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平安夢柔話

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管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

第55代 文徳天皇

2013-11-04 09:30:17 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  827~858
☆在位期間 850~858

☆両親
 父・仁明天皇 母・藤原順子

☆略歴

 名は道康。仁明天皇の第一皇子。

 承和九年(842)二月、仁寿殿において元服。同年、承和の変により皇太子恒貞親王が廃されるとそれに伴い、八月立太子。

 嘉祥三年(850)四月、仁明天皇の崩御に伴い即位する

 文徳天皇の即位によって皇太子に立てられたのは、藤原良房女明子所生の生後間もない第四皇子、惟仁親王でした。天皇は紀静子所生の第一皇子惟喬親王を愛し、皇太子に立てたいと願っていましたが、権力者良房の勢力に押され、惟仁親王を立体視せざるを得なかったと伝えられています。
 良房は後年、外孫惟仁親王の即位(せいわてんのう)により、人身初の太政大臣となり、権勢を振るうこととなります。
 このように天皇は、良房によって敷かれたレールの上を歩いて行かざるを得なかった感が強いです。歴代藤原氏の人物の中でも政治力はトップクラスだった良房と同時代に生きていたことが、文徳天皇にとっては不運だったとしか言えないような気がします。

 天安二年(858)八月、三二歳で崩御。山城国葛野郡田邑郷真原岳の田邑陵(現在の京都市右京区太秦)に葬られました。


☆父方の親族

祖父母
 祖父・嵯峨天皇 祖母・橘嘉智子

主なおじ

 源信 源融 源定 源常 源弘 源生

おもなおば

 正子内親王(淳和天皇皇后) 有智子内親王(初代賀茂斎王) 
 仁子内親王(伊勢斎王) 源潔姫(藤原良房室) 源全姫

主ないとこ

 源昇 源淡*以上、父は源融)
 源唱*父は源定
 恒貞親王*母は正子内親王


☆母方の親族

祖父母

 祖父・藤原冬嗣 祖母・藤原美都子

主なおじ

 藤原長良 藤原良房 藤原良相 藤原良門

主ないとこ
 藤原基経 藤原国経 藤原遠経 藤原高経 藤原清経
 藤原高子(清和天皇女御)藤原淑子(藤原氏宗室) 藤原有子(高棟王室)*以上、父は藤原長良
 藤原明子(文徳天皇女御・染殿后)*父は藤原良房
 藤原常行 藤原多可幾子(文徳天皇女御) 藤原多美子(清和天皇女御)*以上、父は藤原良相
 藤原利基 藤原高藤*以上、父は藤原良門


☆兄弟姉妹と甥・姪

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟

 *時康親王(光孝天皇 *宗康親王 *人康親王 *本康親王
 *常康親王 *源多 *源光

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 *新子内親王 *久子内親王(伊勢斎王) *時子内親王(賀茂斎王) 

主な甥と姪

 定省親王(宇多天皇) 是忠親王 是貞親王 綏子内親王 為子内親王 源国紀 源済子 源和子*以上、父は光孝天皇

 操子女王(藤原基経室 時平・忠平らの母) 源興元 *以上、父は人康親王

 元子女王(伊勢斎王 *父は本康親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原明子(藤原良房女) → 惟仁親王(清和天皇) 儀子内親王

 藤原古子(藤原冬嗣女)

 藤原多可幾子(藤原良相女)

 紀 静子(紀 名虎女 → 惟喬親王・惟条親王・恬子内親王(伊勢斎王)・述子内親王・珍子内親王、

 滋野岑子(滋野貞雄女) → 源 本有・源 載有・源 淵子

 伴氏 → 源能有


☆末裔たち

・その後の皇位継承について

 略歴でも触れたように、文徳天皇崩御後は藤原明子所生の惟仁親王が践祚し、清和天皇となりました。清和天皇のあとはその皇子貞明親王(陽成天皇)が皇位を継承しますが、陽成天皇は藤原基経(良房の甥で養子)の不興を買って退位させられます。
 陽成天皇の皇太子は定まっていなかったため、公卿たちの協議の結果、文徳天皇の異母弟に当たる道康親王が践祚しました。(光孝天皇)。皇位は光孝天皇の子孫へと受け継がれていくこととなります。

・惟喬親王

 文徳天皇が皇太子に立てることを望んでいた惟喬親王とはどのような人だったのか、「平安時代史事典」をもとにまとめてみました。

惟喬親王(844~897

 文徳天皇の第一皇子。母は紀名虎女静子

 天安元(857) 元服。四品に叙される。
天安二(858) 大宰帥。
 貞観五(863)二月 弾正尹。常陸太守・上野太守を兼任。
 貞観十四(872)七月、藤原良房薨去の直前、病気を理由として急に出家し、山城国愛宕郡小野に隠棲した。

 文徳天皇は晩年、惟仁を辞めさせて惟喬を皇太子に立てようとし、左大臣源信に諫められ、止められたこともあったそうです。あきらめきれなかったのでしょうか。

 惟喬親王はその後失意のうちに風流の道に生き、渚の院で在原業平、紀有常らと桜狩りをした様子は、「伊勢物語」82・83段に描かれています。

 なお、新能の子には歌人として知られる兼覧王がいます。

・源能有の娘たち

 文徳天皇が伴氏の女性との間にもうけ、後年、右大臣にまで昇進した源能有の娘たちの系譜がなかなか面白いので紹介しておきます。

 娘の一人、昭子は藤原忠平の妻となり、師輔をもうけました。
 師輔の子が兼家であり、その子が道隆や道長であることを考えると、文徳天皇の血がこんな所に!とびっくりしました。

 また別の娘は貞純親王の妻となり、源経基をもうけています。
 異説はありますが、経基の子が満仲、その子孫から日本史で活躍する義家や頼朝、義経などが出ています。これも系図の不思議なところです。(清和天皇の系譜のページの「末裔たち」、及び陽成天皇の系譜のページの「末裔たち」参照)

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