養老孟司にもの申す

 あんな偉い、著書が何百万冊も売れている先生に「もの申す」とはお前は何を考えているのだ。お前はそれ程偉いのかと云われそうだが、郷秋<Gauche>はそれでも、あえて、養老孟司に云いたい。

 今日、郷秋<Gauche>の手元に届けられた『考える人』2010年春号の特集は「はじめて読む聖書」である。だからなのか、養老氏の連載「万物流転」のうお題は「日本人と宗教」であった。その冒頭にこんな件があった。

 「(前略)板切れにキリストだかマリアだか知らないが、その種の像を描いて、それを踏めという。私なら踏む。だってただの板切れだからである。それを踏まないとは、どういう了見か。ただの板切れを踏む、踏まない、そんなことにこだわるやつは、皆の迷惑だ。(日本は)狭い島国なんだから、お互いに住みにくくなるだろうが。」

 自分を愛してくれている人の顔が、自分が愛している人の顔が描かれたものが、果たしてただの「板切れ」なのだろうか。もし、自分の父や母の顔が、妻や子の顔が描かれた板を、「父母を、妻子を愛していない証として踏め」と云われた時、養老氏はなんの迷いも無くその板を踏むのだろうか。踏み絵とは、ただ知らぬ誰かの顔が描かれた板を踏むのではない。その誰かを愛していない証として踏む、踏まされたものなのである。

 そんなことを、博学聡明なる養老氏が知らぬ訳はなかろう。その上で氏は書いているのだ。だがしかし、こんなことを書くことこそが「皆の迷惑」なんじゃないかと、郷秋<Gauche>は思うぞ。氏ほどの思考能力と文章力があるのならば、万人に判るように、なぜ踏み絵を踏まぬ行為が馬鹿げているのか書けばよい。もっとも「考える人」の読者ならば、それくらいの事は理解でくるだろうと云う「了見」なのか。

注:養老氏は踏み絵を、「板切れにイエスだかマリアだかを描いたもの」と書いているが、その多くはマリアやイエスの顔や姿を彫った銅版(レリーフ)を板に埋め込んだものである。板に描いたものではあっという間に摩滅してしまうからである。それ程多くの人が幾度も踏まされたのである。

季刊『考える人』(2010年春号)
新潮社(雑誌コード:12305-05)
発行年月日 2010年4月3日
B5版 279頁
1,400円(税込)
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