国家の第一は民主主義である。美しさとか品格はまやかしの国家論である。新聞に掲載されている論文を中心に批判する。
品格より民主そして自由
視野の狭い宗教哲学
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宗教学者山折哲夫氏は、ニューヨークの世界貿易センタービルがアルカイダによって破壊された時、ブッシュ大統領が報復を誓った姿を見たとき、復讐の連鎖という悪循環をひきおこさないか、という疑念を誰の心にも呼び起こしたはずだったと述べている。
アルカイダとアメリカ国家の確執は世界貿易センタービルが破壊された時に始まったわけではない。アルカイダによるテロ行為は以前からあり、アメリカ大使館が爆破されて多くの犠牲者を出したこともあった。
ニューヨークの世界貿易センタービルが破壊された日にアルカイダが狙ったのは貿易センターだけではなかった。アルカイダは同時にペンタゴンとホワイトハウスも破壊しようとした。ホワイトハウスは難をまぬかれたが、ペンタゴンは破壊された。
アルカイダはアメリカ国家の破壊を狙ったのだ。国家の破壊を狙った組織を野放しにするわけにはいかない。アルカイダを根絶しないとアメリカ国家の危険はいつまでも続くのだから、あめりか大統領がアルカイダを殲滅させると決心したの単なる復讐ではなく、アメリカをテロから守るという目的があった。
宗教学者山折哲夫氏はアメリカ大統領のアルカイダへの報復を単なる復讐と考え、江戸時代の「上意討ち」と重ねている。「上意討ち」は武士階級が支配していた江戸幕府の体制内でのことであり、江戸幕府が許可した法であり、「復讐を正当化する封建制下の装置の一つ」であった。
アメリカ国家とアルカイダの対立は国家とテロ組織の対立であり、江戸幕府が許可した体制内の「「上意討ち」とは全然違う。アメリカ国家とアルカイダの復讐劇は法が存在しない、力と力の戦争であり、アメリカ国家とアルカイダ和解するか、そうでなければどちらかがつぶれるまで続く問題であり、「上意討ち」とは違う問題だ。
「大統領が天(神)に代わって不義(不正義)を討つと、それこそ天下に向かって宣言したとき、ああ、それはわが武士道の流儀でいえば『上意打ち』のことかと妙に納得した」と山折哲夫氏は述べているが、アメリカは民主主義国家であり、武士のような支配階級はいない。『上意打ち』は武士だけに許された行為であり、武士同士の個人的な怨恨で生じる問題であり、江戸幕府の法の問題である。
大統領は江戸幕府では将軍のことである。江戸幕府の重要な建物が外国のテロリストに破壊されたときの将軍がテロリストを殲滅すると宣言したようなものであり、江戸幕府体制内の法の問題ではない。アルカイダ問題と「上意打ち」とはスケールが全然違う問題だ。
アメリカ大統領がアメリカ国民をテロ行為から守るためにはアルカイダを殲滅するのが最良の方法であり、アルカイダの組織を弱くするにはウサマ・ビンラディン氏の殺害も必要だった。
アメリカ大統領はアメリカ国民に選ばれた人間であり、アメリカ国民の幸福と安全を守るのが使命である。江戸時代の「上意打ち」や敵討ちは個人的な問題であり、アメリカ大統領の責任と行動とは雲泥の差がある。
アメリカ国民に選ばれアメリカ国民の幸福と安全を守る責任を背負った大統領のアルカイダ殲滅と江戸幕府の法である『上意打ち』や敵討ちを同列化するのは、アルカイダ問題を矮小化し、民主主義や中東問題を単なる復讐の連鎖だと矮小化し、「イヤな後口」と浅はかに片付けてしまうだけだ。
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