沖縄差別の原因は沖縄にある1



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県内取次店 株式会社 沖縄教販
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 沖縄差別の原因は沖縄にある1
大阪府警の機動隊員による「土人」発言で沖縄差別問題が再燃した。
沖縄差別を問題にする識者は1879年の琉球処分以降「歴史的に差別が続いている状態」であると言い、沖縄差別は人種差別であるとも述べている。そして、これからの沖縄は本土と対等に向き合い、差別する側の意識を変えることが問題解決につながると述べている。でも、沖縄差別は本当に人種差別であるのだろうか。そして、差別した側にだけ原因はあるのだろうか。差別された沖縄に差別された原因はないのだろうか。沖縄の識者は差別された側の沖縄についてはなんの調査もしていないようである。

大阪での沖縄県民差別があったのは事実である。私の後輩が大阪の会社に就職し、大阪の男性と交際をするようになったが、彼女が沖縄出身であることを知ると交際しなくなった。彼女の話では大阪では沖縄人は差別されていて大阪人とは結婚できないということであった。沖縄人であることだけで結婚しないということが大阪人にあることが信じられないことだったが、事実後輩は差別されたのである。彼女は高卒である。私の時代の高校生は共通語を使い、ウチナー口は聞くことはできても話すことはできない女生徒が多かった。後輩は演劇クラブにいたから共通語は他の女生徒よりいい方たった。
大阪は沖縄より文化が発展しているし人間は平等であるという思想は沖縄より浸透していると思っていた私は沖縄にはない差別が大阪にあることに驚いた。これは50年近く前のことである。 
なぜ、沖縄人が差別されるのだろうか。原因として考えられるのは沖縄人はウチナー口を使うことであった。ウチナー口は本土の人には分からない。ウチナー口で話していると朝鮮人に間違われたという話は何度も聞いたことがある。
私の中高時代は本土への集団就職の時代だった。高校進学をしない生徒のほとんどは集団就職をした。高校が少なかったからクラスの三分の一は本土就職組だった。本土就職組の多くの生徒が学校の成績は悪く、共通語が下手だった。共通語を話せない生徒も居た。中学三年までの九年間学校に通っていたらみんな共通語を使えるようになっただろうと思うかもしれないがそうではなかった。
戦後間もない頃に生まれた私たちは家ではウチナー口だけを使っていた。共通語を知らなかった。幼稚園で初めて共通語を習った。ウチナー口のほうが自分の考えを話しやすい。特に感情はウチナー口のほうで話した方がいい。私たちが共通語を覚えていなかったので幼稚園の時から先生は共通語の教育をしていた。共通語教育はいつも当たり前のようにやっていたので記憶に残っていないが、小学三年生の時のある授業だけは大笑いしたので覚えている。
野菜について共通語ではなんというかの授業あった。先生がウチナー口で野菜の名前を言い、生徒たちに共通語で答えさせた。先生が「ナンクワァーは」と言うと私たちは「かぼちゃ」と答えた。ゴーヤーは苦瓜(にがうり)、デークニは大根、ウージはさとうきび、シブイは冬瓜等々。分かった生徒が手を上げて答えて、正しければ先生が正しいといい。野菜の説明をした。
先生が「チュブルは共通語でなんと言いますか」と言った時、誰も答えることができなかった。チュブルを栽培している家は少ない。だからチュブルという野菜を知らない生徒も居て、誰も答えなかった。私の友達の家の中で一軒だけチュブルを栽培していたので私はチュブルを知っていたし共通語の名も前を知っていた。私が手を上げようとした時に別の生徒が手を上げた。先生が生徒を指すと生徒は「あたま」と言った。「あたま」と言ったので笑いが起こった。
実は「チュブル」は野菜の名前だけでなく「頭」のことでもある。しかし、野菜を頭とは言わないだろうと予想して、誰も答えなかったが、単純な生徒が単純に考えて「あたま」と言ったのである。それで笑いが起こったのだ。野菜の「チュブル」は「夕顔」のことである。ウチナー口の「チュブル」は頭と夕顔の二つの共通語がある。
学校の授業、童謡、歌謡曲、ラジオなどの影響で私たちは次第に共通語を覚えていくようになるが、それらのものに関心がない子は共通語を覚えるのが遅かった。

私の友人で中学を卒業した後、大阪や名古屋で働いた大城という人間がいたが、大城は彼の父親が琉球民謡をやっていたので琉球民謡に興味があり、中学生の時には三線を練習していたそうだ。だから共通語よりも民謡のウチナー口に興味があり共通語はそんなに理解していなかった。彼は名古屋の印刷屋に就職したが、最初の頃は社長や伊佐月会を教える指導者が話していることが理解できなくて苦労したそうだ。しかし、一年過ぎると名古屋弁に慣れていったという。
大阪で居酒屋でウチナー口で話していると朝鮮人に間違われて、外に出されたことがあったということも聞いたことがある。
沖縄が差別されるのはウチナー口や隣近所の迷惑も考えないで三線を弾いたりしたことが原因だろうと思った。しかし、私の後輩は共通語を話していたし言葉のハンディはなかった。それなのに沖縄人であることで結婚ができないというのは納得できなかった。沖縄差別の原因は、沖縄は遠い南の島であり文化の遅れた野蛮人とみられているのかも知れないと思ったこともあった。
しかし、それでも疑問は残った。沖縄差別について本格的に取り組めば図書館に行き資料を集めなければならないし、大変な作業になる。大変である。大変であるが、その前に沖縄差別について真剣に取り組む気はなかったので調べることはなかった。それに大阪で結婚した女性が居ることも知ったので、沖縄差別は一部の特別に沖縄を嫌っている人がいるからだろうと思うようになった。

 1879年の琉球処分以降、歴史的に沖縄差別が続いているということが時々新聞に載ったりした。沖縄が差別されていると沖縄の識者が主張し続けた。そのことは知っていた。しかし、明治維新は四民平等と法治主義を掲げて誕生した。、沖縄の農民は明治政府によって琉球王府から解放されたのであり、四民平等を掲げた明治政府が沖縄差別をするはずがないという確信はあったので、沖縄の識者のほうが間違っているのだと歴史を歪曲している彼らの主張に苦笑していた。。

 高江の機動隊による「土人」発言から沖縄差別問題が再燃した。大阪警察が沖縄差別していると言い、本土の沖縄差別を識者たちが主張していった。以前の私ならまたかと苦笑しただけで無視していたが、「沖縄内なる民主主義」を出版し、沖縄の識者や政治家批判をしている現在はそういうわけにもいかない。徹底して批判しなければならない。また、そうすることが彼らによって歪曲された沖縄の歴史を正すことにもなる。

ネットで調べていくと、復帰前の一九六三年に出版された比嘉春潮、霜多正次、新里恵二共著の『沖縄』に沖縄差別は日本政府による沖縄差別であると述べてある。
 
 一八七一年(明治四年)、明治政府は廃藩置県を断行する。次いで一八七五年(同八年)、明治政府は琉球藩王に「清との関係を断て」「明治の年号を使い、年中儀礼はすべて日本の布告にしたがえ」「謝恩のため藩王みずから上京せよ」などの要求を突きつける。これに琉球藩が抵抗すると、政府は歩兵大隊約四百人、警察官百六十人を従えた琉球処分官を派遣し、琉球藩を廃し沖縄県を設置する旨の太政大臣命令を伝達する。一八七九年(同十二年)のことである。これが、いわゆる「琉球処分」で、琉球王国は力づくで日本国に併合されてしまった。

 沖縄県に対する政府の強圧的な姿勢は、その後も続き、本土の各県とは比べものにならぬ差別政策がとられることになる。官僚はほとんど本土出身者を充て、諸制度の近代化も本土のようには進めなかった。このため、沖縄の近代化は著しく遅れた。
 政府による沖縄に対する差別は、本土の一般人の沖縄県民を見下げる態度につながった。比嘉春潮、霜多正次、新里恵二共著の『沖縄』(岩波新書、一九六三年)

 復帰前の一九六三年に出版された「沖縄」による沖縄差別論が今も沖縄識者の定番となっている。この差別論には琉球王国の身分制度を排して四民平等の沖縄社会をつくっていこうとした明治政府を理解していないところにある。明治政府は封建社会の江戸幕府を倒して近代社会を築いた。沖縄でも琉球王国を倒して四民平等の沖縄にしようとした。それが琉球処分であった。明治政府による沖縄の近代化政策を理解できない沖縄の学者たちの沖縄差別論である。はっきり言えば彼らには民主主義思想はない。だから琉球王国と明治政府の違いを理解していない。
 琉球処分は琉球王国処分であって琉球=沖縄処分ではなかった。だから明治政府による沖縄差別ではなく近代化であった。この近代化を沖縄差別を主張する識者や政治家は理解していない。
ただ、大阪では実際に沖縄差別は起こった。一部ではなくかなり広い範囲で沖縄差別はあった。ネットで調べていくとそれが分かってきた。それには大正区が関係する。大正区は沖縄の縮図と言われていている。学生の頃に大正区にいったことがあったが、大正区にはウチナー口が溢れていて、飲み屋ではみんなウチナー口だった。大正区ではウチナー口が通用するという噂は聞いていたが、その通りだった。本土で自由にウチナー口が使える世界があることに嬉しくなって、私はウチナー口で思いっきり話した。
琉大では共通語だったし、那覇市内のスナックなどでも共通語で話した。ウチナー口が使われなくなっていった沖縄に比べて大正区にはウチナー口が満ち溢れていた。大正区には言葉だけでなく沖縄の生活習慣も根強く残っていただろう。しかし、それが沖縄差別に深く関係したのである。大阪で沖縄差別があったことは事実である。琉球処分は沖縄差別ではないが、大阪で起こったのは紛れもなく沖縄差別であった。しかし、沖縄差別は政府や大阪府による政治的な差別ではなかった。民間で起こった沖縄差別だった。

 大阪府警機動隊の「土人」発言は左翼の政治家や識者は沖縄差別であると非難しているが、過去の大阪の沖縄差別は警察が沖縄人を差別したのではなく大阪市民が沖縄人を差別したのである。沖縄差別問題は政治の問題ではなく市民生活で生じた問題である。それを政治問題にしようと沖縄差別を隠ぺいしているのが沖縄の左翼政治家や識者たちである。沖縄差別は戦前に起こったが、それは政治というより大阪住民と沖縄人の問題であった。大阪住民と沖縄人の意識や生活習慣の違いが沖縄差別を生んだと言える。
江戸時代から大阪は商人の町と言われるくらいに商業が発展した場所である。沖縄はさとうきびを中心とした農業の島であった。商売の町に農業しかしらない沖縄人が昭和初期に大量に移住した。
 「郷に入れば郷に従え」という諺かあるが農業で生きていた沖縄の人間はそのような諺を知らなかったし、大阪に住むための教育も受けないで大阪に移住した。県が計画的に移住させていれば沖縄差別は起こらなかったかもしれない。しかし、昭和初期の頃に沖縄ではソテツ地獄に襲われ、沖縄で生活できなくなった人々は県外に移住した。その数は県人口の10%をはるかに超えた7万人であった。大阪にも多くの沖縄県民が移住した。彼らは本土で生活するのに必要な教育を受けないまま移住した。それが原因になって沖縄差別が起こったのである。
 
 戦後になっても本土の人間と沖縄の人間の違いでよく言われたことが「ウチナータイム」である。沖縄の人間は会う約束した時間に必ず遅れてくる。そのことを「ウチナータイム」と言った。沖縄の人間のルーズさの象徴としてよく言われたことである。沖縄人のルーズさはもっとたくさんある。

 私が学生の時、早稲田大学を卒業してから、国語の教員免許を取る目的で琉大に入学した鈴木という人が居た。彼に沖縄に来て困ったり悩んだりしたことがあったかを聞いたことがあった。すると鈴木は沖縄の学生は借りたお金や本を返さないことに困ったし、なぜ返さないのか理由がわからないで悩んだと言った。私は彼の話を聞いて驚いた。私たちの間ではそれが常識だったからだ。私は集会やデモに参加した時には女学生から25セントをよく借りた。25セントあればタバコを買いカレーライスを食べることができたからだ。返すつもりのない借金だった。大金を借りて返さないということではない。少額のお金だから、借りても返さなかったということである。学生だからそのくらいはいいじゃないかと思っていたが、鈴木は借りたお金は少額でも返すべきであると言った。鈴木の話を聞いた時、東京は気楽には生きていけない窮屈な世界だと思ったものである。
本の貸し借りはよくやった。鈴木の指摘した通り借りた本は持主が「返せ」と言わない限り返さなかったし、貸した本を再び読みたいと思わない限り「返して」とは言わなかった。
 お酒を飲む時に、私たちにはワリカンという考えはなかった。金がある学生が金をだせばいいという考えだった。
 私たちの習慣に東京からやってきた鈴木は困り悩んだのである。
東京に40年近く住んでいた同級生にこのことを話すと、「東京では借りたお金は利子をつけて返す。借りた金を返さないの東京で通用しない」と言った。
鈴木と私たちの違いは東京と沖縄の違いであるし、それは東京の歴史と沖縄の歴史の違いでもあるだろう。
本土と言わないで東京と言ったのは他の地方では沖縄と似ている地域がある可能性があるからである。沖縄差別は大阪で起こったのであり他の地域では起こっていない。だから本土全域で沖縄差別があったとは言えない。他の地域でも沖縄差別はあったかも知れないが大阪のように規模が大きい沖縄差別はなかっただろう。あったとすれば私たちの耳に届いているはずだ。大阪では私たちの耳に届くような沖縄差別はあった。その事実と原因を解明していこうと思っている。それは沖縄の歴史を知ることにもつながる。

沖縄は亜熱帯であり温帯で春夏秋冬と季節が変わる本土に比べてのんびりしているから、その性だろうと軽く考えていたがが、そういうわけにもいかない状況が沖縄にあった。沖縄の識者や政治家による本土の沖縄差別論がある。もう沖縄差別論は学問と呼べる段階である。以前なら下らん沖縄学者の理屈だと無視していたが、「沖縄内なる民主主義」を出版している現在は無視するわけにはいかない。沖縄差別論が沖縄の歴史も政治も経済も知らない沖縄の学者や識者たちの戯言であることを証明しなければならない。
それには琉球王朝時代に遡らなければならない。沖縄の琉球王国の歴史ではなくて下層の農民の歴史を知らなければならない。それこそが沖縄の本当の歴史である。
琉球王国時代には地割制度で農村は支配されていた。この地割制度が大阪の沖縄差別に深く影響している。

薩摩藩による侵攻が行われた1600年代初めの琉球王国の人口は約10万人であった。薩摩藩に支配された頃に沖縄の農業で大きな変革があった。変革の立役者が野國總管と儀間親方真常である。
農民が干ばつなどで苦しむのを見てきた野國總管は、1605年に、明代中国(現在の福建地方。福州市あたりか。福州市は琉球王国時代から交流があった。)に渡った際、現地の人物から蕃薯(ばんしょ。今で言うサツマイモ)を教えてもらい、鉢植えの苗を持って同年のうちに帰国して野国村で試作した。
悪天候に左右されない蕃薯は土地によく根付いたことから、村の農民に広められ、これによって餓死など凶作による村人の災難は防がれた。
野国総管が蕃薯の苗を持ち帰ったことを聞きつけ、野国総管から栽培法を学び、以後、琉球各地に広めたのが儀間親方である。蕃薯を沖縄では唐芋(からいも)と呼んでいたが、琉球から薩摩藩に渡り、薩摩藩から広まったので今はさつま芋と呼んでいる。
さつま芋は米などの他の野菜のように収穫時期は決まっていない。亜熱帯の沖縄では年中収穫できる。それに痩せた土地の方がおいしい芋ができるし、土を肥やしていく性質を持っている。だから、土の養分を吸い取るさとうきびと土の養分を肥やしていくさつま芋とはいいコンビであり、交互に植えていった。
さつま芋は暴風にも強かったから沖縄の飢餓を救った作物である。中国からさつま芋を持ってきた野國總管を讃える祭りが嘉手納町で今も行われている。

砂糖の製法を沖縄に伝播したのが儀間親方真常であった。さつま芋とさとうきびは沖縄農業の二大作物である。その二つを広めたのが儀間親方であった。彼はさつま芋で沖縄農民の命を救い、砂糖で沖縄経済を発展させた偉大な人物である。

沖縄の人口は1700年代初頭には約15万人になり、1700年代中頃には約20万人と増加していった。人口増加にさつま芋が大きく貢献しただろう。しかし、1771年に発生した明和の大津波によって、当時の八重山列島の人口の3分の1に相当する約1万人が死亡した。さらにこの頃の琉球各地では台風や大雨、干ばつによる飢饉の流行が度重なった。それらの災害により、1800年代初期の人口は15万人へと減少した。

砂糖は沖縄農民の豊かさには貢献しなかった。琉球王朝の豊かさに貢献した。砂糖は全て琉球王国へ献納しなければならなかったからだ。農民は砂糖を舐めることさえ禁じられていた。琉球王国は本土や中国に砂糖を輸出して富を得た。

封建社会は農民が搾取される社会である。沖縄の農民は薩摩藩と琉球王府に二重に搾取されていた。
薩摩藩に支配されていた琉球王府は、
年貢   9000石
芭蕉布  3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ  3800枚
牛皮   200枚
以上の品々を薩摩藩に毎年献納しなければならなかった。その負担は琉球王府が負ったのではない。琉球王府は支配者として贅沢三昧の生活をしていた。薩摩藩への莫大な献納を負わされたのは農民である。薩摩に支配された琉球の農民は重税に苦しんだ。吉屋チルーのように遊郭に売られていく子供は後を絶たなかった。
こんな説明をすると沖縄の農民は極貧に苦しみ暗い生活を送っていただろうと思ってしまうが、そうではなかった。極貧を極貧とは感じなかっただろうし、それなりに楽しんで生活を送っていた。そのことを予想できるのが地割制度である。
地割制度というのは山林・原野を共有することである。耕作地は数年から数十年のスパンで割り替えられた。
現在残っている地割制度の畑である。


南城市久高島の地割制度の名残りを残す畑(「読谷バーチャル平和資料館」より

 写真で分かるように大きな畑を小石で分けている。分けられた小さな畑が一家族の畑ということである。久高島だから小さいのだろう。本島ならもっと大きかったと思う。畑の大きさは家族の人数に合わせたと思う。
 地割制度の畑は隣合わせになり、毎日顔を合わせていただろう。そして、収穫が早い農民は他の農民に分け与えていたに違いない。
地割制度では他の村と交流を禁じていた。結婚する相手も同じ村の人であった。
 沖縄の村々は他の村との交流が禁じられていたから言葉はそれぞれの村で違っていった。その名残は戦後でもあった。同じ読谷村であっても楚辺と私たちの村の発音は違っていた。冷たい水を私たちは「ヒジュルミジ」と言ったが楚辺は「ヒグルミギ」と言っていた。
 沖縄民謡に「せんする節」というのがあるが、「せんする節」はそれぞれの村の言葉の違いを歌った歌である。「私はある村の誰々であるが、村の言葉は面白い」と歌った後にその村の言葉で話すのである。発音もアクセントも違う言葉に面白さがある歌である。子供の頃よく聞いていた。最近ユーチューブで聞いたが、メロディーは同じだが、子供の頃に聞いた村とは別の村のことばを取り上げていた。
今までは村々の言葉が違う原因は、昔は交通が発達していなかったから村と村の交流が少なかったので言葉が違っていたと思っていたが、それにしても言葉の違う村が多すぎる。その原因が地割制度による他の村との交流を禁じていたからだと知った。

村は一つの家族のようなものであった。だから、お互いに作物を譲り合ったりしていたし、家も部落住民が共同して作った。日常生活に必要な物は村でつくって譲り合っていたのである。
 昔の沖縄の農民には私有意識がなかった。資産は村みんなのものであったから私産というものがなかったからだ。だから土地の売り買いはなかったし、財産の売り買いもなかった。
商業の始まりに物々交換があるが、地割制度の村では譲り合いが普通であり物々交換という考えもなかっただろう。譲り合いの心は素晴らしいように見えるが、私有財産の意識がないということは頑張って自分の財産を増やしたいという欲望が湧かないから生産意欲が湧かないことになる。他の家族より裕福になりたいと思う気持ちが湧かないから地割制度の村では競争意識も生まれなかった。だから生産が発展するということもなかったのである。

 地割制度について調べていくうち驚いたのは、地割制度の村が共産社会であるということだった。共産主義とは会社や土地を私有している者が労働者や農民を搾取する。だから資本や土地の私有をなくして資本家や大地主の搾取をなくし、搾取のない社会をつくるというのが共産主義である。モーガンという学者がアメリカの昔のインディアンには共産社会だった時代があったと書いていて、それを原始共産社会といった。どんな社会なのかイメージすることができなかったが、地割制度の村について調べていく内にその村が原始共産社会であることが分かった。
 地割制度は首里王府が農民を支配するシステムとして採用したが、薩摩藩による侵攻が行われた1600年代初めの琉球王国の人口は約10万人であった。第一尚氏王統の尚巴志王が三山統一したのは200年近く前の1429年であるから人口は恐らく7、8万人であった思われる。王府が禁止しなくても村と村の交流は少なかっただろう。村はそれぞれが独立していて地割制度に近い原始共産社会のようなものであったと思われる。
 沖縄だけでなく、世界の歴史でも村の誕生は原始共産社会であっただろう。日本でも大和朝廷時代の村々は琉球王府の頃の村と似ていなかっただろうか。

 原始共産社会に似ていた沖縄の村社会は贈与し合う贈与互酬経済のシステムであった。村人たちは私有資産、家族資産という概念がなかった。地割制度の村社会で重視されたのは、蓄えることではなく分け与えてみんなが協力し合うことだった。琉球王国時代の農村は相互に贈与し合うことによって、共生できたのである。だから、例え、極貧であっても不幸とは思わないで生きたのである。

明治政府になると地割制度は廃止され、私有財産制の社会になるが300年近く続いた地割制度による贈与互酬の精神は明治以降も沖縄の農民には続いた。そのエピソードがある。

 戦前は沖縄から多くの少女が紡績工場の女工として本土に渡った。他県の女工と沖縄の女工とは家への仕送りのやり方が違っていた。
「それでも、みんなが不思議がっていたよ。何で、あんたたち沖縄の人は、自分が汗水たらして儲けたお金全部家に送るかって……。うん、女工みんなの分は会社が天引きして送りよったけど、沖縄の人は手取りからも送りよったよ。わたしも、カマダ姉さんもせっせせっせとお金を送ったさ。二人とも競争するみたいにしてよ。姉さんが二円送ったと言えば、わたしはおやつ買うのも切りつめ切りつめして三円送ろうとしてね。そのうちに、親も楽になってきて、屋敷を買い戻す、田畑買うして、自分たちの財産を少しずつだけど取り戻していってね。一回に十円でも送るとよ、シマじゅうでパッと評判になって、どこそこの娘は偉いって。わたしたち姉妹もシマじゅうでよく送金する孝行娘っていって、親たちはうらやましがられていたってよ。
(比嘉道子「クワディーサー賛歌」)
 この文章を読んだ時、沖縄少女の純真に思わず涙を流した。那覇の港から少女たちを送る親は「手紙はいいから、お金を先に送って」と言ったというのを子供の頃から聞いていた。それは沖縄の貧しさを表し、少女たちは家の貧しさを助けるために女工になったということが分かるのが「手紙はいいから、お金を先に送って」だった。
本土という新しい世界に行って自分の夢や希望を実現するという気持ちは少女たちにはなかった。ただただ家の貧しさを救うのが彼女たちの夢であり希望であったのだ。
 このことを知人に話したら戦後も似たようなことがあったと言った。パンパンは収入を全部親に送っていたというのである。パンパンというのはアメリカ兵と同棲している女性のことである。米民政府は売春を禁じていたから、米兵相手の売春宿は沖縄にはなかった。だから同棲をして現地妻として米兵からお金をもらうのを商売にしていた女性たちが居て、彼女たちをパンパンと呼んだ。米兵と恋をして同棲をした女性も居たと思うが、知人の話ではほとんどは商売として米兵と同棲していたという。私の家の隣で家を借りていた女性も確実にパンパンであった。彼女は10年以上も隣の家に住んでいたが2、3年ごとに相手の米兵が変わっていった。

 小学6年生の時にきいた担任の教諭の女工の話である。
教諭が少年の頃、隣の家に大好きなお姉さんが居た。彼女は紡績工場に働きに行った。帰って来たときは肌が透き通るように白くなっていたそうだ。教諭は本土に行くと色が白くなって美人になるんだととても喜んだ。しかし、お姉さんは数年後に死んだ。彼女は紡績工場で働いたために肺結核になっていたのだ。教諭の死んだお姉さんの話は印象に残った。そして、紡績工場では多くの女工が肺結核で死んだことを知った。

 20代の時に、我如古より子の「女工節」が出た。沖縄民謡はリズミカルで楽しい歌が多い。ところが「女工節」は女工の気持ちをリアルに表現していた暗い歌だった。琉球民謡は好きではなかったが「女工節」は強烈に惹かれ好きになった。カラオケでもよく歌った。
 
女工節
歌 我如古より子
補作詞 我如古 盛栄

一、親元ゆ離り大和旅行ちゅし 淋しさやあてぃん 勤みでむぬよ
○親元を離れ本土に旅すること 寂しさはあっても務めであるからよ
ニ、友と別れたし島の村はじし 親とわかれたし那覇の港よ
○友と別れたのは故郷の村はずれ 親と別れたのは那覇の港よ
三、那覇までや我島 船乗りば大和 何時が銭儲けて我島帰ゆらど
○那覇までは私の故郷 船に乗れば大和 いつになったらお金を稼いで私の故郷に帰るだろうか
四、大和かい来りば 友一人居らん 桜木にかかてぃ我んや泣ちゅさ
○本土に来ると友達は一人も居ない。桜の木に(寄り)かかって私は泣くよ
五、照る月に向かてぃ 眺みゆる空や 島ぬ面影ぬ勝てぃ立つさ
○照る月に向かって眺める空(又は、身空)には 故郷の面影が強くって(浮かび)立つよ
六、ガラス窓開きてぃ 歌小あびたしが 聞かりゆみアンマ 我身ぬ歌声よ
○窓を開けて歌を歌ったが 聞こえるかしら?お母さん 私の歌声が
七、紡績やアンマ 楽んでぃる来ゃしが 楽や又あらん 哀りどアンマ
○紡績は、お母さん 楽だと言って来たけれど 楽ではないよ 辛いんだよ お母さん

 少女にとって女工として働く場所は内地でもなければ本土でもない。大和である。戦後生まれの私たちは日本の教科書を学んできたし、祖国復帰運動が盛んであったから祖国から切り離された沖縄というイメージがあり、祖国、本土、内地というイメージがある。私たちには大和というイメージはない。しかし、戦前の沖縄の村で生まれ育った少女にとって本土は大和である。彼女にとって本土は見知らぬ不安が一杯の外国なのだ。
 「那覇までや我島 船乗りば大和」の我島を故郷と訳しているが、故郷という訳は適当ではない。意味としては故郷になるが、女工の気持ちとは違う。島の周囲は海である。なにもない。それが島である。沖縄では、
「お前の故郷はどこだ」とは聞かないで「お前の島はどこだ」と聞く。子供の頃、大人にそう言われた時、違和感があった。私は読谷村の比謝に住んでいて、比謝は海に囲まれた島ではない。なぜ島というのか理解できなかった。
昔は地割制度のために村から出ることを禁じていたから、村の外は海と同じである。少女から見れば村が島のようなものである。村を出て、那覇まではなんとか島=国であるが海に浮かぶ船に乗った瞬間に外国である。少女は船に乗って大和にいくのではなく、船に乗った瞬間から島以外の世界に入った気持ちである。外の世界とは彼女にとって大和である。だから、少女は大和と言ったのである。少女の島から離れていく悲壮な気持ちを表現している。
島には国というニュアンスも入っている。だから我島は私の国という訳もできる。沖縄は日本の一部であるといういう観念がない彼女にとって我島は私の国であり本土は本土ではなく大和である。地割制度は村から出ることを禁じていたし他の村との交流も禁じていた。だから、村は規模は小さいがある意味で国のようなものであった。彼女の我島というのはそういうことからくる国意識である。原始共産社会に近い沖縄の村は少女には住み心地のいい場所であっただろう。
 
 さとうきびもさつま芋も育てるのに手間暇がかかるものではない。さとうきびは夏に枯葉をとるだけでいい。さつま芋も植えた後はたまに雑草を取るくらいである。農民は貧困ではあるが時間的な余裕はあった。
 村の人たちが集まって歌や踊りで楽しむのをモウアシビーと言った。沖縄の農民はモウアシビーが好きだった。それを盛り立てたのが三線である。
三線は14世紀に中国から渡ってきて15世紀なると琉球王国で独自に発展していった。沖縄の音楽は古典と民謡がある。二つとも三線は必要である。古典は王宮で歌われた高貴な歌であり、民謡は農民たちが歌ったはやり歌である。本土の民謡は歌い手と聞き手が分かれていて、歌は本格的に訓練を受けた歌手が歌っているし、三味線や尺八、太鼓などが加わって高度である。しかし、沖縄の民謡は三線だけを伴奏にして歌う。メロディーはリズミカルで曲は短い。短い曲を繰り返して歌い、誰でも歌えるのが沖縄民謡の特徴だ。
本土に行った沖縄県民は借家や公園に集まって歌ったり踊ったりして楽しんだ。それはモウアシビーの延長であり、三線ひとつあればモウアシビーはどこでもできた。
 私は一年前から三線を習っているが、三線はメロディーに少しだけ伴奏を加えた演奏であり、ギターやピアノより覚えやすい。三線を弾いたことのない年配の主婦でも楽しく覚えられるのが沖縄民謡の三線である。そして、三線を弾きながらみんなで歌って踊って楽しむというのが沖縄民謡である。
祝節という曲に「かりゆし遊びヨ うち晴りてぃからやヨ 夜ぬ明きてぃ太陽ぬヨ 上るまでんヨ」という歌詞がある。かりゆし遊びは夜通しで飽き足らず、夜が明けて太陽が昇るまでやるというのである。かりゆしとはめでたいという意味である。昔の農民は歌や踊りで夜明け通し楽しんだ。
本土の他の地方からも大阪や東京など都市に移住した人たちは多い。しかし、沖縄県民のように県民が集まって歌や踊りで楽しむことはなかった。それは三線一つの楽器ひとつでモウアシビーのように楽しむ習慣がなかったからだろう。

地割制度の社会には競争意欲が育たない。だから生産効率が悪かった。首里王府は地割制による地力の低下を重視して、1734年に最後の地割と配当地の永久保有をやったが、その後も各地の地割慣行を停止させることはできなかった。こうした点からいって沖縄の地割制は、幕藩制期の本土の政策的な地割制にくらべて、共同体的な性格のきわめて強い制度だったということができる。本土の場合は生産を高めるための政策を実施できたが、沖縄では王府の政策でも農民は共同意識が強くて通用しなかったようである。しかし、農村の共同意識も明治政府によって変えられる。

 明治政府になると地割制は1899―1903(明治32-36)年の土地整理事業によって廃止された。沖縄の経済システムが大きく変化した。
 沖縄の学者は明治政府による琉球処分は琉球王国を力づくで日本国に併合したと言い。明治政府は沖縄に対して差別政策を取って本土のような近代化は進めなかった。そのために沖縄の近代化は著しく遅れたと述べている。沖縄の近代化が遅れたのは中央政府の差別が原因であるというのが沖縄の学者たちの定説となっているが、それは間違いである。明治政府は本土と同じように沖縄の近代化を進めていった。本土でも近代化が進んだ地域もあればおもったほど進まなかったところもある。本土ぜんたいからみれば近代化が進んだと言えるのであって本土の全域が近代が進んだのではない。沖縄と同じ農村地域の近代化は進まなかった。だから本土でも農村から多くの男女が工業・商業地帯に移った。本土全体と沖縄を比べることは学者として失格である。
 
 明治政府の近代化に同調し、なんとか沖縄の貧しさを救おうとした人物が居た。移民の父として有名な當山久三である。當山久三は1868年(同治7年)11月9日、當山家の長男として琉球王国金武間切(現在の沖縄県金武町)並里に生まれた。久三は沖縄師範学校に入学。他の学生らと髷を切るなどして古い風習を絶ち、文明開化の先頭に立つ人間であった。
 師範学校を卒業して羽地尋常小学校の教師になるが、沖縄出身者に差別的な態度をとる本土出身の校長との間に不和が生じ、赴任からわずか2年で羽地小学校を退職した。その後、地元の金武小学校に首席教員として迎えられたが、役所や本土出身の同僚との間に軋轢が生じ、自ら首席教員の職を辞した。
 教壇を去った久三は、地元・並里の総代(現在の町議会議員と区長を兼ねた役職)に就任した。給料は教員時代の14円から4円に激減したが、熱心に村の改革に取り組んだ。しかし、村民の中には、改革者・久三をおそれ、中傷したり暴行を加えたりする者もあった。これらの一部村民に辟易した久三は、総代を辞め、一人で山にこもり晴耕雨読の生活にふけった。このころから海外移民事業について考えはじめていた。

上京した久三は古本屋で『植民論』という一冊の書籍に出会った。その本は「移民」に関する本だった。むさぼるようにこの本を読んだ久三は、沖縄の食糧・人口問題解決のためには海外移民事業が必要であるとの確信に至った。このころ謝花昇と知り合い、互いに意気投合。2人は1899年(明治32年)に帰郷した。

沖縄に帰った久三と謝花は、ともに同志をつのって政治結社・沖縄倶楽部を結成し、機関紙『沖縄時論』を発行するなど自由民権運動に関わっていった。しかし、やがて久三の情熱は、かねてからの関心である海外移民事業に向けられていった。

久三は奈良原繁知事に、海外移民事業の許可を懇願した。再三の要請にもかかわらず、奈良原知事ははじめ久三の願いを聞き入れなかったが、粘り強く交渉を続けた結果、海外移民事業の実施を条件付き(移民たちの手紙は郡長をとおして知事に見せること、金武間切だけでなく県内各地から移民を募集すること)で許可した。

久三は1899年(明治32年)に沖縄初の海外移民30名を那覇港からハワイに送り出すことに成功した。
第1回ハワイ移民は、帰郷するなり立派な家や田畑を買ったため、県民の間に「移民は儲かる」という評判が流れ、第2回ハワイ移民には申し込みが殺到した。1903年(明治36年)、第2回ハワイ移民団は沖縄を出発した。久三はこのとき移民団に同行した。
ハワイへの移民は移民というより出稼ぎである。家族でハワイに渡り、農場で何年か働いてお金を儲けたら沖縄に帰るというのが基本パターンであった。沖縄戦の時に多くのハワイ帰りの人たちが登場するが、原因はハワイ移民はハワイに永住するのではなく、お金を稼いだら沖縄に帰っていたからだ。移民の中には永住する家族も居ただろうが、永住ではなく出稼ぎ目的の移民であった。

當山久三は沖縄の貧しさを移民によって解消しようとした。久三は1909年(明治42年)、沖縄県で初めて行われた県議会議員の選挙に国頭郡から立候補し、トップ当選を果たしたが、このころから病気がちになり、翌1910年43歳の若さで死去した。


明治政府は本土で1874~1880年((明治7~明治13年)に行った地租改正に相当する土地整理を沖縄でも1899(明治32)年にはじめ、1903(明治36)年に終了した。

地租改正
江戸時代までの貢租は米による物納制度であった。物納制度土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせたのが地租改正である。

土地整理の要点、
1、地割制度のもとで使用していた土地をそのまま個々の農民の私有地と認める。
2、土地所有者を納税者とする。
3、物品納や人頭税を廃止して、地価の2.5%を地租として納めさせる。
4、物品納や人頭税を廃止して、地価の2.5%を地租として納めさせる。

 琉球王国時代の地割制度では米、砂糖、芭蕉布など生産物を村全体で王府に納めていたが、地租改正による土地整理ではお金を個人で政府に治めた。明治政府は畑は共有から個人の所有にし、王府に献納していた砂糖は農民の物とし、砂糖で得たお金は農民が自由に使えるようにした。そして、他村との往来を自由にしたし、本土や外国への移住も自由にした。このように沖縄の農民を自由にしたのが明治政府であった。 

土地整理は農民の生活に大きな変化をもたらした。これまでは一方的に土地を割り当てられ、耕作を強制され、物納を強いられていたが、改革後は農民自身が土地を所有し、税金をおさめることになった。唯一の換金作物であるサトウキビ栽培は普及していったし、明治政府もさとうきび生産に尽力した。
 しかし、それでも多くの農民は納税に苦しみ、借金が増えて土地を手ばなす農民も増えていった。農民の間には格差が生じ、所有地のない農民は雇用農民として働くか、もしくは県外への出稼ぎや海外移民へ目を向けざるを得なかった。 
家の貧しさや親の借金を返済するために多くの少女が本土の紡績工場に女工として就職していった。
家の貧しさのために紡績工場の女工になったのは沖縄だけではない。日本の多くの地方から少女たちが紡績工場に働きに行った。そして、多くの少女たちが粉塵で肺が犯されて死んだ。その現実を山本茂実が1968年に発表したノンフィクション文学が「あゝ野麦峠」である。「あゝ野麦峠」は戦前に岐阜県飛騨地方の農家の娘(多くは10代)たちが、野麦峠を越えて長野県の諏訪、岡谷の製糸工場へ働きに出た。吹雪の中を危険な峠雪道を越え、また劣悪な環境の元で命を削りながら、当時の富国強兵の国策において有力な貿易品であった生糸の生産を支えた女性工員たちの姿を伝えた。

このように書くと明治以後の沖縄は差別され貧困化していったように思ってしまうが、そうではない。さとうきびで裕福になった農家は多かったし、さとうきび成金と呼ばれるような農民も居た。

琉球処分により日本へ併合され、沖縄県が設置された明治時代から大正にかけての約40年で人口は約20万人増加した。人口の増加は経済が発展したことと密接な関係がある。
明治政府による機械式の製糖工場の導入によりサトウキビから砂糖への生産効率が向上した。西原村では県・国の施策で製糖工場が建設された後に沖縄製糖株式会社に払い下げられた。

1956年頃の沖縄市のゴヤゲート通りの写真である。戦前の製糖工場跡の煙突が写っている。嘉手納町の水釜には製糖工場は戦争で破壊されたが、レンガでつくった大きな窯跡があった。


産業の近代化が行われたことで、経済的発展に伴い人口が増加した。政府から派遣された官吏や寄留商人の転入も相次いだ。
沖縄の政治経済は明治政府の政策によって発展していった。

女工など多くの沖縄人が本土に移住したが社会問題になるくらいの沖縄差別はなかった。このまま順調に発展していけば沖縄差別は生まれなかっただろう。しかし、順調に進んでいた政治経済の発展も大正末から昭和にかけてソテツ地獄と呼ばれるほどに沖縄の経済は急激に失速し大不況に陥る。それが大阪で沖縄差別が生じる原因にもなる。
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