからである。そして、謝花昇が自由民権運動をやれたのも日本社会の近代化があったからである。武士階級が絶対的な権力を握っていた琉球王国であったなら謝花昇が立身出世をし、自由民権運動をすることは不可能であった。
 
 「沖縄タイムス・岐路」は明治以後の沖縄の社会変革には目もくれず、「琉球処分」の文言にこだわるのである。

 「琉球処分」は懲罰的な措置か、単なる儀容政権の行使か。解釈は研究者でも分かれる。だが今日まで多くの沖縄の人々の間で「琉球処分」が、日本政府の沖縄に対する差別処遇と重なるものと認識される点は無視できない。
             「沖縄タイムス・岐路」

 廃藩置県は全国で行われた。封建制度を廃して四民平等の近代社会にするという全国一律の変革である。沖縄だけ特別に行われたのではない。沖縄の場合は藩ではなく王朝であったから王朝から藩にし、それから廃藩置県を行ったが、沖縄を県にするという目的は全国と同じであった。
もし、「琉球処分」が日本政府の沖縄に対する差別処遇であったなら、すべての藩に対する差別処遇ということになる。本土では廃藩置県に反発して武士たちが反乱を起こしている。廃藩置県に反発したのは沖縄だけではなかった。沖縄だけを特別視するのは間違っている。
しかし、「沖縄タイムス・岐路」は「琉球処分」を日本政府の沖縄に対する差別処遇であると決めつけている。

「『処分』を「併合」と見直すことで、通説を考え直すことができる」
琉球大学の波平恒男教授(政治思想史専攻)は、「併合」という視点から、琉球が近代日本の一部に強制的に組み込まれる過程を捉える必要性を強調する。(近代東アジア史のなかの琉球併合)岩波書店)。
「従来の歴史研究は、処分する日本側の視点で捉えたものがほとんどだが、処分される側の視点からも見なければ、一方的で誤った歴史解釈になる」と説明。「『併合』という視点によって『韓国併合』との類似点など、当時の東アジアの歴史とも比較が可能になる」と指摘する。
これに対して、逆に「処分」の反語的意義をあえて強調する立場もある。
           「沖縄タイムス・岐路」
 併合論も処分論も琉球王朝が封建社会であり武士階級が農民階級を支配していた社会矛盾を問題の対象にしていない。支配階級である琉球王朝の側からだけ述べている。支配されている階級の農民は無視している。
 沖縄タイムス、波平恒男教授にとって琉球とは琉球王朝なのである。
 琉球大学の赤嶺守教授(琉中関係史)は、
「近代日本は王国存続を求め抵抗する琉球を、国策に逆行すると一方的に『処分』した。琉球の歴史が取りつぶされた意味をどう考えるか。自らのアイデンティティーに関わる問題だ」
と述べている。

 「小説 琉球処分」の始まりに、明治政府からの使者三人の男の話には、琉球王朝支配から農民を解放し、沖縄を発展させようとする気概が窺われる。

「百姓と苦しもうとはしなかった。自分らはぬくぬくと暮らした。その責任をまず問うべきですよ。それが琉球の御一新というものだ」
「ぼくらが自分では日本帝国の官員として琉球の人民を開放するために来たつもりでも」
「ぼくらとしては、この島の産業開発と教育とに努力を傾けること」

琉球処分は農民解放であり、沖縄の産業・教育の発展を目的にしていたのだ。
ところが赤嶺守教授は「変革」を「国策」としか理解していない。あきれたことに琉球王朝が潰されたことを琉球の歴史がつぶされたと理解している。赤嶺教授は琉球王朝=琉球であるのだ。琉球の人口の大半を占める農民は赤嶺教授にとって琉球人ではなかったのだ。
琉球王朝時代の沖縄農民の貧しい生活に心を痛めたのは沖縄人である赤嶺教授ではなく、薩摩出身の勤王の志士たちであった。

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