goo blog サービス終了のお知らせ 

平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

禎子内親王 ~天皇家のために生きた女性

2007-08-14 13:45:40 | 歴史人物伝
 後三条天皇というと、桓武天皇の孫班子女王を母とする宇多天皇以来の藤原氏の娘を母に持たない天皇で、摂関政治の終焉を象徴する天皇とも言われています。そんな後三条天皇の母、禎子内親王については以前から興味を持っていました。
 そこで今回は、禎子内親王を紹介したいと思います。

 では、彼女のプロフィールから。

☆禎子内親王(1013~1094)
 三条天皇の第三皇女。母は藤原道長の二女妍子。

 禎子内親王が誕生したとき、皇子の誕生を期待していた外祖父道長は、「何だ、皇女か…」と不快をあらわにしたと伝えられています。それでも彼女は高貴な内親王であると同時に権力者道長のれっきとした外孫でした。彼女の人生には華やかな舞台が用意されていたのです。

 3歳の時に着袴、さらに三后に准ぜられます。5歳の時に可愛がってくれた父の三条天皇と死別しますが、そのあとは摂関家の一員として大切にあつかわれて育てられました。

 治安三年(1023)四月、太皇太后藤原彰子の土御門第で着裳、裳のひもを結んだのは彰子でした。禎子内親王の着裳については『栄花物語』などに記載されており、調度品も儀式も大変華やかだったと伝えられています。こうしてみても、禎子内親王は道長や彰子に可愛がられていたことが想像できると思います。

 万寿四年(1027)、禎子内親王は敦良親王(後の後朱雀天皇)に入内しました。
 この入内に関しては、この二年前に敦良親王の妃であった道長の娘、嬉子が親仁親王を出産後間もなく薨じているので、道長にしてみればその後釜という意味もあったと思います。敦良親王の妃候補としては、禎子内親王と同じく道長の孫である、教通の娘生子という選択肢もあったのですが、道長は、高貴な内親王である禎子内親王を選んだのかもしれません。

 しかし、15歳の禎子内親王は婚姻の当日になっても入内を嫌がって泣いてしまい、なかなか車から降りようとしなかったという話も伝わっています。それでも入内後は、敦良親王との仲はわりとむつまじく、二人の間には良子内親王、娟子内親王、尊仁親王が生まれました。

 敦良親王は長元九年(1036)に兄の後一条天皇のあとを受けて踐祚します。つまり後朱雀天皇です。それに伴い、禎子内親王は翌年長暦元年(1037)二月に中宮に冊立されました。

 ところが、禎子内親王が中宮になる前の長暦元年正月、頼通の養女(女原)子(実父は一条天皇皇子敦康親王)が入内し、3月に中宮に冊立されます。これに伴い禎子内親王は皇后と称されることとなります。

 当時、一条天皇中宮彰子に対して皇后定子、三条天皇中宮妍子に対して皇后(女成)子など、中宮は後ろだてに強い権力を有している后、皇后は後ろだてのない后という風潮がありました。禎子内親王の場合、頼もしい後見役になってくれるはずの祖父道長はこの時すでに薨じており、母の妍子も世を去っていました。つまり後ろだてがなかったのです。聡明な禎子内親王はそのあたりをしっかり理解していたと思われます。さらに禎子内親王にとっては、「皇子を生んだ私という后がありながら、自分の娘を割り込ませてくる頼通が許せない!」という感情を強く持っていたと思います。(女原)子が中宮に冊立されたことによって禎子内親王は後宮を下がり、後朱雀天皇が「後宮に戻ってきて欲しい」と勧めても戻ろうとしませんでした。

「皇子を生んで欲しい」という頼通の期待を一身に受けて入内した(女原)子でしたが、二人の皇女をもうけたあとに24歳という若さで亡くなってしまいます。それを待っていたように、今度は教通が娘の生子を入内させます。まだ(女原)子の喪が明ける前でしたので頼通は激怒、二人の兄弟仲は険悪なものになっていきました。さらに頼宗(頼通・教通の異母兄弟)も娘の延子を入内させます。このように、当時の貴族たちにとって、娘を入内させて皇子を生ませ、天皇の外戚になることは、権力の伸長を図る上で欠かせないことだったのです。が、どの妃にも皇子が生まれませんでした。そして間もなく、後朱雀天皇は病を得て崩御します。後朱雀天皇の皇子は結局、東宮に立てられていた親仁親王と、禎子内親王が生んだ尊仁親王の二人だけでした。当然のことながら、尊仁親王は後冷泉天皇となった親仁親王の東宮に立てられます。

 ところでその頃、禎子内親王と尊仁親王は強い絆で結ばれていました。というのは、後朱雀天皇の踐祚に伴い、良子内親王は伊勢斎王に、娟子内親王は賀茂斎院に卜定され、母の許を離れていったからです。一人残った尊仁親王は幼いながら、母の哀しみや寂しさを理解していたと思いますし、禎子内親王にとっても尊仁親王はただ一つの希望でした。そんな尊仁親王が東宮に立てられたことは、禎子内親王にとっては大きな喜びでした。

 ところが頼通は、尊仁親王が藤原氏腹の皇子でないという理由により、東宮累代の宝物である「壺切剣」を親王に渡さなかったそうです。(『江談抄』)。『栄花物語』は、この時期の禎子内親王の頼通に対する不信感が記されているようです。(女原)子の中宮冊立に始まる二人の対立はまだ続いていたのでした。
 頼通に関して私は、角田文衞先生の「平安の春」の影響で、心の優しい、ちょっと気弱なお坊ちゃんというイメージを持っていたのですが、禎子内親王や尊仁親王に対しては意外と執念深かったのですね~。それだけ頼通は焦っていたのかもしれませんね。父道長の築いた摂関体制を継承するため、何とか娘に皇子を生ませたかったのでしょうけれど、(女原)子は皇子をもうけることなく亡くなり、藤原祇子との間にもうけた寛子はまだ幼くて入内できないでいたのですから…。

 その後頼通は、成長した寛子を後冷泉天皇の後宮に入れますが、ついに皇子をもうけることはありませんでした。後冷泉天皇の他の后妃たちにもなぜか皇子が生まれず、皇位は藤原氏の娘を母としない尊仁親王に移ります。治暦四年(1068)、尊仁親王は踐祚、後三条天皇となります。

 これより先、禎子内親王は寛徳二年(1045)七月に出家をしています。法名を妙法覚と称しました。永承六年(1051)皇太后となり、治暦四年(1068)後三条天皇の踐祚に伴い、太皇太后となります。

 翌延久元年(1069)、院号(陽明門院)が授けられます。女院号を授かったことにより、禎子内親王は調停から上皇と同じ待遇を受けることとなりました。その発言力は絶大なもので、朝廷・後宮・政界に大きな影響を与えたと伝えられています。嘉保元年(1094)正月十六日、鴨院において疱瘡のため崩御。時に82歳でした。

 禎子内親王は摂関家の娘として入内したわけですが、頼通・教通・頼宗の外戚制作によって失速した生活を送り、結果的には摂関家と対立していきました。しかし、頼通らの外戚制作が失敗したため摂関家の力が衰え、禎子内親王はゴッドマザーとして朝廷で大きな発言力を持ちました。彼女は後三条天皇の子である貞仁親王(後の白河天皇)や、その子供たちにまで手をさしのべています。つまり、天皇家のために身を捧げた一生だったというイメージを受けます。
 入内を嫌がって泣いていた少女が様々な苦悩を乗り越えて成長し、発言力を持った一人の女性となった姿を思うとき、私は彼女に女性として、母としての強さを感じます。見事な生き方だと思います。

 ついでに、禎子内親王・後三条天皇親子を支えていたのが道長の息子の一人である能信だったということも注目していいと思います。能信の妻は閑院流藤原氏の藤原実成女であり、養女の茂子は東宮時代の後三条天皇の妃となり貞仁親王を生みました。つまり、禎子内親王は結果的には、新興勢力である閑院流藤原氏の繁栄の基礎をもたらしたわけです。新しい時代を作った女性とも言えそうです。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『歴史のなかの皇女たち』 服藤早苗監修 小学館

☆トップページに戻る

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 色々です♪ | トップ | 最近のエリカ »
最新の画像もっと見る