沖縄二紙の民主主義欠落 宮古島市長名誉毀損訴訟問題



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沖縄二紙の民主主義欠落 宮古島市長名誉毀損訴訟問題 
住民訴訟を起こした市民に対し、下地宮古島市長が名誉を毀損されたとして損害賠償を求め提訴する議案を議会に提出した。そのことに対してタイムスと新報の二紙は民主主義に反するといって批判した。

住民訴訟をした発端は、市が2014年度に実施した不法投棄ごみの撤去事業であった。市は市内3カ所に1650トンのごみが残存しているとして、市内の業者と2251万8千円で撤去の契約を締結。業者は1090トンを回収したと報告し、市は契約金全額を支払った。ところが実際の回収量は報告した量の約12%、約134トンしかなかったことが後に発覚した。業者は回収量を水増しし、担当職員も計量票を偽造していたことが判明したのだ。
 問題発覚を受け、市民6人は16年1月、2014年度に「市が違法で高額な契約を業者と結んだ」などとして、違法な契約だとして下地敏彦市長らに事業費のおよそ2200万円の返還を求めて住民訴訟を起こした。訴訟後に担当職員が計量票を偽造していたことが判明した。同市職員がごみ計量票の写しを改ざんして宮古島市議会に提出したのである。同市職員の同僚が公文書偽造を当時の環境衛生課長と生活環境部長に報告したが、課長と部長は検証することもなくそのまま放置していた。
 市民は虚偽有印公文書作成・同行使が発覚した担当職員を公文書偽造などで刑事告発した。松原経正裁判長は「市議会での追及を免れようとした犯行で経緯、動機に酌むべき事情はない。犯行態様も悪質」として、懲役1年6月の判決を下した。ただ、被告が事実を認め反省していることや、妻が更生に協力するとしていることから執行猶予3年とした。
不法投棄ごみの撤去の改ざんは同市職員がやったことであり、下地市長に責任はなかった。だから、市民6人が事業費およそ2200万円の返還を求めた裁判では一審、二審とも市民側が敗訴し、最高裁も上告を棄却した。市民が敗訴したのである。つまり、司法は市は違法行為をしなかったと判決したのだ。これで一件落着になるはずだったが、裁判が終わった後になんと下地市長は市民6人に1100万円の損害賠償の提訴をする議案を議会に提出したのである。市民が市の名誉を棄損したトいうのが提訴する理由であった。
宮古市議会で上里議員は市が市民を提訴する議案を提出したのは民主主義に反するとの見解を示した。
上里議員は、市の提訴は「スラップ訴訟」だと識者の批判があると指摘。
スラップ訴訟
ある程度の発言力や社会的影響力のある、社会的に優位といえる立場の者が、特に発言力や影響力を持たない相対的弱者を相手取り訴訟を起こすこと。強者が弱者に対して訴訟をしかけることで、半ば社会的な恫喝あるいは報復として機能する。
スラップ訴訟は、たとえば個人と企業との間の対立において企業が個人を提訴するという形で行われる。個人は企業が孕む問題を告発する情報を発信し、企業側はこれを名誉毀損として提訴する、という構図が典型といえる。訴えられた個人の側は訴訟に対応するために個人では対応しきれないような金銭的・時間的な負担が強いられる。世論は企業側に好意的な見解を寄せやすい。結果として告発者を疲弊させる嫌がらせ効果に結びつく。

市民6人のほうが先に市を相手に訴訟を起こした。市民には強力な弁護士がついているし、市長の名誉棄損提訴はスラップ訴訟にはならない。

下地敏彦市長は議案を撤回したが、再提出の可能性があることを念頭に上里議員は、
「市と市民の間に名誉毀損は成り立たないとの判例もあるが、それでも訴えるのか」
と質問した。長濱副市長は、
「名誉毀損で被害を受けた市が、救済を求めて提訴するのは当然の権利として許容されるべきだ」と主張。
「市に圧力をかけて抑制するのはそれこそ反民主主義であり、法の支配の実現を損ねるものである」と答弁した。上里氏は、
「市政を批判する市民の声を聞くのが行政の立場。その市民に対し、提訴を示すだけで萎縮を招く。大変な答弁だ」
と反発し、公権力を背景に住民の口を封じるのは、住民自治の破壊との指摘があるとし、
「議案は再提出すべきでない」
と主張した。

「市政を批判する市民の声を聞くのが行政の立場」と上里議員は主張したが、6人の市民は市政を批判したのではなく、2200万円の返還を下地市長らに求め、住民訴訟を起こしたのである。裁判では市民も堂々と主張することができる。裁判長は市と市民の両方の主張を聞き、どちらが正しいかを判断して判決を下す。
 裁判こそが公権力者と市民を平等に扱う場である。提訴することが「公権力を背景に住民の口を封じる」ことにはならない。むしろ。市民の主張を第三者の裁判長が聞く場所である。そして、裁判長は公権力に加担することはなく法律を根拠にどちらが正しいかを判断する。裁判こそが住民の主張を聞き、住民自治を守る場所である。裁判が住民自治を破壊すると主張するのは日本の三権分立による法の平等性を否定することになる。
原告の市民は、
「本末転倒」「納税者が市を批判するのは当然」
と反発した。原告は批判したのではなく「市が違法で高額な契約を業者と結んだ」と決めつけて市長などに2200万円の返還を求めて提訴したのだ。この提訴で市長が汚職をしたと思い込み支持しなくなった市民も多かっただろう。提訴は市長の信用をなくす効果もあった。無実の市長を提訴することは批判ではない。脅迫だ。

 下地市長側と野党である上里議員そして、提訴した市民6人との争いは宮古島市においての保守と野党との政争の世界である。下地市長側は市長の座を守りたいし、上里議員側は下地市長を引きずりおろして左翼の市長を誕生させたい。その駆け引きが展開された。それだけのことであるなら宮古島市の保守と左翼の政争の世界であるから「それもありなん」と思う。しかし、琉球新報、沖縄タイムスは政党ではない。マスメディアである。マスメディアの使命はより正確な事実を伝えることと、政治に中立的な立場から報道し、批判することである。
 しかし、沖縄二紙はそうではない。中立を装いながら左翼に加担していると言わざるを得ない。
 
 今回の住民訴訟は公権力である自治体を監視するために地方自治法で認められた権利である。市民はその権利を行使したまでだ。裁判所は市民の訴えを認めなかったが、市民が訴える権利を否定したわけではない。この保障された権利の行使を自治体が妨げることがあってはならない。
                新報社説
 新報社説のいう通りである。自治体を監視し、違法行為の疑いがあれば司法に訴える権利が市民にはある。もし、下地市長がその権利に圧力をかける目的の訴訟であれば許されない。民主主義の道を外れている。
 新報社説が指摘しているように裁判所が市民の訴える権利を否定することはない。裁判所は市民の訴えが正しいか正しくないかを判断するのであって訴えそのものを否定することはない。今回の訴訟で裁判所は市民の訴えは正しくないと判断した。市民は敗訴し、市が勝った。
 もし、市が勝ったことを根拠にして市民を提訴するのなら市は間違っている。新報が指摘するように民主主義に反する。市長は名誉棄損で市民を提訴しようとしているが、市が裁判に勝ったことで名誉が棄損されたというのは成り立たない。市長がこんなことで提訴するはずがないだろう。新報社説は肝心ななにかを隠しているのではないかと思い、宮古島市長の提訴に関するサイトを片っぱしから見ていった。しかし、ほとんどが沖縄二紙の報道と同じだった。諦めかけた頃にあるサイトに出会った。琉球朝日放送のサイトである。
「市側は、裁判の敗訴後も、市民が主張を変えなかったことで『市の名誉が毀損された』とし、市民6人を名誉毀損で訴える議案を市議会に出していました。市はいったん議案を撤回していますが、再提案には含みを残したままです」
の記事があった。
 最高裁で市の行為に間違いはない、市民の主張が間違っていると判決を下したのに、市民は市が間違っているという主張を変えなかったのである。つまり、敗訴したことを無視して、集会などで市を非難したのである。
 市長が名誉棄損で提訴しようと決めたのは最高裁の判決を市民が無視して市を非難したことであった。それこそ民主主義の破壊行為である。判決を無視した行為は許されるものではない。この事実を沖縄二紙は隠したうえで市を批判しているのである。マスメディアなのだから琉球朝日放送が報道した事実を沖縄二紙も知っているはずである。 
住民訴訟で住民側の代理人を務めた喜多弁護士は、
「住民訴訟の結果を市民に報告するのは当然」
と強調している。提訴した市民は住民訴訟の結果の報告会を開いたということだ。報告会でどのように話したかが問題である。多分、敗訴したことを認めないで提訴した時の主張を変えなかったのだ。琉球朝日放送の報道でそのことが分かる。
喜多弁護士は市の提訴方針について「住民運動を威嚇するための『スラップ訴訟』だ」と非難している。この発言からも提訴した市民が敗訴を認めないで市の批判を繰り返したと考えられる。だから、下地市長は名誉棄損で市民を提訴しようとしたのである。。

 新報社説は「自治体などの公人と一般私人の関係は一般私人同士とは異なる」と市民の選挙によって選ばれた市長を他の公務員と同じように見て「公人」と呼び、「公人の名誉権は一般私人よりも非常に狭い」と述べている
新報社説は市長は市民の選挙によって選ばれることを無視している。市民の信用がなくなれば落選してしまう。だから、市長が一番恐れるのは名誉棄損である。新報社説は「公人の名誉権は一般私人よりも非常に狭い」というが逆である。市長にとって名誉は市民よりも重いし大事である。
市長が市民の信頼を失えば次の選挙で落選し、市長の権力の座から落ちてしまう。市長にとって市民に信頼されることは重要であり、名誉が傷つけられることを一番恐れる。裁判で起訴されることは名誉が傷つくことであるから起訴されることを最も恐れるのが市長である。選挙で公人の座に選ばれる市長と議員にとって名誉権は一般人よりも非常に重いものである。決して狭くはない。

新報社説は、
「権力を持つ公人が、ある市民の表現を名誉毀損だとして都合の悪い意見や考えを排除すれば、民主主義が成立しないからだ」
と主張する。権力で排除すれば民主主義は成立しないのは新報社説のいう通りである。ただ、宮古島市の下地市長は名誉棄損だと主張して司法に提訴しようとしている。裁判をすることが権力で排除することにはならない。裁判では公権力と市民は平等であり、裁判官が公権力に加担することはない。司法の判断にゆだねることは権力で排除することではない。民主主義を守ることである。
 新報社説は下地市長が都合の悪い意見や考えを名誉棄損だとして退けようとしていると主張しているが、下地市長が市民を提訴しようとした理由は都合の悪い意見や考えを排除するためではない。市民が最高裁の判決を無視して敗訴したにも関わらず市を非難して市長の名誉を傷つけようとしているからだ。それは市長を選んだ宮古市民を侮辱しているに等しい。

 新報社説は国家権力、憲法を引用して、
「国家権力の不当な行使から国民の権利・自由を守るのが憲法の本旨だ。自治体はその権利を守る責務がある」
と述べている。最近左翼がよく使う理屈である。「国家権力の不当な行使」とは何かを具体的には説明していない。国家権力とは行政のことである。行政は国会で決めた法律を行使する。法律は最高法規である憲法を犯さないように制限されながら立法される。国家権力は憲法を守って行使しているのだ。国家権力が不当な行使をすることは法律が許さないし憲法が許さない。新報社説が指摘している通りである。憲法は権力の不当な行使を許さないだけでなく市民の不当な行為も許さない。
市民6人は市が違法行為をしていると提訴した。ところが裁判は市は違法行為をしていないと判決を下した。市民は間違った監視行為をしていたのだ。そのことを司法が明らかにした。ところが市民6人は最高裁の判決を無視して市を非難したのである。市民のほうが民主主義の破壊者である。
新報社説は、
「形式的に可能でも、自治体が市民を提訴することは本来あってはならない」
という。形式的に可能というより法的に可能と言った方が適切である。法的には自治体が市民を提訴することができるのは自治体と市民は司法においては平等だからであり、どちらも相手が違法行為をしているという根拠があれば提訴することができる。市民が自治体を提訴することはできて自治体が市民を提訴できないのは憲法の平等精神に反する。
自治体が市民を提訴することは本来あってはならないという新報社説は自治体を差別していることになる。市にとって名誉を棄損させる行為をした市民を提訴するのは当然である。

 新報社説は、
「争いの解決に向けて原因を是正するか、説明責任を果たすことが行政の責務である」
というが、争いの原因ははっきりしている。市民6人が最高裁の判決を無視していることである。市民が市の無罪を認め、市に謝罪すればいいだけのことである。
名誉棄損の原因を是正しなければならないのは市民のほうであるし、説明責任を果たす必要があるのも市民である。市民が争いの原因を是正しないし説明責任も果たしていないから市長は名誉棄損で提訴せざるを得ないのである。

新報社説はなんと憲法15条も持ち出してくる。
「憲法15条は全ての公務員は全体の奉仕者だと定めている。名誉を毀損されたとして市民を訴える行為は市民全体の利益にかなうことか。そもそも全体の奉仕者という自覚があれば、市民を訴えるという発想は思い浮かばないはずだ」
             琉球新報
第十五条
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

新報社説のいう通り、憲法15条に公務員は「全体の奉仕者であって」と書いている。そして、新報社説は書いていないが「一部の奉仕者ではない」とも書いてある。市民6人は市民全体ではない。一部である。一部の市民の奉仕者であってはいけないのが市である。最高裁判決を守っていない6人の市民は全体ではなく一部の市民である。一部の民主主義破壊者の市民を最高裁判決を認めさせるために提訴する行為は市民全体の利益にかなうことである。全体の奉仕者という自覚があるからこそ違法行為をした一部の市民を下地市長は提訴しようとしたのである。民主主義を守るために提訴することは必要なことである。

新報社説は「国民の権利・自由を守る憲法の理念に従い、提訴を断念すべきだ」と述べているが、逆である。憲法の理念は法を守ることであり、裁判の判決に従うことである。憲法の理念に従うならば、判決に従わない一部の市民を名誉棄損で提訴するべきである。
新報社説の主張は市民が最高裁の判決を無視したことを隠して成り立つ主張である。
市民が裁判結果を無視しているという事実を隠して憲法、民主主義を主張する新報社説はおかしい。マスメディア精神に反する。

沖縄タイムス社説は高知県黒潮町で町議5人を提訴した例を引用した。

高知県黒潮町では、ケーブルテレビ事業の工事入札を巡り批判する町議5人を提訴。しかし裁判所は、町が相応の批判を受けるのは当然として町の請求を棄却し、加えて町による提訴の違法性も認めている。
          沖縄タイムス社説
タイムス社説は「判例を見れば、宮古島市の市民提訴方針は暴挙に等しい。再提案などもってのほかである」と述べているが、高知県黒潮町と宮古島では内容が全違う。高知県黒潮町では町が相応の批判を受けるのは当然としているが、宮古島市では市は勝訴している。宮古島市は批判を受けるのは間違っているのだ。そして、裁判で宮古島市が勝訴したにもかかわらず市民6人は主張を変えないで市を非難したのである。高知県黒潮町の例を宮古島市に強引に当てはめているタイムス社説もマスメディア精神に反する。
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