封建時代は売春婦=性奴隷であった その認識のない日韓学者の愚かさ



アマゾンで注文・購入できます。
本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
クリックお願いします。

:掲示板
沖縄内なる民主主義20新発売中

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
封建時代は売春婦=性奴隷であった その認識のない日韓学者の愚かさ
「表現の不自由展・その後」が再開されることになった。少女慰安婦像像が「平和の少女像」として再び展示されることになった。少女慰安婦ではなく平和の少女になったのである。ハンギョレ新聞は「少女像の展示は日本内で代表的なタブーの一つだ」と述べているが、そうではない。少女像がタブーではなく少女慰安婦像がタブーである。
平和の少女像は駐韓日本大使館前の「平和の少女像」を制作した彫刻家キム・ウンソン氏とキム・ソギョン氏夫妻が、同じ形で作ったものだ。日本大使館前の少女像は少女慰安婦像である。韓国での少女慰安婦像を愛知県の「表現の不自由展・その後」では平和の少女像と改名するのはおかしい。それは露骨な政治プロパガンダであるといってもおかしくない。愛知県で展示されると、韓国では少女慰安婦像が日本の税金で開催された展示会で展示されたと宣伝し、少女慰安増は日本国民も認めたと主張するようになるだろう。

 最近になって痛切に感じるのは日本の政府も学者も真剣に慰安婦問題に取り組んでこなかったことである。

慰安婦について一番正しいことを書いているのは私の「彼女は慰安婦ではない 違法少女売春婦だ 少女慰安婦像は韓国の恥である」であることを改めて確信した。しかし、「少女慰安婦像は韓国の恥である」に書く足りない所がある。それは封建時代の「性奴隷」についての説明が足りない。慰安婦問題では「性奴隷」については江戸時代の士農工商の身分制度の社会と明治時代の四民平等の近代社会との歴史的比較が必要である。そうしないと韓国の少女慰安婦が慰安婦ではなく少女性奴隷であったことをはっきりと説明することができない。
江戸時代の遊郭や吉原の女性は「性奴隷」であった。だから舞子も「性奴隷」であるし、大韓帝国時代の妓生は性奴隷である。性奴隷だったのに明治政府の「娼妓取締規則」によって性奴隷から解放され足りない。彼女たちは性奴隷から身分が保証された職業婦人になったのである。明治政府「娼妓取締規則」で法的に彼女たちの人権を与えたのである。ところが日本の政府も学者もこの歴史的意義を認識していない。だから、左翼の慰安婦=性奴隷の主張を打破できないのだ。
 
 
 琉球王国時代に吉屋チルーという琉歌の天才少女がいた。彼女は読谷の貧しいに農家に生まれ、八歳の時に那覇の遊郭に売られた。琉歌の天才少女は1八歳の時に食事することを拒否して自殺する。私は読谷村の生まれであり、チルーの有名な琉歌に出てくる比謝橋の近くで育った。チルーの琉歌は私に強く影響した。私の長編小説「マリーの館」に吉屋チルーのことを書いてある。
吉屋チルー
吉屋チルーの琉歌が浮かんできた。読谷の貧しい農村に生まれた吉屋チルーはたった八歳で女の性を売る那覇仲島の遊郭に売られた。

恨む比謝橋や
 情ねん人ぬ
 我ん渡さ思てぃ 
掛きてぃうちゃら

(比謝橋よ。私はお前を恨む。非情な人間が、那覇仲島の遊郭に売られていく私を渡そうと企んで、お前を掛けたのね)
搾取され、貧しい生活を強いられたチルーの親は、少女チルーを遊郭に売らなければならない状況に追いやられた。チルーは那覇仲島の遊郭に売られることになった。生まれ育った読谷から出ていく境界には比謝川が流れていた。比謝川には比謝橋が掛かっていた。比謝橋がなければチルーは那覇仲島の遊郭に売られなくてすんだ。チルーが那覇仲島の遊郭に売られなければならない貧困に追いやったのは時の権力者であり、チルーを渡すために比謝橋を掛けたのも時の権力者だった。情ねん人=非情者=権力者。チルーは比謝橋を造った非情で冷酷な権力者に琉歌で恨みを投げつけた。

吉屋チルーは一六五〇年に生まれた。八歳の時に那覇仲島の遊郭に身売りされた吉屋チルーは硫歌の天才少女として有名になりながらも、身受けされるのを拒否し、絶食して息絶えたという。一六六八年、吉屋チルーが一八歳の時である。
平敷屋朝敏(へしきや・ちょうびん 一七〇〇~一七三四年)が書いた「苔之下」という吉屋チルーの物語は、吉屋チルーは仲里按司に恋していたが、仲里按司の母親が病気になって倒れたために、仲里按司は吉屋チルーの待つ仲島の遊郭に行かなくなった。これをよいことに抱母は吉屋チルーを仲里按司から引き離すために、黒雲殿に見受けさせようとした。吉屋チルーは、そのことに怒り、失望し、食を絶って亡くなったと書いてある。
しかし、まて。それは平敷屋朝敏の「苔之下」という俗的な悲恋物語に書かれてあることであり、吉屋チルーの実話ではない。平敷屋朝敏は吉屋チルーが死んで三十二年後に生まれた人物だ。吉屋チルーを直接知っていたわけではない。吉屋チルーが琉歌の天才であり、仲島の名花と呼ばれながらも、十八歳の時に絶食して死んだという伝説を知っていただけだ。「苔之下」以外に「若草物語」「万才」「貧家記」「雨夜物語」等を書いたように、平敷屋朝敏はロマン作家であり、「苔之下」は平敷屋朝敏が書いた悲劇ロマンだ。武士階級のロマンチスト平敷屋朝敏が庶民の天才詩人吉屋チルーの魂を理解できるはずがない。
私には分かる。若い仲里按司と恋をしたというのは吉屋チルーを悲恋物語のヒロインにするための朝敏のでっちあげ話だということを。私には分かる。吉屋チルーの死はそんなロマンチズムな死ではなかったことを。私には分かる。貧しい農家に生まれて教養がないのに歴史に残る琉歌を作った吉屋チルーは天才の中の天才であり、卓越した感受性の持ち主であり、詩人としての気高いプライドを持った少女であったことを。私には分かる。吉屋チルーは女の性を絶対に売らない純粋でプライドの高い詩人であったことを。私には分かる。少女から女の体に成長した吉屋チルーは女の性を売るように強制されたが、拒否したことを。しかし、強固な遊郭の掟は吉屋チルーの拒否を許さなかった。私には分かる。詩人としてのプライドが高い吉屋チルーは、遊郭の掟に抗議して絶食をやり、詩人としての魂を全うするために死を選んだことを。
天才詩人吉屋チルー。生まれながらの詩人吉屋チルー。天才詩人であったがゆえにわずか十八歳で死を選ばなければならなかった吉屋チルー。チルー、チルー。純粋に詩人の魂を一途に生き、そして死を選んだ琉歌の天才少女チルー。かわいそうなチルー。気高いチルー。私は止めどもなく涙が溢れてきた。

琉球王国の王族や士族たちは龍潭池で舟遊びをして優雅な生活を送っていたが、その裏では過酷な搾取によって農民は極貧生活を強いられ、吉屋チルーのように身売りされる少女の悲劇が数多く繰り返されたのだ。吉屋チルーを死に追いやったのは農民を虫けらのように扱う琉球王国支配の社会だった。チルーを死に追いやったのは琉球王国だ。琉球王国のくそったれだ。
              「マリーの館」
 琉歌の天才でも遊郭の経営者にとっては商品でしかない。高い値段で売れれば売りさばいていく。チルーも商品の一つでしかないのだ。遊郭の女性はつきつめれば性奴隷あった。それは日本中みな同じであった。
 京都の舞妓も性奴隷であった。
舞子の「水揚げ」
江戸時代の舞妓は「旦那」とよばれるスポンサーを持たなければならなかった。
旦那は自分が見初めた舞妓の着物や生活にかかる多額の費用を置屋に支払い、その対価として舞妓と男女の関係を結んだ。舞妓が初めて旦那を持つことを「水揚げ」といった。
舞妓にとっての水揚げは、一人前への大きな一歩であり、髪型もそれまでの割れしのぶからおふくに結い替えた。
舞子は水揚げを断ることはできない。命令に従うだけである。従わなければ厳しい罰が下される。
吉屋チルーも舞子も性奴隷だったのだ。奴隷とは売られた人間であり仕事の選択の自由も報酬もない人間のことである。
舞子やチルーのように遊郭に買われた女性は性奴隷である。性奴隷になることを拒否したチルーは自殺したのである。死ぬことでしか性奴隷から解放される術は遊郭の女性にはなかった。
なぜ八歳で遊郭売られたか
遊郭に売られるのは八歳くらいの少女が多い。八歳ではまだ子供であるし客相手の仕事はできないはずである。吉屋チルーの話をした先生は掃除などの仕事をしたと言った。先生の言うことを信じていたが、俳句を作っているうちに八歳で売られた理由がわかってきた。俳句や琉歌などの詩は誰でもつくれるが、優れた詩は才能のある人にしかつくれない。チルーの「恨む比謝橋」がすごい琉歌であり、俳句をつくるために色々勉強しているうちに「恨む比謝橋」はとても優れた琉歌でありチルーが天才の中の天才だからこそをつくれたのだと思うようになった。先生はチルーが比謝橋を渡った時の八歳の時につくったといっていたが、八歳の少女がつくれるはずがない。そもそも貧しい農家の少女が琉歌をつくれるはずがない。チルーが琉歌を作れるようになったのは遊郭で琉歌の作り方を教えられたからである。
 遊郭が八歳という幼い時に少女たちを買うのは踊り、三味線、琉歌などを英才教育をするためであった。質の高い芸を習得させて客に披露すれば莫大な収入になるのだ。流加の天才チルーも教養ある武士たちと琉歌を掛け合って客を集めていたのだ。
和歌には連歌といって上の句(五・七・五)と、下の句(七・七)を別の人が交互に作るのがある。琉歌にも上の句(8・8)、下の句(8・6)に分けて連歌を楽しんだ。チルーは遊郭で連歌でもてなしたのである。
遊郭の客は身分の高い武士や金持ちの承認たちであった。教養の高い彼らを満足させるために子供の時から英才教育をしたのである。
 それは日本だけでなく世界共通であり、封建社会ではどこでも遊郭のようなものが存在し、遊郭の女性は性奴隷であった。封建社会は身分差別社会であり奴隷は普通に村座していた。

 日本が併合する前の大韓国帝国は封建社会であり性奴隷の社会はあった。妓生も性奴隷であった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« デニー知事に... 中高生が警官... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。