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平安夢柔話

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第68代 後一条天皇

2008-09-05 11:48:47 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1008~1036
☆在位期間 1016~1036
☆両親
 父・一条天皇 母・藤原彰子(藤原道長女)

☆略歴(平安時代史事典より)
 名は敦成。一条天皇の第二皇子。

 寛弘五年九月十一日誕生、同年十月十六日親王宣下、同八年六月十三日皇太子に立ち、長和五年正月二十九日践祚、二月七日即位。寛仁二年(一〇一八)正月三日、十一歳にて元服。同年三月七日道長の三女尚侍威子を納れて妃とした。この時威子は二十歳で、天皇に長ずること十歳。同年四月二十八日女御、十月十六日立后して中宮となり、章子・馨子内親王を生んだ。天皇在位二十一年、長元九年四月十七日に清涼殿に崩じた。年二十九歳。

*後一条天皇は即位したとき、9歳だったので、まず外祖父に当たる藤原道長が摂政となりますが、寛仁元年(1017)、その子頼通がこれに替わり、寛仁三年に関白となって政治を行いました。後宮の女性も威子ただ一人です。道長ファミリーにしっかりと守られていた天皇だったと言えそうです。

 ところで、後一条天皇の若すぎる崩御は、色々なところに波紋をもたらしたようです。

 天皇の寵臣であった源顕基(醍醐源氏の源俊賢の子)は、天皇の崩御後間もなく大原にて出家し、横川に隠棲してしまいます。天皇をよほど慕っていたのでしょうね。

また、中宮威子は、天皇の崩御の約5ヶ月後、痘瘡を病んで天皇の跡を追うように亡くなります。上でも触れたように、威子は天皇よりもかなり年上の后でしたが、小柄で初々しい威子と大人びた天皇は、それほど年が離れているようには見えなかったそうです。後宮のただ一人の女性として、威子は天皇と仲睦まじく生活していたのではないでしょうか。


☆父方の親族

祖父・円融天皇 祖母・藤原詮子(藤原兼家女)

*後一条天皇の父である一条天皇には兄弟姉妹がいませんので、後一条天皇の父方にはおじ・おば・いとこはいません。


☆母方の親族

祖父・藤原道長 祖母・源 倫子(源 雅信女)

おじ
 藤原頼通 藤原教通 藤原頼宗 藤原顕信 藤原能信 藤原長家

おば
 藤原妍子 藤原威子 藤原嬉子 藤原寛子 藤原尊子

主ないとこ
 藤原通房 橘 俊綱(橘 俊遠養子) 藤原師実 藤原寛子(以上、父は藤原頼通)
 藤原信長 藤原生子 藤原歓子(以上 父は藤原教通
 藤原俊家 藤原能長(藤原能信養子) 藤原延子(以上 父は藤原頼宗)
 藤原道家 藤原忠家(以上 父は藤原長家)

 禎子内親王(母は藤原妍子
 章子内親王 馨子内親王(以上、母は藤原威子) *実際は子供ですが、母方の親族から見るといとこにも当たるわけです。
 後冷泉天皇(母は藤原嬉子)
 敦元親王 環子内親王(実際の字はぎょくへんではなくにんべんだそうです)(以上 母は藤原寛子)
 源 俊房 源 顕房 源 麗子(以上 母は藤原尊子)


☆兄弟姉妹とおい・めい

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
 *敦康親王 ○後朱雀天皇

姉妹
 *脩子内親王 *(女美)子内親王

おいとめい
 藤原(女原)子(藤原頼通養女・後朱雀天皇中宮・実父は敦康親王)
 後冷泉天皇・後三条天皇・良子内親王・娟子内親王・祐子内親王・(示某)子内親王・正子内親王(以上、父は後朱雀天皇)


后妃と皇女

 中宮 藤原威子(藤原道長女) → 章子内親王 馨子内親王


☆末裔たち
 後一条天皇には皇子が生まれなかったので、皇統は弟の後朱雀天皇に移りました。皇女たちも子を生まなかったので、後一条天皇の血は耐えてしまったのですが、「末裔たち」の項に何も書かないというのも、後一条天皇がちょっとお気の毒なような気がしたので、彼が残した二人の皇女、章子内親王と馨子内親王について、「平安時代史事典」の記述をもとに簡単に記すことにします。

・章子内親王(1026~1105)
 後一条天皇の第一皇女。
 万寿四年(1027)に内親王宣下、長元三年(1030)に袴着、内親王の最高位である一品に叙されました。長暦元年(1037)十二月、いとこに当たる東宮親仁親王(のちの後冷泉天皇の妃となります。天皇の践祚後、寛徳二年(1045)、女御となり、翌年に中宮となりました。
 後冷泉天皇が崩御した翌年の延久元年(1069)に落飾、女院となって二条院と呼ばれました。晩年は亡父後一条天皇の御陵のかたわらに菩提樹院を営み、長治二年九月同所で崩じました。

・馨子内親王(1029~1093)
 後一条天皇の第二皇女。
 長元二年(1029)四月、内親王宣下。ついで袴着を行い、二品に叙されました。長元四年(1031)、賀茂斎院に卜定されます(大斎院選子内親王の後任)。同九年、父帝の崩御のため斎院を退下します。
永承六年(1051)十一月、いとこに当たる東宮尊仁親王(後の後三条天皇)の妃となりました。天皇践祚の翌年の延久元年(1069)、中宮となります。しかし同五年、後三条天皇の出家とともに尼となりました。承保元年(1074)六月贈皇太后。西院皇后と称せられました。寛治七年九月崩御。

*道長の娘である威子を母とする二人の内親王は、二人とも天皇の中宮になっているのですね。摂関家の縁につながる二人の内親王が、いかに特別待遇を受けていたかがわかるような気がします。

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