江戸時代にビール?

 開港150年を迎えた横浜は、近代文化の発祥地である。江戸時代にも長崎・出島に種々の近代産業の成果が入っては来ていたが、それらの物と事は特別の限られた人の手に渡っただけで、それが文化として国内に広がることはなかった。

 横浜は鉄道、ホテル、近代下水、外国郵便、電信、電話交換、消防救急、ガス灯、アイスクリーム、近代街路樹、鉄のトラス橋、テニス、近代競馬などなどの発祥の地であるとされているが、広く世界に、と同時に国内津々浦々(「津々浦々」は港や入り江のことだ。これに相対する山の奥深くまでを意味する同義語はあるんだろうか)に対しても開かれた港としては1859年に開港された横浜港が最初であるから、多くの物と事の発祥の地が横浜にあっても不思議ではない。

 既に書いたように横浜は多くの物と事の発祥の地なのだが、実は重要なものを書き落としている。それは「ビール発祥の地」である。

 開港から11年後の1870(明治3)年、ウィリアム・コープランド(ノルウェー系アメリカ人)が当時の横浜居留地山手123番地(現在の中区千代崎町)に「スプリング・バレー・ブルワリー」を開設しビール醸造を始めたのが「日本のビール事始」とされている。

 因みに「スプリング・バレー・ブルワリー」は1885年に買収され名前を「ジャパン・ブルワリー」と変え、1888年に販売契約を結んだ明治屋が「麒麟ビール」を発売する。更に1907年に三菱と明治屋が出資した「麒麟麦酒株式会社」が「ジャパン・ブルワリー」の事業を買収している。これが今のキリンビールにつながる流れである。

 こんな経緯で横浜が日本のビール発祥の地とされているわけであるが「スプリング・バレー・ブルワリー」の開設に先立つこと17年、1853(嘉永6)年に、摂津三田藩出身の蘭学者、川本幸民(かわもとこうみん / 1810-1871)が江戸・萱場町にあった自宅の庭に釜場を築いてビール醸造の実験をしている。

 1853年7月12日、川本は浦賀奉行与力の香山栄左衛門らと共にペリー提督の乗船する旗艦サスケハナ号に乗り込む。船上では香山とブキャナンとの間で外交上交渉がなされたが、一通りの交渉が終わった後、夕刻からは宴席が設けられた。ここで供されたのがビールであった。

注1:川本幸民に関する記述はこちらのサイトを参考した。
注2:幸民のビール醸造実験は「ペリー艦隊に招かれてビールを飲んだ人の話を聞いたのがきっかけらしい」と書かれたものがあること、上記サイト以外では、川本がサスケハナに乗船したとの記述を見つけることが出来なかったことを付記しておく。

 科学全般に通じていた川本はまた好奇心旺盛でもあったのであろう、さっそくビールの実験醸造に取り組む。原料の大麦、馬鈴薯、酵母を釜で煮たようであるが、ホップは入手できなかったため、ホップの変種であるカラハナソウを代用に使ったようである。川本は後にユリウス・ステックハルトの 「Die Schule der Chemie」のオランダ語版を日本語に翻訳した「化学新書」を出しているが、この中にはビールの製造方法が詳しく書かれていると云う。

注3:川本ビールの原料については日経ビジネス2009年7月20日号「実験から生まれた江戸のビール」を参考にした。

 さて、苦労の末に出来上がった川本ビールがどんな味であったのか知りたいものであるが、実は2005年にキリンが残されたレシピを元に川本ビールを再現している。その再現ビールは、泡は足りないがフルーティーな味わいであったとか。まずまず飲める程度のビールが出来たらしい。しかし川本、ホップこそがビールの「肝」である事に気付き、その代用品を探し出してでもビールを醸造してみるあたり、余程の酒好きとみたが、如何に。


 例によって記事本文とは何の関係のない今日の一枚は、「あけび」の実、だと思うのですが・・・
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