☆生没年 1025~1068
☆在位期間 1045~1068
☆両親
父・後朱雀天皇 母・藤原嬉子(藤原道長女)
☆略歴(平安時代史事典より)
名は親仁。後朱雀天皇の第一皇子。
万寿二年八月三日、土御門第(上東門第)東対において誕生。母嬉子は、出産後二日にして疫病のため一九年の生涯を閉じ、皇太后正一位が追贈された。母薨去後は、祖母で伯母でもある藤原彰子(上東門院)のもとで成長。万寿四年四月着袴。長暦元年(一〇三七)正月親王宣下。同年七月元服、三品に叙される。更に翌月立太子。寛徳二年(一〇四五)正月、後朱雀天皇の譲位に伴い受禅。
治暦四年四月十九日、里内裏である高陽院中殿において崩御。船岡西野(現京都市北区紫野)で火葬に付され、円教寺に安置された。円教寺陵は京都市右京区竜安寺に所在。日記『後冷泉天皇御記』(散逸)を記したことが知られ、また『後拾遺』以下の勅撰集に七首入集する。
*ちなみに後冷泉天皇の乳母は、紫式部の娘で大弐三位と呼ばれた藤原賢子でした。
関白には、前代に引き続いて藤原頼通が就任し、天皇は政治を頼通に任せ、自らはけまりや和歌に夢中になっていたと伝えられています。後冷泉天皇の世は摂関政治の最末期に位置づけられ、一応安定していました。しかし奥州では、俘囚の安倍頼時・貞任親子が叛乱し、陸奥守源頼義がこれを討伐するといった「前九年の役が勃発するなど、新しい時代の波が着実に押し寄せてきていたことも事実です。
☆父方の親族
祖父・一条天皇 祖母・藤原彰子(藤原道長女)
おじ
敦康親王・後一条天皇
おば
脩子内親王・(女美)子内親王
いとこ
藤原(女原)子(藤原頼通養女・後朱雀天皇中宮) 実父は敦康親王
章子内親王(後冷泉天皇中宮)・馨子内親王(後一条朝の賀茂斎院・後三条天皇皇后) 父は後一条天皇
☆母方の親族
祖父・藤原道長 祖母・源 倫子(源 雅信女)
おじ
藤原頼通 藤原教通 藤原頼宗 藤原顕信 藤原能信 藤原長家
おば
藤原彰子 藤原妍子 藤原威子 藤原寛子 藤原尊子
主ないとこ
藤原通房 橘 俊綱(橘 俊遠養子) 藤原師実 藤原寛子(以上、父は藤原頼通)
藤原信長 藤原生子 藤原歓子(以上 父は藤原教通
藤原俊家 藤原能長(藤原能信養子) 藤原延子(以上 父は藤原頼宗)
藤原道家 藤原忠家(以上 父は藤原長家)
後一条天皇 後朱雀天皇(母は藤原彰子)*後朱雀天皇は実際は父ですが、母方の親族から見るといとこにも当たるわけです。
禎子内親王(母は藤原妍子
章子内親王 馨子内親王(以上、母は藤原威子)
敦元親王 環子内親王(実際の字はぎょくへんではなくにんべんだそうです)(以上 母は藤原寛子)
源 俊房 源 顕房 源 麗子(以上 母は藤原尊子)
☆兄弟姉妹とおい・めい
兄弟(○は同母兄弟、 *は異母兄弟
*後三条天皇
姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
*良子内親王(後朱雀朝の伊勢斎王) *娟子内親王(後朱雀朝の賀茂斎院) *祐子内親王 *(示某)子内親王(後冷泉朝の賀茂斎院) *正子内親王
☆おもな后妃と皇子
章子内親王(後一条天皇皇女)
藤原寛子(藤原頼通女)
藤原歓子(藤原教通女) → 皇子某
☆末裔たち
後冷泉天皇は、藤原歓子との間に皇子を一人もうけましたが、この皇子は夭折してしまいました。他の后妃にはついに皇子が生まれることがありませんでした。頼通や教通は、摂関家の繁栄のために後冷泉天皇に皇太子に立てられる皇子が生まれることを望んでいたのですが、その望みは果たせませんでした。
そのため皇統は摂関家の娘を母に持たない異母弟、後三条天皇の系統に移っていきます。摂関家の力は衰え、やがて院政期という新しい時代が到来することになるのです。
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
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☆在位期間 1045~1068
☆両親
父・後朱雀天皇 母・藤原嬉子(藤原道長女)
☆略歴(平安時代史事典より)
名は親仁。後朱雀天皇の第一皇子。
万寿二年八月三日、土御門第(上東門第)東対において誕生。母嬉子は、出産後二日にして疫病のため一九年の生涯を閉じ、皇太后正一位が追贈された。母薨去後は、祖母で伯母でもある藤原彰子(上東門院)のもとで成長。万寿四年四月着袴。長暦元年(一〇三七)正月親王宣下。同年七月元服、三品に叙される。更に翌月立太子。寛徳二年(一〇四五)正月、後朱雀天皇の譲位に伴い受禅。
治暦四年四月十九日、里内裏である高陽院中殿において崩御。船岡西野(現京都市北区紫野)で火葬に付され、円教寺に安置された。円教寺陵は京都市右京区竜安寺に所在。日記『後冷泉天皇御記』(散逸)を記したことが知られ、また『後拾遺』以下の勅撰集に七首入集する。
*ちなみに後冷泉天皇の乳母は、紫式部の娘で大弐三位と呼ばれた藤原賢子でした。
関白には、前代に引き続いて藤原頼通が就任し、天皇は政治を頼通に任せ、自らはけまりや和歌に夢中になっていたと伝えられています。後冷泉天皇の世は摂関政治の最末期に位置づけられ、一応安定していました。しかし奥州では、俘囚の安倍頼時・貞任親子が叛乱し、陸奥守源頼義がこれを討伐するといった「前九年の役が勃発するなど、新しい時代の波が着実に押し寄せてきていたことも事実です。
☆父方の親族
祖父・一条天皇 祖母・藤原彰子(藤原道長女)
おじ
敦康親王・後一条天皇
おば
脩子内親王・(女美)子内親王
いとこ
藤原(女原)子(藤原頼通養女・後朱雀天皇中宮) 実父は敦康親王
章子内親王(後冷泉天皇中宮)・馨子内親王(後一条朝の賀茂斎院・後三条天皇皇后) 父は後一条天皇
☆母方の親族
祖父・藤原道長 祖母・源 倫子(源 雅信女)
おじ
藤原頼通 藤原教通 藤原頼宗 藤原顕信 藤原能信 藤原長家
おば
藤原彰子 藤原妍子 藤原威子 藤原寛子 藤原尊子
主ないとこ
藤原通房 橘 俊綱(橘 俊遠養子) 藤原師実 藤原寛子(以上、父は藤原頼通)
藤原信長 藤原生子 藤原歓子(以上 父は藤原教通
藤原俊家 藤原能長(藤原能信養子) 藤原延子(以上 父は藤原頼宗)
藤原道家 藤原忠家(以上 父は藤原長家)
後一条天皇 後朱雀天皇(母は藤原彰子)*後朱雀天皇は実際は父ですが、母方の親族から見るといとこにも当たるわけです。
禎子内親王(母は藤原妍子
章子内親王 馨子内親王(以上、母は藤原威子)
敦元親王 環子内親王(実際の字はぎょくへんではなくにんべんだそうです)(以上 母は藤原寛子)
源 俊房 源 顕房 源 麗子(以上 母は藤原尊子)
☆兄弟姉妹とおい・めい
兄弟(○は同母兄弟、 *は異母兄弟
*後三条天皇
姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
*良子内親王(後朱雀朝の伊勢斎王) *娟子内親王(後朱雀朝の賀茂斎院) *祐子内親王 *(示某)子内親王(後冷泉朝の賀茂斎院) *正子内親王
☆おもな后妃と皇子
章子内親王(後一条天皇皇女)
藤原寛子(藤原頼通女)
藤原歓子(藤原教通女) → 皇子某
☆末裔たち
後冷泉天皇は、藤原歓子との間に皇子を一人もうけましたが、この皇子は夭折してしまいました。他の后妃にはついに皇子が生まれることがありませんでした。頼通や教通は、摂関家の繁栄のために後冷泉天皇に皇太子に立てられる皇子が生まれることを望んでいたのですが、その望みは果たせませんでした。
そのため皇統は摂関家の娘を母に持たない異母弟、後三条天皇の系統に移っていきます。摂関家の力は衰え、やがて院政期という新しい時代が到来することになるのです。
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