二大政党が実現する条件は自民党と政策で五分に渡り合える政党の誕生しかない

二大政党が実現する条件は自民党と政策で五分に渡り合える政党の誕生しかない
二大政党が実現する条件ははっきりしている。自民党と政策で五分に渡り合える政党の誕生である。それ以外にない。質の問題である。数の問題ではない。
 立憲民主党、国民民主党、衆院会派「社会保障を立て直す国民会議」が合流した。合流の目的は安倍政権と対決する態勢を構築するのが狙いであるという。安倍政権と対決することを自己目的にした政党が政権を握るのは困難である。というよりできるはずがない。安倍政権を超えた政策を作り出せるか否かが重要であって安倍政権との対決は大した問題ではない。
かつての分裂によるしこりを乗り越え、結束を示せるかどうかが課題となるとマスメディアは指摘しているが、しこりを乗り越えるのも結束を示すことも政党を維持するためには重要であるが政権党になれるか否かの問題ではない。
政権党になるには自民党の政策よりも優れた政策を国民に提示し、大多数の国民の支持を得ることである。安倍政権乗り越え政策を目指した政党の合流であるなら歓迎であるが、安倍政権との対決ための合流は反対である。立・国合流になんの価値もない。立・国合流より維新の会に政権党の可能性はある。
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香港の民主主義運動・韓国の左翼運動・Mの死



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香港の民主主義運動・韓国の左翼運動・Mの死
 安倍政権のホワイト国除外に対して韓国では左翼主導による日本製品不買運動が起こった。香港では中国政府によって計画された「逃亡犯条令」改正案の撤回運動が起こった。
「逃亡犯条令」改正案撤回運動は5大要求の民主主義運動に発展した。香港と韓国のニュースを見ながら脳裏に浮かぶのが学生運動で死んだ町田だった。

「マタヨシはこれからも家族闘争をやらない積もりなのか」
とMは訊いた。
「親にどんな風に話せばいいのだ」
学生運動のことを親に理解させるのは不可能であると言う意味で私は言った積もりだったが、Mは勘違いして、
「そうなんだよな。どのように話せばいいのか、それが非常に難しいんだよな」
と言い、
「親にどのように説明すればいいか。分からなくて困っている」
と深いため息をついた。
親に理解させる可能性がゼロではないと信じているMに私は苦笑した。「家族闘争」の可能性を信じているMは、真面目で純真であると言えば聞こえはいいが、親たちが沖縄の古い因習に縛られていることを認識する能力がMには欠けているのだ。私は、「家族闘争なんかできるはずがない。止めろ」とMに言いたかったが、「家族闘争」に真剣に悩んでいるMが私の忠告を素直に聞き入れるはずはない。それに私は学生運動から離れた身である。いまさら「家族闘争」という重たい問題に首を突っ込む気持ちがなかったから、私は忠告するのを止めて黙っていた。
         「1971Mの死」
「家族闘争」というのは、家族に学生運動をやっていることを打ち明け、家族と話し合い、自分たちがやっている学生運動を家族に理解させ、家族に学生運動を応援させる運動のことであった。
一九六六年にフランスのストラスブール大学で民主化要求の学生運動が始まり、それが一九六八年にはソルボンヌ大学の学生の民主化運動へと発展し、その年の五月二十一日にはパリで学生と労働者がゼネストを行った。そして、労働者の団結権や学生による自治権、教育制度の民主化を大幅に拡大することに成功した。それをフランスの五月革命と呼んだ。フランスの五月革命は学生が原動力となった革命として世界中に有名になった。
大学の民主化を目指して闘ったフランスの学生たちは、自分たちの運動の意義を理解させるために家族と話し合った。学生の民主化運動を理解した家族は学生を応援し、家族を巻き込んだ民主化運動は次第に学生運動から大衆運動へと発展していった。
五月革命が成功した原因のひとつに学生たちが家族の説得に成功したことをあげ、それを家族闘争と呼び、学生運動のリーダーたちは私たちに家族闘争をやるように指示したのだった。
フランスの五月革命のように大学の自治や民主化を目指した運動であったなら、私は家族の理解を得るために喜んで話していただろう。しかし、琉球大学の学生運動は五月革命のような民主化運動とは性格が異なっていた。
琉球大学の学生運動はアメリカ軍事基地撤去、ベトナム戦争反対などを掲げていたが、反戦平和運動の域に止まるものではなかった。沖縄最大の大衆運動である祖国復帰運動を批判し、民主主義国家であるアメリカを帝国主義呼ばわりし、ソ連をスターリン官僚主義と批判して反帝国主義反スターリン主義を掲げた学生運動であった。本土の学生運動と系列化していった琉球大学の学生運動は急速に過激になっていった。ヘルメットを被ってジクザグデモをやり、ゲバ棒で機動隊と衝突したり、火炎瓶を投げたりした。
         「1971Mの死」
 香港の運動はフランスの五月革命と同じ民主主義運動である。48年前の沖縄の学生運動は民主主義運動ではなかった。左翼運動であった。民主主義運動であれば香港のように市民全体に広がっていただろう。しかし、民主主義運動ではなかったから沖縄全体に広がることはなかった。学生運動を民主主義運動と信じたいけれども信じることができない町田の悩みがあり、親にどのように話せばいいか分からなかったのだと思う。
 学生運動は議会制民主主義を否定する左翼運動であった。多くの学生がその狭間で悩んだと思う。

町田が生きていたら香港と韓国の運動を比べながら左翼運動と民主主義運動の違いを話し合っていたかもしれない。沖縄市ゴヤあたりの居酒屋で。
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