沖縄の政治を根本的に考える時期にきた1



第1章 日本・沖縄の米軍基地はアジアの民主主義国家の平和に貢献している 第2章 戦後沖縄の非合法共産党・米民政府 第3章 辺野古移設の真実 第4章 辺野古埋め立ての真実 第5章 辺野古の真実を捻じ曲げた者たち 第6章 辺野古の真実を捻じ曲げた沖縄タイムス・琉球新報 第7章 辺野古の真実を捻じ曲げた翁長知事 第8章 辺野古の真実を捻じ曲げた落合恵子 第9章 辺野古の真実を捻じ曲げた宮崎駿 第10章 自民党県連批判 

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沖縄の政治を根本的に考える時期にきたⅠ

共産党の志位和夫委員長は民主党の岡田克也代表に将来の連立政権を念頭にした次期衆参両院選での選挙協力を呼びかけた。しかし、岡田氏は連立を前提とした協力には難色を示した。維新の党とつくる選挙協力のための協議会にも共産党を入れない方針であるという。
野党であり政権復帰するには他の野党と連携をしなければならないし党を大きくするためには連立も必要である民主党でさえ共産党とは連立を前提にした選挙協力はしないのだ。自民党ならなおさら共産党と連立を組むことはないし選挙協力をすることはあり得ない。
ところが沖縄では自民党県連のリーダーであった翁長雄志氏は県知事選で共産党と連携したのである。翁長氏は父も兄も保守系の政治家であった。子供の頃は保守政治家の息子というだけでいじめられた体験をした。共産党は翁長氏にとって宿敵であった。ところが今度の県知事選では共産党と連携したのである。これは沖縄の政治事情というより沖縄の政治矛盾が生み出したものである。

戦後の沖縄は議会制民主主義国家であり世界第一の経済力のある米国が統治してきた。政治も経済も米国のおかげで順調に成長した。人口も戦争直後の30万人台から90万人台へと増加していった。ところが共産党は米軍による統治を植民地支配であると決めつけ、沖縄二紙や社民党、社大党と一緒に徹底した反米軍運動をやってきた。それは自民党県連にも影響を与え、沖縄の政界では米軍は悪であるという考えが定着していった。驚いたことに、自民党のリーダーであった翁長雄志氏が共産党連携した選挙戦をやり、自民党候補の仲井間氏に10万票の差をつけて圧勝したのである。米軍は悪であるという固定観念の強い沖縄の政治の矛盾が沸騰した瞬間であった。
翁長氏の知事選勝利は沖縄の政治の矛盾の勝利である。しかし、矛盾を内包した知事選挙で勝利した翁長知事が議会制民主主義国家である日本の政治で勝利することはない。矛盾は敗北をする運命にある。

翁長雄志氏の内なる矛盾を検証する

沖縄県の知事の中で翁長雄志知事ほど有名になった知事はいない。これほど激しく政府と正面からぶっかった知事も沖縄にはいなかった。
 知事選挙は翁長知事にとって逆行にあった。辺野古移設推進の安倍政権は県外移設を公約にしている沖縄県出身の国会議員に辺野古移設に反対し県外移設を主張するなら除籍すると忠告した。安倍政権の圧力に屈した国会議員は県外移設から辺野古移設容認に変わった。
 自民党県連も安倍政権の圧力に屈して県外移設から辺野古移設容認に変わった。県連会長は公約変更の責任をとって辞職した。
 安倍政権の圧力に屈しないで県外移設を固辞して自民党内で孤立したのがその時那覇市長であった翁長知事であった。翁長知事が県外移設を固辞したのは自民党県連内で県外移設を推進してきた中心人物であったからだ。仲井間前知事の二回目の知事選の時、辺野古移設の公約から県外移設の公約に変えさせたのが翁長知事だった。
 仲井間前知事は辺野古移設を推進していたから、選挙公約は辺野古移設にするのが自然の流れであったが、翁長知事は辺野古移設では選挙に負ける可能性ある。県外移設なら勝てるという考えがあり、仲井間前知事の選挙公約を変更させた。選挙に勝つために辺野古移設から県外移設に公約を変更したのが翁長知事だったのである。その頃の翁長知事は自民党県連のリーダー的存在であった。
 元々は翁長知事は自民党員であり、辺野古移設推進のリーダーだった。その証拠が残っている。

翁長雄志県会議員の発言

ただいま議題となりました議員提出議案第2号普天間飛行場の早期県内移設に関する要請決議について、提出者を代表して提案理由を申し上げます。

普天間基地の返還は、大田前知事が、普天間基地が市街地のど真ん中にあり、人命への危険が最も高いとして橋本前総理に最優先で要請したものであります。
それを受けて、1996年(平成8年)4月12日に橋本龍太郎首相は、モンデール駐日米国大使と首相官邸で会談をし、沖縄米軍基地の整理・統合・縮小問題についての協議を行い、普天間飛行場の5年から7年のうちの全面返還に合意をいたしました。

「沖縄の米軍基地問題で最大の懸案となっていた、普天間基地の返還がついに決定し、橋本首相は「目に見える形で解決できた。沖縄の人たちに喜んでもらえると信じている」と沖縄タイムスの4月13日朝刊にコメントしております。
さらに大田昌秀知事も、「県民が最優先に求めていた普天間基地の全面返還が実現したのは政府が誠意をもって取り組んでくれた表れ、21世紀に向けて明るい沖縄をつくる第一歩となりそうな気がする」、これもタイムスの平成8年4月13日朝刊で語っております。
そして、条件付きの返還に際しましては、大田知事は、「無条件の解決が望ましいが、それでは返還は実現しない。より危険度の少ない関連で解決を図っていくことしかわれわれに道はない」と琉球新報4月15日の朝刊でコメントをいたしております。
また、SACOの中間報告を受けての4月15日の記者会見では、「基本的には日米両政府が県民の要請を受け入れる形で、特別委などを設置し、沖縄の基地問題に取り組んでくれた。危険度の高い普天間飛行場や県道104号線越え実弾砲撃演習の問題など、沖縄側の取り入れる形でやってもらったことは感謝したい」、「県が精魂を傾けてやってきた以外の方法はあるのか。県民の安全や暮らしを守るためにやってきた。そういうこと(移設条件付に応じられないということ)が通るような状況ではない。総合的に判断し、最大多数のものをもってやるしかない」と4月15日の記者会見で語っております。
そして、SACOの最終報告を受けて、これもコメントでありますけれども、平成8年12月2日、「これらの土地の返還が実現すれば、復帰後これまでに返還された土地面積を上回る在沖米軍施設面積の約21%相当が返還され、また、県が提示した「基地返還アクションプログラムで第一期(2001年まで)に返還を求めている施設のほとんどが返還されることになり、評価するものであります」そして、12月10日の県議会の答弁では、県は、日米両政府に対し米軍基地の撤去をこれまで要請してきたが、県の対応としてオール・オア・ナッシングでは問題を解決することはできないと述べております。
 SACOの中間報告、最終報告を踏まえての経緯は以上であります。

残念ながら、大田前知事は、その後オール・オア・ナッシングの姿勢に突然方針転換をし、これまで構築してきた政府との信頼関係の中で基地問題を解決し、あるいはまた経済の自立、経済基盤の強化というような意味でいわゆる閉塞状況に陥ったわけであります。
そこで昨年の知事選挙がございました。そこで稲嶺知事は、「基地問題は、国際社会や県民の安全保障、県土の有効利用、地主や雇用員の生活、環境保全、総合交通体系、跡地利用や経済振興策を検討した上で有機的かつ整合性のあるトータルプランの中で対応する」、「普天間基地のその危険性にかんがみ早期の返還を実現する。跡地の活用については、振興開発のモデル地区として沖縄経済の自立化に資するよう国家プロジェクトによる開発を進める」、「海上ヘリ基地案については責任をもって政府に見直しを求める。その代わり県民の財産となる新空港を陸上に建設させ、一定期間に限定して軍民共用とし、当該地域には臨空型の産業振興や特設の配慮をした振興開発をセットする」と。
このような公約を掲げまして、昨年この基地問題に関しましても、平和行政に関しましても県民に提示をし、当選をいたしたわけであります。
 そして今日まで、経済振興については着々と実績を上げ、さらに来年の沖縄サミット開催という輝かしい快挙も成し遂げました。

基地問題に関しましても、当選以来組織的におきましても、また水面下におきましても全力を尽くして真摯に取り組んでいることを評価するものであります。
さらに今定例会においての知事答弁で、「普天間飛行場の移設については、現在国に提示するための絞り込み作業を進めており、最終的な段階ではありますが、移設後の跡地利用問題や移設先の振興策について、特段の配慮がなされる必要があると考えております。そうした中で、できるだけ早く決定できるよう全力を挙げて取り組んでまいります」と今定例会で力強く踏み込んでいる答弁がございます。
普天間飛行場移設について、解決に向けての作業が大詰めに来ていることがこれでうかがわれております。
 
よって、県議会においても普天間飛行場の返還について一日も早く実現すべく県議会の意思を示すものであります。
「平成11年第6回沖縄県議会(定例議会)第6号10月14日」


 15年前の県議会時代の翁長知事の主張である。普天間飛行場の返還を一日も早く実現するためには辺野古移設であり、辺野古の飛行場を軍民共用とし、当該地域には臨空型の産業振興開発をやっていくと述べている。それに嘉手納飛行場以南の米軍基地返還されると在沖米軍施設面積の約21%相当が返還されることも強調している。しかし、辺野古移設に反対している現在は全米軍基地のⅠ%に過ぎないと言っている。立場を変えれば話すことも変える。それが翁長知事である。
翁長知事が普天間飛行場の危険性回避を最優先にし、県内移設に賛成をしていたことは明らかである。ただ、注目しなければならないのは翁長知事は辺野古移設が沖縄の経済振興を促進するものであることを強調していることである。悪である米軍基地の建設だけでは県民は納得しない。県民の支持を得るためには経済効果があることを強調する必要があると考えていたのが翁長知事なのである。

現在の翁長知事は辺野古移設反対派である。賛成していた翁長知事がいつ辺野古移設に反対をするようになったか。それは2010年の県知事選の時である。その年は仲井真前知事の二期目の知事選であった。仲井真前知事は辺野古移設に賛成し、県議会で辺野古移設反対の野党と激しいバトルを繰り返していたが、知事選で選対委員長を依頼された翁長知事は県外移設を公約にしないと選挙に勝てないし、選対委員長を引き受けるわけにはいかないと言った。辺野古移設を容認していた仲井真前知事は最初は反発していたが選挙のプロである翁長知事の主張に折れて選挙公約を辺野古移設容認から県外移設に変えた。
しかし、民主党政権から自民党政権に代わり、安倍氏が首相になると辺野古移設を積極的に推進した。自民党県連は安倍政権の圧力に屈して辺野古移設容認に公約を変更したが当時の翁長知事は頑なに県外移設にこだわった。そして、2014年の県知事選挙に立候補した翁長知事は県外移設にこだわって自民党から離れて、閉鎖・撤去を公約にしている革新と連携して、県外移設ではなく革新と共通する辺野古移設反対を選挙公約にして当選した。
 当選した翁長知事はあらおる方法で辺野古移設阻止することを公言し、埋め立て承認の取り消しをすると宣言している。翁長知事は取り消しはできるのか。そのことを知るためには辺野古移設が決まった歴史的流れを知る必要がある。

 
2005年
10月13日 額賀福志郎自民党安保・基地再編合同調査会座長が小泉首相に「沿岸案」を提案。
10月15~17日 米国務・国防省高官が県や県議会ら地元関係者に「普天間」の県内移設を条件に、嘉手納基地以南の基地を北部に集約する案を説明。
10月26日 日米審議官協議で辺野古沿岸案基本合意。
10月31日 稲嶺知事、北原防衛施設庁長官と会談、午後、沿岸部移設拒否を表明。
11月1日 那覇防衛施設局、辺野古沖調査の一時中止を発表。
11月1日 辺野古、豊原、久志3区の区長が北原防衛庁長官と会談、沿岸案拒否を伝える。
11月7日 宜野座村議会、沿岸案反対を可決。
12月16日 県議会が沿岸案反対の意見書を全会一致で可決。
1 2月21日 宜野湾市議会、沿岸案反対を賛成多数で決議。

 このように知事、久志三区、宜野座が辺野古移設に反対していたのである。ただ、移設を決める権利は県知事などの首長にあるのであって議会に決定権はない。理由は移設問題は問題が複雑であり、政府との交渉は何度もやらなければならない。問題解決の交渉に全議員が加わることは不可能である。だから辺野古移設の交渉と決定は議会ではなく行政が行った。
2006年
1月22日 名護市長で沿岸案に反対し、修正案に柔軟姿勢を示す島袋吉和氏が初当選。
4月4日 島袋市長、額賀防衛庁長官との再協議で上京。100メートル以内で沖合移動 辺野古沿岸案 政府が新微修正案。
名護と政府は4日の会談で、
(1)住民の安全を考慮。
(2)環境保全に考慮。
(3)実現可能性のある移設案を追求。
3点の基本方針を確認した。
4月7日 島袋名護市長が滑走路2本案(V字形案)で政府と合意。宜野座村も政府と基本合意書締結。
10月30日 仲井真氏、「(移設先の)ベストは県外だが、県内移設もやむを得ない」とキャンプ・シュワブ沿岸部移設容認を示唆。
11月19日 仲井真氏、県内移設反対の糸数慶子氏を退け、知事に初当選
普天間代替施設、政府案より沖へ90m…政府が譲歩方針
12月15日 鳩山首相が現行案以外の移設先検討を明言。「できるなら国外、最低でも県外」を宣言した。国外は無理であることを知った鳩山首相は県外移設を明言した。
2010年
4月20日 徳之島3町長が平野博文官房長官との会談を拒否、徳之島の強烈な反対運動に徳之島案はあっけなく頓挫した。鳩山首相は県外移設を諦める。
5月23日 鳩山首相が再来県し、名護市辺野古への移設を明言。
6月4日 鳩山氏が首相退陣、菅直人氏が首相に就任し、日米合意の踏襲を明言した。

 2005年には辺野古、豊原、久志3区や宜野座も反対であったが、2006年には島袋名護市長が滑走路2本案(V字形案)で政府と合意し、辺野古、豊原、久志3区や宜野座も賛成した。翁長知事は沖縄県には自己決定権がないと主張しているがその主張は間違っている。自己決定権があるから県、名護市、辺野古が移設反対している間は移設はできなかったし、自己決定権で辺野古移設に賛成したから政府は移設計画を進めたのである。日本は議会制民主主義国家である。沖縄県は日本の地方自治体であるから自治体としての自己決定権は持っている。だから、県、名護市、辺野古が辺野古移設に反対すれば県や名護市の自己決定権によって政府は辺野古移設をすることができなかった。県、名護市、辺野古が賛成したから辺野古移設が決まったのである。県、名護市、辺野古には自己決定権ある証拠である。
 自己決定権は県、市町村にあるのが議会制民主主義である。2010年に県、名護市、辺野古の自己決定権によって辺野古移設は決まったのである。ところが2014年に県知事に当選した翁長知事は辺野古移設が決まった4年後に辺野古移設反対を主張して当選した。当選した翁長知事は沖縄には自己決定権があるから辺野古移設を取り消す権利があると主張した。
 4年も経ってから、4年前の県、名護市、辺野古の自己決定権を翁長知事はないがしろにしたことになる。そんなことが許されるはずがない。これでは法治主義が崩れる。

 名護市長は政府が引き続き移設に向けた作業を進めるとの姿勢を示していることに「知事が取り消すと工事をする根拠がなくなる。(知事の権限を)無視することになる。法治国家に反するのではないか」と述べた。4年前の県、名護市、辺野古の自己決定権を押しつぶし、県土木建築課が埋め立て申請に瑕疵がないと判断したのを辺野古移設反対を選挙公約にして勝った翁長知事に埋め立て承認を取り消す権利が法律的にあるのだろうか。あるはずがない。だから、防衛局は「取り消しは違法行為」だと通知したのである。菅義偉官房長官は記者会見で、翁長知事が米軍普天間飛行場の移設先となる名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認を取り消すことを明言したことに関し、「日本は法治国家なので、行政判断の継続性の観点から埋め立て工事を進めていきたい」と述べた。埋め立て工事の続行は合法行為であるのだから知事が取り消すほうが違法行為である。そう菅官房長官は言ったのである。
 しかし、沖縄では菅官房長官のいう法治主義が通用しない。琉球新報は、防衛局が県が沖縄防衛局の言い分を聞く「聴聞」の実施を決めたのに対し、同局は聴聞に出席しない意向を表明し、陳述書を送付したことに対して、
「陳述書の提出で済ませたのは、新基地建設の不当性が露呈するのを避けたかったためであろう。しかも、陳述書は紙2枚という分量で、内容も『手続きに瑕疵はなく、承認取り消しは違法だ』と主張するにすぎない。これで聴聞手続きに応じたつもりならば、あまりにも県民を軽んずる行為だ」と述べた。琉球新報は防衛局が陳述書の提出をしたのは新基地建設の不当性が露呈するのを避けたかったためであると決めつけ、「承認取り消しは違法だ」と防衛局が通知したのを県民を軽んずる行為であるといい軽視しているのだ。国の機関である防衛局が取り消しを違法だと通知したのである。それは県を凍らせるほどのものである。
 政府は日本が「法治国家」であることを常に強調する。法治主義は議会制民主主義国家の根幹である。違法行為は国家の根幹を破るものであり許されない。承認取り消しは違法であると政府は通知した。翁長知事は違法行為をしようとしていると政府は警告したのである。ところが政府の警告を沖縄は理解できないのだ。翁長知事は違法行為を平気でやろうとしているのだ。
 県知事が政府に違法行為をやるのは沖縄だけだろう。他府県ではあの得ないことであるだろう。沖縄の政治的不幸は、政界が議会制民主主義、法治主義を知らないところにある。
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