沖縄に米軍基地は必要である。それは基本






新発売・沖縄内なる民主主義8 A4版  148ページ
定価1620円(税込み)

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オスプレイの民間機AW609のデモンストレーション映像を紹介する。360度回転、左移動、右移動、バックが自在である。とにかくすごい飛行機である。新聞社やテレビ局とても欲しい飛行機である。
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沖縄に米軍基地は必要である。それは基本
 
ふと、子供の頃、ラジオからよく流れていた民謡が頭に浮かんだ。「時代の流れ」である。私には一番の歌詞の印象が強く。沖縄を考える基本になった。

作詞 嘉手苅林昌
作曲 花口説(林昌さんの母?)

とーぬゆーからやまとぅぬゆー やまとぅぬゆーから アメリカゆー ひるまさかわたるくぬうちなー

唐の世から大和の世 大和の世からアメリカ世 不思議に世が代わってしまったこの沖縄という歌である。米民政府時代の歌だ。古き良き沖縄とも言える。
唐の世というのは政治、文化が唐の影響が強かった琉球王朝時代で、明治時代に琉球王朝は処分され、沖縄県となり日本の政治、文化が押し寄せたのを大和の世と呼び、戦後米民政府が統治したのをアメリカ世と呼んだ。
ラジオからよく流れているので自然に覚えていった。
一番の歌詞は子供の私にとって理解することはできなかったが、高校生になると沖縄について考える大きなヒントになった。
2番の歌詞からは理解できたし、時代の移り替わりを軽妙に表現しているのがおもしろかった。
「時代の流れ」は戦後の沖縄の近代化をアメリカ世として見て、歌にしている。

二 んかしぇーじんぬさんみんや 'いっくわん にくわんどぅさびたすぃが なまや さんみん までぃかわてぃ
○昔お金の計算は一貫二貫としていましたが今は計算まで変わって
三 んかしぬなーふぁぬ'いちむどぅいん'あっちるわったーや'いちゃびたすぃが なまや'うちょーてぃ'いちむどぅい んかしぬ'うむかじ むるねーらん
○昔の那覇は行き来(交通)も歩いて我々は行きましたが 今は居たまま(乗り物・バス)で行き来して昔の面影はまったく無い。

昔は那覇には歩いて行っていたが今は座って行くとバスの時代になったのをうまく表現している。あの頃は少しでも遠いところならバスに乗っていた。「うちょーてぃ'いちむどぅい」はうまい表現だ。

四 んかし とぅしゅいとぅわかさすぃや ちんぬ 'あやっしどぅかわさびたる なまやさしわかちきらん 'うやっくわ むるっくわ ちゅとぅしんちゅ
○昔お年寄りと若いのは着物の模様だけでもって分別できましたが 今は区別できない 親子も皆子どもみたいに同い年の人 

昔の沖縄は芭蕉布で作った琉球絣を着ていた。絣は機織りを使って多くの家庭でつくっていたという。祖母はかんぷうを結って琉球絣を着ていた。手作りだから品は少なく高かっただろう。
戦後はアメリカ世になり、洋服を着るようになった。どんどん新しい服が増え、華やかになった。
「時代の流れ」は、嘉手苅林昌が若い頃、首里の山川町のバス停でバスを待っていたとき、近くで話していたおばさんたちの井戸端会議が面白くて歌にしたという。
中年おばさんたちが新しい時代に対するケチ付けや皮肉の歌でもある。若い嘉手苅林昌は中年おばさんたちのぐちを苦笑しながら歌にしたのだろう。

五 んかしうぃなぐぬたしなみや からじぬ ながさっすぃ でーびたる なまや んかしとぅ'うちかわてぃ みーとぅーるからじん 'うしつぃみやい パーマネントっし けーつぃじらち まーんかわらん ほーとぅぬすぃー
○昔女のたしなみは髪の長さでしたが今は昔とすっかり変わって生えている髪もばっさり切ってパーマネントにしてちょっと縮らせて どこも変わらない鳩の巣とは

中年おばさんが新しい時代に対するケチ付けや皮肉が込められている。若い女のパーマネントをホウトゥヌシーと言っておばさんたちが皮肉っていたこの話を聞いたのは嘉手苅林昌だけではない。私も聞いた記憶がある。

六 'あどぅだかぐつぐわーやけーくまい 'うんぶいこーぶい 'あっちゅすぃや すっとぅんかわらん かじふちどぅい
○かかとの高い靴をちょっと履いてこっくりこっくりしながら歩いているのは強風の中をフラフラと飛んでいる鳥とすこしも変わらない。

背を高く見せるためのハイヒールを履いても、デコボコの多い沖縄の道ではフラフラ歩く。その様子を「かじふちどぅい」と表現している。沖縄は毎年暴風がやってくる。強い風に飛ばされながら飛んでいる鳥を「かじふちどぅい(風吹き鳥)」と言う。「かじふちどぅい」とは暴風の多い沖縄ならでの表現である。ハイヒールを履いて歩く女性を「かじふちどぅい」に例えているのはぴったりだし、こっけいな歩きが目に浮かぶようだ。

七 タイトスカートけーちやい ちんしーやとぅがらち つぃびまぐらち まーんかわらんしちめんちょー
○タイトスカートをちょっと着て着物の裾を尖らせてお尻皺にして どこも変わらない七面鳥と

タイトスカートとはウエストから腰にかけて体にぴったりした細いスカートのことである。スタイルをよく見せて、男性の関心を引くためにタイトスカート着けている女性を皮肉っている。
  
私の子供の頃は米民政府時代であるが、あの頃はウチナー口が共通語であったし、ウチナーの情緒が蔓延していた時代である。また、日本の文化もどんどん入って来た。私は琉球民謡より歌謡曲が好きだった。島倉千代子の「この世の花」はとても印象に残った。小学6年生の時に赤木圭一郎の大ファンになった。小林旭ファンや裕次郎ファンとどっちがかっこいいか言い合ったこともある。舟木一夫の「高校三年生」は大ヒットした。修学旅行の時は中学生だった私たちは「高校三年生」の歌詞を「中学三年生」に置き換えて歌ったものだ。
「高校三年生」が登場するまでは、歌謡曲は全て大人の歌であり、青少年用の歌はなかった。舟木一夫や三田明、西郷輝彦が青少年用の歌謡曲を歌った。それは新しい時代の始まりを象徴していた。
高校一年生の時にアニマルズの「朝日の当たる家」にはどぎもを抜かされた。バーブ佐竹の「女の心の唄」はとても好きになった。
1960年代は音楽、映画などの変革の時代だった。次々に新しい音楽、映画が登場した。
私はモーニングスターという米人向けの新聞を配達していた。バイト賃の多くは映画観賞に使われた。中学生の頃は日本映画をよく見ていたが、高校生になると洋画を見るようになった。1960年代に青春だった私たちの世代の象徴は「自由」だったと思う。そして、自由を代表する国が米国だった。
学校では校長先生や目上の人には尊敬語を使うように教えられた。戦前は「散歩下がって師の影を踏まず」であったことを先生は繰り返し言った。家では母が学校の先生のようにウチナー口の敬語を教えた。
「食べれ」の敬語はと聞かれて、敬語は「・・・・そうれえ」がパターンだったから、「かみみそうれえ」と言って大笑いされたことがあった。「かみみ」ではなく「うさがみ」が敬語であり「うさがみそうれえ」が正しい敬語たと教えられた。共通語でいうと「食べてください」ではなく「お召し上がりください」ということである。
英語には敬語がないと教えられたが、アメリカ新聞を配達している時、それが事実であることを体感した。アメリカ人の大人は中学生の私に対して上から目線ではなく同じ目線で話しているのを感じた。

私はアメリカ世に生まれ育った人間である。
アメリカ世と言ってもアメリカ文化が沖縄の文化になったということではない。生活も文化の根もウチナー流であり、日常生活はウチナー口を使い、祖母も父も母もウチナーンチュでありウチナーの風習の中で生活を送った。
「時代の流れ」で分かるように、戦後の沖縄は新しい文化がどんどん入ってきた。新しい文化の象徴としての「アメリカ世」があった。それは不自由で差別の強い「ウチナー世」に対して、自由で平等の「アメリカ世」であった。米民政府時代は米軍が沖縄人を搾取したり弾圧するということはなかった。むしろ古い沖縄から解放していったのが米民政府時代だった。
米民政府時代といっても、米民政府の存在を意識することはなかった。なぜなら琉球政府はあるし、政治、生活、遊び、学校などに米民政府の影を感じなかった。
昔も今も問題にするのは米兵の事件・事故であるが、それは生活とは直接関係のないことであった。生活に米軍の圧力があれば反発していたが、事件・事故を理由にして米軍に反発することはなかった。

なぜ。沖縄は唐の世、大和の世、アメリカ世と変遷したのかについて高校生の頃になると考えるようになったことを述べるために「時代の流れ」の1の歌詞を引用したが、ネットで「時代の流れ」の歌詞を検索したら、2番からの歌詞があの頃のことを思い起こしてしまった。私にとって古き良き時代である。
ベトナム戦争のために嘉手納飛行場の爆音はひどく、飛行場を爆破したい思いに駆られることもあったが、爆音以外は米軍の圧力はなく自由であった。活気に溢れていた時代だった。

なぜ、沖縄は唐の世、大和の世、アメリカ世と変遷したのか高校生の頃になると考えるようになった。沖縄が自立したマイペースの政治・経済の歴史ではなく他国に影響を受けて変遷した原因はなにか、どこにその原因があるのか。理由は単純である。それは世界地図を見れば分かる。
沖縄は小さくて政治的にも経済的にも弱い。だから他の国が侵略しやすい。だから、唐の世、大和の世、アメリカ世と変遷したのだ。それが結論である。単純明快な結論であるが、私が沖縄について考える時の基本である。
「ところできみはウチナー島を知っていますか。多分知らないだろうなあ。いや多分ではなくて確実にきみはウチナー島を知らないだろう。なにしろウチナー島は世界地図で見ると砂粒のようなとても小さな島なのだ。世界地図できみはウチナー島を見つけることができないかも知れない」
小説「ジュゴンを食べた話」でウチナー島=沖縄を紹介する時の文章である。小さい、政治力もなければ経済力もない。それが沖縄である。
 戦後は米民政府が統治した。いわゆるアメリカ世である。戦後生まれの私は大和の世を知らない。
 生まれた時からアメリカ兵は隣に居た。2、3歳の頃から隣の家にアメリカ兵がアメリカハーニーと一緒に住んでいた。
 私が通う古堅小学校はトリイ通信施設の隣にあり、西と南は金網に囲まれていた(現在も同じ)。小学校の周囲には4つのを接収してつくられたトリイ通信施設の電波塔が広かっていた。電波塔は百近くはあったと思う。
小学校に入った時にはすでにトリイ通信施設も金網もあったから金網に反発することはなかった。むしろアジア中の情報を集めるといわれていた電波塔が目の前にあることが一種の誇りに思っていた。
 
 高校生の頃にベトナム戦争が激しくなっていった。なぜベトナム戦争をするのか。それは社会主義国家ソ連・中国と米国の対立が原因であった。そのことを高校生になると知った。小学生の頃、第三次世界大戦が起これば沖縄には原子爆弾が落とされて一瞬の内に沖縄はなくなると聞いていた。だから中学生の時にキューバ危機が起こったが、キューバ危機から世界大戦が始まるのではないかと心配した。キューバ危機を回避したケネディ大統領は私にとってヒーローだった。
沖縄は北は朝鮮、南は台湾、フィリピンの扇の要の位置にあるから沖縄に米軍基地が存在していること。中国が台湾を攻撃すれば米軍が中国を攻撃すると宣言し台湾を守っていることを高校生の時に知っていた。
 沖縄の米軍基地はアジアの国々への社会主義国家中国の侵略を防ぐために存在していた。だから、米軍の駐留を私は肯定していた。
 琉大に入ると、ソ連のスターリンが武力で周辺国を社会主義国家にしていったことを知った。そして、社会主義国家圏の脅威を知った。


 復帰前の米軍基地は韓国、台湾、フィリピン等を中国の侵略から守るために存在していると言われていたのに、祖国復帰したら、いつの間にか沖縄の米軍基地は日本防衛のために存在しているということになっている。その考えは間違っていると私は思う。沖縄は東アジアの扇の要の位置にあり、アジアの民主主義国家を守っているというのが正しい考えである。

第二次大戦後に急激に勢力を拡大したのがソ連・中国を中心とした社会主義国家圏であった。この脅威と沖縄の米軍基地は対峙していたのである。
1991年にソ連は崩壊して、多くの社会主義国家が議会制民主主義国家になっていった。しかし、中国・北朝鮮は社会主義国家であり続けている。
中国が共産党一党独裁の社会主義国家である限り、アジアでの民主主義国家対社会主義国家の対立は続いている。


 高校2年生の時、読谷高校の北側にある読谷飛行場のパラシュート降下訓練で降下したジープに少女が圧殺された。抗議集会が喜納小学校であり、同級生に誘われて参加した。
 帰りはバスが満員で乗れないので歩いていると、琉大生が近寄って来て、このような事故を起こす米軍は撤去するべきだと言った。私は、米軍が撤去すれば沖縄を守る軍隊がなくなる。沖縄が侵略された時どうするのだと琉大生に反論した。すると琉大生は沖縄で人民解放軍をつくるなどと言ったが、沖縄だけでつくる軍隊は弱い、沖縄を守れないと私は反論した。話は平行線のまま琉大生とは別れた。あの時の私は、大学生は現実を知らない頭でっかちのアホだと思ったものである。
 
 米軍基地の根本的な問題は日本に米軍基地が必要か否かである。それを考える時に重要なのは中国、北朝鮮、テロ組織の存在であり、基地被害や米兵被害ではない。米軍基地が必要ないと思えば反対すればいいし、賛成ならば被害は覚悟しなければならない。課題は被害をできるだけ出さないようにすることである。
 基地被害や米兵被害をなくすために基地撤去を主張しているのは元々基地反対だからである。

 普天間飛行場の移設問題で、辺野古ではなく本土に移設するとなれば、普天間飛行場と軍人家族の住宅街をつくるために普天間飛行場の二倍の敷地を必要とする。広い敷地を新しく接収しなければならないのだ。県外移設で問題になるのは本土で普天間飛行場建設のために新しく民間地を接収することである。民間地を接収することはできない。それは本土だけではない。沖縄でも新たな土地接収はできない。だから沖縄で辺野古以外の移設場所を検討した時、候補地は米軍敷地内か海上であった。民間地に移設することは沖縄でも検討されなかったのだ。 
本土でも沖縄でも普天間飛行場移設のために民間地を接収することは不可能であることははっきりしている。しかし、県外移設をするには新しく土地を接収しなければならないのが前提であった。だから県外移設は実現不可能であった。鳩山元首相が県外移設を失敗したのはやる前から分かっていたことであり、当然の結果だった。
辺野古移設が可能になったのは米軍基地であるキャンプシュワ内につくることと辺野古区民が移設を容認したからだ。
県外移設が可能であると思っている人も、元海兵隊が20歳の女性を強姦殺人したという報道が全国に流れたのだから、普天間飛行場を受け入れる自治体が現れるのはないと思うようになったと思う。

本当に問われているのは辺野古移設か普天間飛行場固定化の二者択一である。それは普天間飛行場の移設が決まった時からはっきりしていることである。
辺野古移設反対、普天間固定化反対は感情的には主張できるが政治的には主張できない。

 
 大浦湾を汚染しているのはカヌチャゴルフ場
 大浦湾が美しいというのは間違っている。最近の雨で大浦湾が赤土で汚染された。原因は大浦湾の北側にあるカヌチャゴルフ場やウコン畑から大量の赤土が流れ出たからだ。実は、民間地である大浦湾の北側は汚染されている。南側のキャンプ・シャワブ側は汚染されていない。
 大浦湾の景色は沖縄の海ではいいほうではない。それに高い山が西側にあるのですぐに暗くなる。午後の風景はよくない。大浦湾は観光に向いていない。西海岸にはゴルフ場が多い。ゴルフ場で観光客を呼ぶやり方だ。だから、大浦湾の北側にはカヌチャゴルフ場がある。ゴルフ場で観光客を呼んでいるのが大浦湾である。

本土の米兵の強姦・殺人事件は沖縄では扱わない
本土で2005年から2008年の4年間で6件もの殺人や殺人未遂事件があったことがある。沖縄ではそのことを故意に扱わない。

○2005年に強盗殺人事件で女性1名が殺害された。
○2006年の少女2人への殺人未遂事件と、女性2人への傷害事件がおきた。
○横須賀で2008年に米兵によるタクシー運転手殺害事件が起きた。

 事件が起こった時は小さく報道したが、それ以後は無視するというのが沖縄の報道のやり方である。その代わり、沖縄で起こった事件は70年前からの事件をまるで昨日起こった事件のように繰り返し報道する。
沖縄二紙も革新も沖縄に基地が集中しているから本土より事件が多発していることを強調しているしそれを県民に印象付ける努力をしている。だから本土の米兵の犯罪は扱わないようにしている。本土の事件が沖縄で大きく扱われたことはない。

【沖縄の声】共産党独裁・軍事独裁は議会制民主主義になるのが歴史的必然![桜H28/7/1]
2016/07/01 に公開
平成28年6月30日木曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、キャスターの又吉康隆氏が前半「民主主義が”銃”を”票”に代えた」、「共産党独裁・軍事独裁は議会制民主主義になるのが歴史的必然!」、「翁長知事は辺野古より観光危機に集中しろ!」について、後半のコラムコーナー”又吉康隆のこれだけは言いたい”では「準強姦・殺人遺体遺棄・国道逆走事故の検討」のテーマについて解説いただきます。
※ネット生放送配信:平成28年月6月30日、19:00~
出演:又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
※チャンネル桜では、自由且つ独立不羈の放送を守るため、『日本文化チャンネル桜二千人委員会』の会員を募集しております。以下のページでご案内申し上げておりますので、全国草莽の皆様のご理解、ご協力を、何卒宜しくお願い申し上げます。
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