加藤登紀子、坂本龍一、古謝美佐子、石川真央批判



第1章 日本・沖縄の米軍基地はアジアの民主主義国家の平和に貢献している 第2章 戦後沖縄の非合法共産党・米民政府 第3章 辺野古移設の真実 第4章 辺野古埋め立ての真実 第5章 辺野古の真実を捻じ曲げた者たち 第6章 辺野古の真実を捻じ曲げた沖縄タイムス・琉球新報 第7章 辺野古の真実を捻じ曲げた翁長知事 第8章 辺野古の真実を捻じ曲げた落合恵子 第9章 辺野古の真実を捻じ曲げた宮崎駿 第10章 自民党県連批判 

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 加藤登紀子、坂本龍一、古謝美佐子、石川真央批判

高校生の時、日本史だったと思うが、プロレタリア作家小林多喜二が特高警察の拷問で死んだことを習った。左の写真も載っていた。
「1933年(昭和8年)2月20日、岩田義道が虐殺されてから3カ月後、プロレタリア文学の作家、小林多喜二は、詩人の今村恒夫とともに東京・赤坂福吉町の街頭で検挙され、わずか7時間後に築地署で虐殺されました」


 小説家になりたいと思っていた私は、小林多喜二の拷問死に強いショックを受けた。
「なぜ、小説を書く人間が殺されるのだ」
戦後生まれの高校生の私には、小説家が警察に殺されるということがどうしても納得することができなかった。琉大に入ると小林多喜二について調べた。「蟹工船」と「党生活者」を期待して読んだのたが、しかし、期待していたほどの小説ではなかった。面白くなかったし、私は小林多喜二の小説を評価することはできなかった。ただ、小林多喜二の小説を読んでも拷問死したことに対しては納得できなかった。大正デモクラシーが昭和に入ると軍部が台頭してきてプロレタリア文学や無政府主義や自由主義へのひどい弾圧が始まったことを私になり勉強した。
共産主義者の小説や詩や演劇などをプロレタリア文学という。プロレタリア文学の小説や詩は面白くなかったが、中野重治だけは好きになった。1924年から1926年にかけて書いた「夜明け前のさよなら」が私は好きだった。

僕らは仕事をせねばならぬ
そのために相談をせねばならぬ
然るに僕らが相談をすると
おまわりが来て眼や鼻をたたく
そこで僕らは二階をかえた
路地や抜け裏を考慮して

ここに六人の青年が眠っている
下には一組の夫婦と一人の赤ん坊とが眠っている
僕は六人の青年の経歴を知らぬ
ただ彼らが二階を喜んで貸したことだけを知っている

夜明けは間もない
僕らはまた引っ越すだろう
鞄を抱えて
僕らは綿密な打ち合わせをするだろう

 警察の弾圧から逃れてプロレタリア文学活動をしている生活を描いているが、中野重治の詩にはなんというか、素朴さとかやさしい心を感じる。

 あかるい娘ら

わたしの心はかなしいのに
ひろい運動場には白い線がひかれ
あかるい娘たちがとびはねている
わたしの心はかなしいのに
娘たちはみなふっくらと肥えていて
手あしの色は
白くあるいはあわあわしい栗いろをしている
そのきゃしゃな踵(かかと)なぞは
ちょうど鹿のようだ

 真夜中の蝉

真夜中になって
風邪も落ちたし
みんな寝てしまうし
何時ごろやら見当もつかぬのに
杉の木のあたりについて
じいっというて鳴く
じつに馬鹿だ

 小林多喜二の小説は政治色が強く、人間味に欠けるが、中野重治の詩は人間味がある。文学作品としての価値は中野重治の詩にある。
 中野重治も警察に逮捕されて「転向」を強制される。「転向」とは共産主義をやめることだ。中野重治は警察の弾圧に負けて転向する。その重みを引きずりながら生きた詩人であった。

 文学は政治から自立しなければならないと私は思っている。プロレタリア文学のように政治目的のために表現してはならないし、他方、文学的な視点から政治を見るべきではないと考えている。私はその考えから政治評論を書いているし、小説を書いている。政治と文学は人間世界に関係しているとい共通はあるが、政治は現実の事実を関する世界であるが文学は作家の観念的表現の世界である。
辺野古移設に対して音楽家の加藤登紀子、坂本龍一、古謝美佐子と写真家の石川真央がそれぞれの立場から関わり意見を述べている。
彼らは政治家ではない。左翼運動家でもないし知識人でもない。彼らは芸術家である。芸術家であることを認めた上で彼らへの批判をしていく。

 私は加藤登紀子の「ひとり寝の子守歌」「知床旅情」「百万本のバラ」が大好きである。

1969年 「ひとり寝の子守唄」で第11回日本レコード大賞歌唱賞受賞。
ひとり寝の子守唄
加藤登紀子 作詞/作曲

ひとりで寝る時にゃよぉー
ひざっ小僧が寒かろう
おなごを抱くように
あたためておやりよ

ひとりで寝る時にゃよぉー
天井のねずみが
歌ってくれるだろう
いっしょに歌えよ

ひとりで寝る時にゃよぉー
もみがら枕を
想い出がぬらすだろう
人恋しさに

ひとりで寝る時にゃよぉー
浮気な夜風が
トントン戸をたたき
お前を呼ぶだろう

ひとりで寝る時にゃよぉー
夜明けの青さが
教えてくれるだろう
ひとり者もいいもんだと

ひとりで寝る時にゃよぉー
ラララ・・・・・
ラララ・・・・・

「ひとり寝の子守唄」は私が学生だった頃に出た歌である。家族から離れ、一人暮らしをしていた間借り生活にぴったりの歌だった。

加藤登紀子エピソード
学生運動が盛況だった高校生の頃に、東大生の樺美智子の訃報に触れ、心を動かされる。東大入学後、アイドル歌手的存在となりつつも、学生運動に積極的に参加する。その噂を聞きつけた同志社大学の学生であり、ブント系の「反帝学連」委員長の藤本敏夫にコンサートへの出演依頼を受けるものの、歌を政治運動に利用されることを嫌って断る。しかし、この件をきっかけに2人は交際を開始。。紆余曲折を経て1972年5月に、防衛庁襲撃事件などで逮捕され勾留の身であった藤本と獄中結婚。「ひとり寝の子守歌」は、塀の中にいる夫を思って作られた代表曲のひとつでもある。勾留と釈放を挟み、合わせて30年間を連れ添った夫は、2002年に死去(享年58)。夫との間には1972年、1975年、1980年生まれの3人の娘がおり、そのうち1人はYae(藤本八恵)として歌手活動中。

 加藤登紀子は学生運動に積極的に参加していたが、藤本氏のコンサートへの出演依頼は断っている。私も学生集会や県民大会に積極的に参加していたが、芸術は政治から自立しているものであり、政治を文学に持ち込むべきものではないと考えていた。加藤登紀子が学生運動に参加したのは一学生としてだろう。決して国家を倒して革命国家をつくる活動家として参加したのではなかった。私も一学生として学生集会や県民大会などに参加した。文学と政治は違うものであり、プロレタリア文学のように共産主義のために作品をつくるのは小説を矮小化するものであると考えていた。
 社会の矛盾や虐げられた労働者の様子を文学や演劇で表現して市民を覚醒させるというのが戦前のプロレタリア文学であった。戦後はサルトルなどが主張した実存主義がそうである。
琉大演劇クラブは私が入学する前はプロレタリア文学や実存主義の系統であった。琉大演劇クラブ出身が中心になってつくったのが劇団「創造」である。「創造」のオリジナル作品として有名なのは「人類館」である。1976年が知念正真が戯曲「人類館」を発表し翌年、「創造」が上演した。私は「人類館」を見ていない。新聞の「人類館」についての説明を読んで見る気がしなかった。
そのように考え、一学生として集会に参加していたが、嘉手納飛行場にB52重爆撃機が墜落炎上したのをきっかけに学生運動に参加した。昼は芸術に興味のない学生たちと政治活動をやり、夜は政治に関心のない学生と酒を飲みながら芸術を語り合った。そんな生活を3年近く体験した。

加藤登紀子が作詞作曲した「ひとり寝の子守唄」は好きな歌である。「ひとり寝の子守唄」は1969年の頃の歌であり、学生で一人住まいをしていた私の心情に合う歌だった。加藤登紀子のソフトでありながら淡々としていて、決して力まないで深みに誘っていく歌い方が好きだ。「知床旅情」も好きだし、「百万本のバラ」も好きだ。

11月28日に沖縄市で開催されたコンサートのため来県した加藤登紀子は29日午後にキャンプシュワブにやってきた。そして歌った。、
「戦後の厳しい時代をくぐり抜けた沖縄には民を守ってきた歌がある。共に心を一つにして歌おう。戦争につながる基地はどこの場所にも造らせてはいけない」
と力強く語ったという。加藤登紀子が見るキャンプシュワブは決してセクト政治活動家の集まりではない。沖縄の民衆の集まりである。だから、特定の政党を励ましに来たのではなく沖縄の民衆を励ましにきたのだ。加藤登紀子がキャンプシュワブで歌ったのはそれはそれでいいと思う。私の加藤登紀子に対する気持ちは変わらない。加藤登紀子の歌は素晴らしいし、考えもそれでいいと思う。
 問題は辺野古移設に関する情報が加藤登紀子の耳に正確に伝わっていないことである。そして、伝えることは不可能に近い。

 ニューヨーク在中の坂本龍一は沖縄タイムスの単独インタビュー受けた。坂本龍一は沖縄の音楽だけでなく政治にも関心があるミュージシャンである。政治と音楽は違う世界である。ミュージシャンの視点で政治を考えるのは間違いである。それにミュージシャンである坂本龍一が得ることができる沖縄・日本の政治情報のほとんどがマスコミ報道である。マスコミ報道に嘘があれば彼は嘘を信じてしまう。
 沖縄タイムスの「政府が進める現在の辺野古基地建設について、どうお考えですか」という質問に、坂本龍一は、
「僕は法律的なことは全く分からないですが、その素人が見ても日本政府がやっていることは法に基づいておらずそれを無視したやり方だなと思います。逆に損害を被っている沖縄の方が、あくまでも冷静に法律に基づいて手続きを進めているのに、米国にしろ日本にしろ、大きな力を持っている側が凶暴なまでに法を無視して強行しているというのはとても理不尽なことだと思いますね。歴史的に見ても第2次世界大戦で本当に大きな犠牲を払った沖縄ですが、また戦後何十年もアメリカの基地を押し付けられて大きな損害を受けている。沖縄には罪がないのになぜ犠牲を払わなきゃいけないのかということを強く感じます」
と答えている。法律を守ることを大事にし、沖縄を思いやる坂本龍一はヒューマニズムに満ち溢れている。しかし、それだけで彼の主張がヒューマニズムに溢れているとは言えない。
法律に素人である坂本氏が日本政府がやっていることは法を無視したやり方だと思ってしまう根拠はマスコミ情報であるが、彼が得たマスコミ情報は事実とは違う情報である。
政府は法治主義に徹しているし徹しなければならない。政府が法を無視すれば政府を監視している連中に訴訟を起こされて、裁判で負ければ内閣は解散しなければならない。議会制民主主義国家では政府が一番法律を守らなくてはならない。そのことを坂本氏は認識していない。実は法律を守っていないのは沖縄のほうである。
沖縄は第2次世界大戦では犠牲を払ったが、戦後は違う、戦後は犠牲を払っていない。米軍が統治していた時代は、マラリアなどの病気を米軍が駆逐し、米民政府によって沖縄の民主化が進んだし、経済も発展した。戦前に比べて平和で生活が豊かになった。その事実を坂本氏は知らない。沖縄二紙や本土のマスコミ報道を信じている坂本氏は、沖縄は何十年もアメリカの基地を押し付けられて大きな損害を受け、罪がないのになぜ犠牲を払わなきゃいけないのかと思ってしまうのである。
確かに戦闘機の墜落、米兵による婦女暴行、交通事故、騒音など米軍基地被害はあった。しかし、それは事件・事故であり、社会生活に悪影響を与えるような問題ではなかった。米軍による沖縄人への社会的な弾圧はなかった。むしろ米軍は三権分立、議会制民主主義社会をつくり沖縄の民主化を進めていった。搾取や弾圧はしなかった。坂本氏のいうような基地を押し付けられたがゆえの大きな損害というのははなかったし、罪がないのに犠牲を払わされたというのもなかった。坂本氏は事実とは違う認識をしている。

 「やっと雪解けが来るのかと思ったら、また新たに軍事基地を建設して貴重な自然を壊す。何でそこまでして沖縄が犠牲を払わなければいけないのか。本土の人間としても全く不可解です。いろんな記事を読むと米軍は、海兵隊は沖縄から出て行きたいけど、止めたのは日本政府だと。防衛ということはあるんでしょうけど。沖縄の貴重な自然を壊してまで米軍に居てもらうことで、そんなに大きなメリットがあるんでしょうかね。よく分かりませんけど全く不可解としか言いようがないですね」
新たな軍事基地とは辺野古飛行場のことである。「やっと雪解けが来る」と述べているがそれはいつ頃のことを指しているのだろうか。見当がつかない。
辺野古移設の始まりは2002年9月27日稲嶺知事が県議会で15年使用期限の解決なくして着工はないとの立場を表明。11月17日 県知事選で稲嶺氏が大差で再選された時から始まっている。
2004年8月13日に米海兵隊ハワイ所属の大型輸送ヘリCH53Dが沖縄国際大学 の一号館本館に接触、墜落、炎上したにも関わらず、辺野古移設反対派がボーリング調査を暴力的に妨害したことで辺野古沖への移設は実現できなかった。
その後、2006年4月7日島袋名護市長がV字型滑走路を提案し、政府と合意した。宜野座村も政府と基本合意書締結をした。最終的には2010年6月4日 鳩山氏が首相退陣、菅直人氏が首相に就任し、日米合意の踏襲を明言した。2010年6月4日で辺野古移設の政治決着がついたと判断するのが常識である。辺野古移設が最終的に決まったのは民主党政権時代であった。辺野古飛行場建設が決まったから沖縄防衛局は辺野古埋め立て申請をしたのである。そして、申請が承認されたからボーリング調査が始まったのだ。
政府は民主主義ルールに則って辺野古基地建設を進めたのである。坂本氏は歴史過程を無視している。ボーリング調査を始めたことが辺野古移設の始まりではない。ボーリング調査を始めたのは辺野古移設が結着したからである。辺野古移設結着までは関心がなくて、ボーリング調査を始めてから辺野古移設の始まりだと思い込んでいる坂本氏は政治的には無責任な発言である。
海兵隊が沖縄から完全撤去することを止めたのは日本政府である。だから、米軍を撤去させたフィリピンのように中国の侵略を防ぐことができたのである。もし、沖縄から米軍が撤去していたら、中国による沖縄への侵略行為はひどくなっていただろう。
辺野古飛行場は普天間飛行場を移設するために建設するのであり、辺野古飛行場ができると普天間飛行場は撤去され民間の土地になる。坂本氏が普天間飛行場のことを話さないことはおかしい。それに辺野古基地は現在も軍事基地であり建物が建っているから自然を破壊することにはならない。沿岸部を埋め立てるが規模としては小さいし自然破壊にはならない。
 
大きく自然破壊をしてきたのは米軍基地ではない。民間地である。戦前の人口は60万人に満たなかったが、戦後はどんどん人口が増え、140万人を超した。人口は中南部に集中し自然を破壊して住宅や商業建物が増えた。宜野湾市、浦添市、那覇市は緑が少なくなった。民間の海の埋め立ては辺野古の何百倍もある。自然を破壊したのは米軍基地ではなく民間地である。米軍が自然を破壊しているというのは坂本氏の認識の誤りである。
        つづく


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