
今回は、平安時代の姫君たちにスポットを当てたこの本を紹介します。
☆かぐや姫の結婚 日記が語る平安姫君の縁談事情
著者=繁田信一 発行=PHP研究所 価格=1470円
☆本の内容紹介
平安朝をうつす日記『小右記』を綴った藤原実資。かの藤原道長のライバルと言われた実資には、“千歳まで生きてほしい”との願いをこめて、千古と名づけた娘がいた。王朝貴族として幾多の縁談に翻弄される姫君、藤原千古の運命とは…。
では、もくじとそれぞれの章の簡単な内容を紹介します。なお、☆以降はえりかによる感想です。
序章 ふられ続けるかぐや姫
藤原実資が55歳の時にもうけた娘、千古の結婚に至るまでの事情をかいつまんで説明してあります。
☆千古は、三度目に持ち上がった縁談がようやく実ることになるのですが、どうして二度も破談になったのか、興味をそそられました。先が読みたくなります。
第1章 名門貴族家の姫君
後に右大臣にまで昇進することになる藤原実資(957~1046)の娘、千古は、寛弘八年(1011)に誕生しました。55歳で父親になった実資はよほど嬉しかったらしく、日記「小右記」にしばしば千古のことを書いています。この本はその「小右記」の内容を中心に話が進められていきます。
この章では、千古の生い立ちが語られています。実資は、千古が病気になったと言っては九州から薬を取り寄せたり、行列見物に行きたいとせがまれれば自分が病気で宮中への出仕を休んでいる日であろうと千古を連れて出かけたりなど、とにかく甘い父親です。
☆ついには、「自分の財産はすべて千古に譲る」と決心する実資さん。実資さんには、僧籍に入った実子をはじめ、養子も何人かいたのですが、そんな兄たちを押さえて千古は、実資の莫大な財産の相続人となったわけです。まさに「猫かわいがり」ですね。その理由が知りたくて、次の章を読んでみました。
第2章 かぐや姫の姉君たち
実資は17歳の頃、文徳源氏の源惟正の女を妻に迎えています。その女性は寛和元年(985)に娘を産みました。実資は娘が欲しかったらしく、清水寺に願掛けをしていたので、娘の誕生に大喜びしたことは言うまでもありません。しかしその娘は数え6歳で世を去ってしまいます。それと前後して実資の妻はもう一人娘を産むのですが、妻は間もなく亡くなり、娘も早逝してしまいます。
また実資は、実姉の女房との間にも娘をもうけたようですが、その娘も創逝してしまいます。その後、実資は婉子女王(為平親王女)と結婚。二人は大変仲睦まじかったようですが、なぜか子供には恵まれませんでした。婉子女王も若くして世を去り、その十数年後、女王の女房だった女性との間にもうけたのが千古だったのです。
☆実資さん、千古ちゃんのパパになる前、娘を何人も亡くしていたのですね…。それに女運も良くなかったようで気の毒です。そのため、「もうあんな悲しい思いはしたくない。この子だけはどうしても無事に成長させなくては」と思って大切にしていたのですね。
第3章 妃になれない姫君
千古に最初に縁談話が起こったのは治安三年(1023)のことでした。相手は源師房。村上天皇の皇子、具平親王の嫡男で、子だからに恵まれない関白藤原頼通の養子になっていた人物です。もし、このまま頼通に子が生まれなかったら、関白の跡継ぎになるかもしれないという、申し分のない貴公子です。しかし師房は、藤原道長の女、尊子との縁談がまとまり、この話は破談になってしまいました。どうやらその頃、千古の身には、入内前の朧月夜のような事が起こっていたようなのです。
☆千古の相手は、実資の兄、懐平の子である藤原経任だったようです。千古にはいとこに当たります。もしかしたら幼い頃から、兄のように慕っていた人物だったかもしれません。しかし当時の上流階級の姫君は、本人の意志よりも周りの思惑が優先されてしまう。千古ちゃんにとってははかない恋だったのでしょうね。
第4章 かぐや姫と貴族社会
千古の着裳は、万寿元年(1024)十二月に執り行われました。この章では、その着裳に至るまでの出来事が述べられ、その後、千古が仏事や神事を受ける様子が語られます。どうやら着裳をすませた千古には、上流貴族たちから羨望のまなざしや、時によっては呪詛のようなものも向けられていたようなのです。
☆実資に着裳をすませた結婚適齢期の娘がいるということは、実資がこの娘を使って勢力拡大をはかるかもしれない…という恐れと羨望が、他の貴族たちにはあったようなのですよね。当時の貴族たちの勢力争いのすさまじさがかいま見えるような気がしました。「娘が呪詛されては大変…」という、実資パパの必死さも伝わってきます。
第5章 焦りはじめる竹取の翁
千古に次の縁談話が起こったのは万寿二年(1025)のことでした。相手は藤原道長の子、長家です。
ところが、思わぬ妨害が入ります。その頃、長家は二度目の妻を亡くしたばかり、そこで、前妻の父である藤原斉信が横やりを入れてきたのです。当の長家も優柔不断で、この縁談は前進せず、万寿四年を迎えます。そして結局、この話も破談になってしまいます。
☆実資と斉信は仲が悪かった…という話を聞いたことはあったのですが、こんなところにも因縁があったのですね。実は先にも触れた千古の恋の相手、経任は斉信の養子になっていたようなのです。と言うことは、斉信が千古の結婚を妨げる目的で、経任を千古に近づけたのかもしれない…、ということが、この章に書かれていました。それでは千古ちゃんがあまりにもお気の毒ですね。
第6章 姫君たちの零落
この章の最初には、藤原道兼女の話が述べられています。道兼は「7日関白」と呼ばれた不運な人物ですが、この娘は道兼の死後に生まれました。彼女の母は藤原顕光と再婚しますが、顕光はこの娘に冷たく、ついに彼女は道長女の威子(後一条天皇中宮)の女房になってしまいます。
その他、藤原彰子(一条天皇中宮)の女房になってしまった藤原伊周女、藤原道長の妾になってしまった藤原為光女、藤原寛子(後冷泉天皇皇后)の女房になってしまった敦明親王の皇女、藤原彰子の女房になってしまった花山天皇の皇女など…、零落した姫君のことが書かれていました。世が世なら、上流貴族や皇族の姫として、大切にかしずかれていたはずの姫君たちです。
☆皇族の皇女までが道長の娘や孫たちの女房になっていたとは、驚きました。父や夫を亡くした姫たちは、たとえ生まれが高貴でも、女房勤めをするしか道がなかったのですね。確かに、千古も一歩間違えばこんな風になっていたかもしれませんね。実資が亡くなってしまったら、たとえ財産はすべて譲られることになっていたとしても、兄たちに横取りされなかったとも限りませんし、身分に釣り合った結婚もできませんよね。確かに著者が述べられているように、千古ちゃんは運のいい姫君です。
第7章 かぐや姫の結婚
長元二年(1029)、ついに、千古の縁談がまとまります。相手は藤原頼宗の子、藤原兼頼(道長の孫)。千古より若干年下ですが、身分的には充分釣り合う相手です。最初、あまり乗り気でなかった実資ですが、養子の資平や資頼の働きかけで承諾、正式な北の方ではなかったためこれまで縁談にほとんど口を出さなかった千古の母も協力したようで、19歳の千古はようやく花嫁となることができました。しかし、周りが一生懸命になったのはよいとして、当の千古の気持ちはどうだったのでしょうか。
☆実は、結婚しても千古は実資に行列見物をおねだりし、父と一緒に出かけていたようなのです。時には、病気の夫を家に置いて見物に出かけたこともあったとか…。千古が最もあこがれていたのは、自分をかぐや姫の如くかわいがってくれた実資パパだったのかもしれませんね。
終章 かぐや姫の去りし後
こうして始まった二人の結婚生活ですが、実は、あまり長続きしなかったみたいなのです。
どうやら千古は、長暦元年か2年頃(1037か38)、つまり27歳か28歳の頃に、娘を一人残して亡くなってしまったようなのです。著者は、娘を産んだあとの産褥死なのではないかと推定されていました。千古をかわいがっていた実資はその後、「尋常ではなかった」そうです。(実資養孫、藤原資房の日記『春記』による)。
☆実資さんは、亡くなるまで出家もせず、日記に日頃のぐちを書いてストレス発散していた人だったのかなと思っていたのですが、娘が亡くなったあとは魂が抜けたようになって、ひたすら冥福を祈る日を送っていたのでしょうね。そんなわけで、実資さんのイメージが大きく変わりました。
それにしても、世に「かぐや姫」と呼ばれ、千年の命を持って欲しいとの願いを込めて「千古」と名づけられた姫が若くしてこの世を去ったことも哀しいですが、幼い娘を残して死んでいかなければならなかった千古さんがどんなに心残りだったかを考えると、もっと切なくなります。そしてその忘れ形見の娘は、何と百歳近くまで長生きしたそうです。90まで生きた実資おじいさんの血なのでしょうか?
以上、述べてきましたように、「小右記」を中心に引用しながら、藤原実資の女、千古の生涯が綴られた本です。
この本を読み終わっての感想ですが、若くして亡くなってしまったのはかわいそうですが、千古はやはり、平安時代の姫君の中では幸福な部類に入るのかな…、と思いました。父親から愛され、その父親が高齢だったのにもかかわらず長生きし、身分相応の夫を持つこともできたのですから。
また、藤原実資の日常生活がかいま見られて興味深かったですし、何よりも、平安時代の上流貴族の姫君の実態がわかって、こちらも興味深かったです。引用してある「小右記」の原文も、現代文で訳されていますので読みやすく、わかりやすかったです。お薦めです。
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☆かぐや姫の結婚 日記が語る平安姫君の縁談事情
著者=繁田信一 発行=PHP研究所 価格=1470円
☆本の内容紹介
平安朝をうつす日記『小右記』を綴った藤原実資。かの藤原道長のライバルと言われた実資には、“千歳まで生きてほしい”との願いをこめて、千古と名づけた娘がいた。王朝貴族として幾多の縁談に翻弄される姫君、藤原千古の運命とは…。
では、もくじとそれぞれの章の簡単な内容を紹介します。なお、☆以降はえりかによる感想です。
序章 ふられ続けるかぐや姫
藤原実資が55歳の時にもうけた娘、千古の結婚に至るまでの事情をかいつまんで説明してあります。
☆千古は、三度目に持ち上がった縁談がようやく実ることになるのですが、どうして二度も破談になったのか、興味をそそられました。先が読みたくなります。
第1章 名門貴族家の姫君
後に右大臣にまで昇進することになる藤原実資(957~1046)の娘、千古は、寛弘八年(1011)に誕生しました。55歳で父親になった実資はよほど嬉しかったらしく、日記「小右記」にしばしば千古のことを書いています。この本はその「小右記」の内容を中心に話が進められていきます。
この章では、千古の生い立ちが語られています。実資は、千古が病気になったと言っては九州から薬を取り寄せたり、行列見物に行きたいとせがまれれば自分が病気で宮中への出仕を休んでいる日であろうと千古を連れて出かけたりなど、とにかく甘い父親です。
☆ついには、「自分の財産はすべて千古に譲る」と決心する実資さん。実資さんには、僧籍に入った実子をはじめ、養子も何人かいたのですが、そんな兄たちを押さえて千古は、実資の莫大な財産の相続人となったわけです。まさに「猫かわいがり」ですね。その理由が知りたくて、次の章を読んでみました。
第2章 かぐや姫の姉君たち
実資は17歳の頃、文徳源氏の源惟正の女を妻に迎えています。その女性は寛和元年(985)に娘を産みました。実資は娘が欲しかったらしく、清水寺に願掛けをしていたので、娘の誕生に大喜びしたことは言うまでもありません。しかしその娘は数え6歳で世を去ってしまいます。それと前後して実資の妻はもう一人娘を産むのですが、妻は間もなく亡くなり、娘も早逝してしまいます。
また実資は、実姉の女房との間にも娘をもうけたようですが、その娘も創逝してしまいます。その後、実資は婉子女王(為平親王女)と結婚。二人は大変仲睦まじかったようですが、なぜか子供には恵まれませんでした。婉子女王も若くして世を去り、その十数年後、女王の女房だった女性との間にもうけたのが千古だったのです。
☆実資さん、千古ちゃんのパパになる前、娘を何人も亡くしていたのですね…。それに女運も良くなかったようで気の毒です。そのため、「もうあんな悲しい思いはしたくない。この子だけはどうしても無事に成長させなくては」と思って大切にしていたのですね。
第3章 妃になれない姫君
千古に最初に縁談話が起こったのは治安三年(1023)のことでした。相手は源師房。村上天皇の皇子、具平親王の嫡男で、子だからに恵まれない関白藤原頼通の養子になっていた人物です。もし、このまま頼通に子が生まれなかったら、関白の跡継ぎになるかもしれないという、申し分のない貴公子です。しかし師房は、藤原道長の女、尊子との縁談がまとまり、この話は破談になってしまいました。どうやらその頃、千古の身には、入内前の朧月夜のような事が起こっていたようなのです。
☆千古の相手は、実資の兄、懐平の子である藤原経任だったようです。千古にはいとこに当たります。もしかしたら幼い頃から、兄のように慕っていた人物だったかもしれません。しかし当時の上流階級の姫君は、本人の意志よりも周りの思惑が優先されてしまう。千古ちゃんにとってははかない恋だったのでしょうね。
第4章 かぐや姫と貴族社会
千古の着裳は、万寿元年(1024)十二月に執り行われました。この章では、その着裳に至るまでの出来事が述べられ、その後、千古が仏事や神事を受ける様子が語られます。どうやら着裳をすませた千古には、上流貴族たちから羨望のまなざしや、時によっては呪詛のようなものも向けられていたようなのです。
☆実資に着裳をすませた結婚適齢期の娘がいるということは、実資がこの娘を使って勢力拡大をはかるかもしれない…という恐れと羨望が、他の貴族たちにはあったようなのですよね。当時の貴族たちの勢力争いのすさまじさがかいま見えるような気がしました。「娘が呪詛されては大変…」という、実資パパの必死さも伝わってきます。
第5章 焦りはじめる竹取の翁
千古に次の縁談話が起こったのは万寿二年(1025)のことでした。相手は藤原道長の子、長家です。
ところが、思わぬ妨害が入ります。その頃、長家は二度目の妻を亡くしたばかり、そこで、前妻の父である藤原斉信が横やりを入れてきたのです。当の長家も優柔不断で、この縁談は前進せず、万寿四年を迎えます。そして結局、この話も破談になってしまいます。
☆実資と斉信は仲が悪かった…という話を聞いたことはあったのですが、こんなところにも因縁があったのですね。実は先にも触れた千古の恋の相手、経任は斉信の養子になっていたようなのです。と言うことは、斉信が千古の結婚を妨げる目的で、経任を千古に近づけたのかもしれない…、ということが、この章に書かれていました。それでは千古ちゃんがあまりにもお気の毒ですね。
第6章 姫君たちの零落
この章の最初には、藤原道兼女の話が述べられています。道兼は「7日関白」と呼ばれた不運な人物ですが、この娘は道兼の死後に生まれました。彼女の母は藤原顕光と再婚しますが、顕光はこの娘に冷たく、ついに彼女は道長女の威子(後一条天皇中宮)の女房になってしまいます。
その他、藤原彰子(一条天皇中宮)の女房になってしまった藤原伊周女、藤原道長の妾になってしまった藤原為光女、藤原寛子(後冷泉天皇皇后)の女房になってしまった敦明親王の皇女、藤原彰子の女房になってしまった花山天皇の皇女など…、零落した姫君のことが書かれていました。世が世なら、上流貴族や皇族の姫として、大切にかしずかれていたはずの姫君たちです。
☆皇族の皇女までが道長の娘や孫たちの女房になっていたとは、驚きました。父や夫を亡くした姫たちは、たとえ生まれが高貴でも、女房勤めをするしか道がなかったのですね。確かに、千古も一歩間違えばこんな風になっていたかもしれませんね。実資が亡くなってしまったら、たとえ財産はすべて譲られることになっていたとしても、兄たちに横取りされなかったとも限りませんし、身分に釣り合った結婚もできませんよね。確かに著者が述べられているように、千古ちゃんは運のいい姫君です。
第7章 かぐや姫の結婚
長元二年(1029)、ついに、千古の縁談がまとまります。相手は藤原頼宗の子、藤原兼頼(道長の孫)。千古より若干年下ですが、身分的には充分釣り合う相手です。最初、あまり乗り気でなかった実資ですが、養子の資平や資頼の働きかけで承諾、正式な北の方ではなかったためこれまで縁談にほとんど口を出さなかった千古の母も協力したようで、19歳の千古はようやく花嫁となることができました。しかし、周りが一生懸命になったのはよいとして、当の千古の気持ちはどうだったのでしょうか。
☆実は、結婚しても千古は実資に行列見物をおねだりし、父と一緒に出かけていたようなのです。時には、病気の夫を家に置いて見物に出かけたこともあったとか…。千古が最もあこがれていたのは、自分をかぐや姫の如くかわいがってくれた実資パパだったのかもしれませんね。
終章 かぐや姫の去りし後
こうして始まった二人の結婚生活ですが、実は、あまり長続きしなかったみたいなのです。
どうやら千古は、長暦元年か2年頃(1037か38)、つまり27歳か28歳の頃に、娘を一人残して亡くなってしまったようなのです。著者は、娘を産んだあとの産褥死なのではないかと推定されていました。千古をかわいがっていた実資はその後、「尋常ではなかった」そうです。(実資養孫、藤原資房の日記『春記』による)。
☆実資さんは、亡くなるまで出家もせず、日記に日頃のぐちを書いてストレス発散していた人だったのかなと思っていたのですが、娘が亡くなったあとは魂が抜けたようになって、ひたすら冥福を祈る日を送っていたのでしょうね。そんなわけで、実資さんのイメージが大きく変わりました。
それにしても、世に「かぐや姫」と呼ばれ、千年の命を持って欲しいとの願いを込めて「千古」と名づけられた姫が若くしてこの世を去ったことも哀しいですが、幼い娘を残して死んでいかなければならなかった千古さんがどんなに心残りだったかを考えると、もっと切なくなります。そしてその忘れ形見の娘は、何と百歳近くまで長生きしたそうです。90まで生きた実資おじいさんの血なのでしょうか?
以上、述べてきましたように、「小右記」を中心に引用しながら、藤原実資の女、千古の生涯が綴られた本です。
この本を読み終わっての感想ですが、若くして亡くなってしまったのはかわいそうですが、千古はやはり、平安時代の姫君の中では幸福な部類に入るのかな…、と思いました。父親から愛され、その父親が高齢だったのにもかかわらず長生きし、身分相応の夫を持つこともできたのですから。
また、藤原実資の日常生活がかいま見られて興味深かったですし、何よりも、平安時代の上流貴族の姫君の実態がわかって、こちらも興味深かったです。引用してある「小右記」の原文も、現代文で訳されていますので読みやすく、わかりやすかったです。お薦めです。
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