☆生没年 868~949
☆在位期間 876~884
☆両親
父・清和天皇 母・藤原高子(藤原長良女・藤原良房養女)
☆略歴
名は貞明。清和天皇の第一皇子。
貞観十年(868)十二月、染殿において誕生。翌年二月立太子。同十八年十一月、九歳で践祚。翌元慶元年(八七七)正月、豊楽殿において即位。おじの藤原基経が事実上、政務を執り行った。
同三年読書始(『御註孝経』)。同六年元服。加冠は太政大臣藤原基経が、理髪は大納言源多がそれぞれ奉仕した。
元慶八年(884)、十七歳で退位。
退位の理由については、乳母を手打ちにしたり、宮中で馬を乗り回したり、小動物に悪戯をして殺生を重ねるなど乱行が多く藤原基経の不興を買ったためだとも言われているが、真相は不明。
譲位後は陽成院を後院とする。歌合を主催するなど、和歌に対する素養も深く、「つくばねの峰よりおつるみなの河恋ぞつもりて淵となりける」は『百人一首』13番目の歌として有名。
天暦三年(949)九月二十日、病により出家。同二十九日、冷泉院において崩御。神楽岡東陵(現在、京都市左京区浄土寺に所在)に葬られる。
十七歳で譲位して約60年間、上皇として過ごした陽成さん、若い頃は源融の別荘を襲うなど乱行も多かったようですが、次第に落ち着いて、天皇家や摂関家との融和を計っていったようです。でも、どのような心情で上皇としての生活を送っていたのか、気になるところです。
☆父方の親族
祖父母
祖父・文徳天皇 祖母・藤原明子
主なおじ
惟喬親王 惟条親王 惟彦親王 源能有
主なおば
恬子内親王(伊勢斎王) 掲子内親王(伊勢斎王) 晏子内親王(伊勢斎王)
主ないとこ
源厳子(清和天皇女御) 源昭子(藤原忠平室) 女子(貞純親王妃 )*以上 父は源能有
直子女王(賀茂斎院) *父は惟彦親王
☆母方の親族
祖父母
祖父・藤原長良 母・藤原乙春(藤原総継女)
主なおじ
藤原基経 藤原国経 藤原遠経 藤原高経 藤原清経
☆主なおば
藤原淑子(藤原氏宗室) 藤原有子(高棟王室)
主ないとこ
藤原時平 藤原仲平 藤原忠平 藤原温子(宇多天皇女御) 藤原佳珠子(清和天皇女御) 藤原佳美子(光孝天皇女御) 藤原穏子(醍醐天皇皇后)*父は藤原基経
藤原良範(藤原純友の父)*父は藤原遠経)
藤原惟岳(藤原倫寧の父=蜻蛉日記作者の祖父)*父は藤原高経
藤原元名(紫式部の母の曾祖父)*父は藤原清経
☆兄弟姉妹と甥・姪
主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
○貞保親王 *貞辰親王 *貞固親王 *貞数親王
*貞信親王 *貞頼親王 *貞純親王 *貞元親王
主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
○敦子内親王 *識子内親王(伊勢斎王) *包子内親王
主な甥と姪
源経基*父は貞純親王(異説があるので後述します。)
源兼忠 源兼信(父は貞元親王)
☆主な后妃と皇子・皇女
綏子内親王(光孝天皇皇女)
紀君(紀氏) → 源清蔭
藤原遠長女 → 元良親王 元平親王
姉子女王 → 元長親王 元利親王 長子内親王 厳子内親王
佐伯氏 → 源 清遠
伴氏 → 源 清鑒
☆末裔たち
○その後の皇位継承について
陽成天皇は上でも書きましたように、17歳で譲位しました。そのあとを継いだのは陽成天皇の曾祖父に当たる仁明天皇の第三皇子、時康親王でした。これが光孝天皇です。
光孝天皇のあとは、その皇子である宇多天皇が皇位につきました。
そのため陽成天皇の子孫は、皇位につくことはありませんでした。陽成天皇の皇子たちは臣籍に下った者、一親王として生涯を送った者など様々ですが、中でも元良親王は恋多き親王、「百人一首」20番目の歌の作者としても有名です。
○清和源氏は実は陽成源氏?
清和天皇の「末裔たち」でも少し触れましたが、清和天皇の皇子貞純親王の子、源経基は実は、陽成天皇皇子の元平親王の子という説があるのです。
経基が貞純親王の子であるということは、南北朝時代に編纂された「尊卑分脈」に記述されているものなのですが、実は貞純親王の没年、経基とその子、源満仲の生年には大きな矛盾があるそうです。
「尊卑分脈」によると、経基の生年は921年、しかし、その父であるはずの貞純親王の没年は916年、子である満仲の生年は912年と記述されています。つまり、父は経基が生まれる数年前に世を去り、子供は本人より早く生まれたことになってしまうのです。
この矛盾を解決するものとして、近代に編纂され、同じ清和源氏説を採用している「系図纂要」があります。こちらによると、経基の生年は寛平年間とのこと。しかしこの説に従うと、一世源氏でしかも文徳天皇皇子源能有の女を母とする経基が、50歳くらいになるまで叙爵されず、武蔵介で据え置かれていたことになり、どう考えても不自然です。そもそも「系図纂要」は信憑性にも乏しいとのこと。
そこでいよいよ清和源氏は実は陽成源氏だったという話に移ります。
この説には、河内源氏の祖となった源頼信が八幡大菩薩に対する帰依を告白した文書に、自分の祖先についての記述が書かれていることが根拠になっているそうです。この文書には、頼信の祖父、源経基の父は貞純親王ではなく元平親王、そしてその父は陽成天皇、そこから清和天皇につながっているとあるのだそうです。
ではどうして系図を改変したのか?
それは、陽成天皇が藤原基経によって退位させられた不名誉な天皇だから、そして、ライバルの桓武平氏の祖、桓武天皇は平安遷都を成し遂げた英明な帝だから、こちらも不名誉な陽成天皇ではなく、その父である清和天皇が祖というように、系図を改変しようという、源頼朝の考えだったようです。
そこで私なりに少し調べてみたのですが、元平親王の同母兄、元良親王の生年は890年なので、弟である元平親王の生年はおそらく895年前後ということになると思います。すると、「尊卑分脈」によると921年生まれとされる経基との矛盾はなくなるわけですよね。
しかし、これでも満仲との矛盾は解決しないし、仮に「系図纂要」に記述されているように経基が寛平年間の生まれとすると、父である元平親王とほぼ同世代になってしまいます。
いずれのことから私にも、源経基が清和天皇の孫なのか、陽成天皇の孫なのか、判断がつかないです。
ただ以前、twitterでフォロアーさんと、「満仲や頼光は暴れん坊だから、おとなしそうな清和天皇より、暴れん坊の陽成天皇の子孫だと考えた方がふさわしいよね」というようなことを話したことがあります。それに、清和天皇が実は陽成源氏だったとしても、清和天皇の血を引いていることには変わりないわけですし、それほど気にしなくていい問題なのかもしれません。タイムスリップをして貞純親王、元平親王、源経基のDNA鑑定をするという、夢のまた夢のような話が実現しない限り、この問題は永遠に謎のままなのかもしれませんよね。
(以上、参考「源満仲・頼光 元木泰雄著 ミネルヴァ書房)
○元平親王の子孫がこんな所に…
さらにそれとは別に、元平親王の血統はもう一つ、思いがけないところとつながっていました。
元平親王には、昭子女王という娘がいました。この昭子女王は長じて藤原兼通の室となり、(女皇)子と顕光を生みました。
(女皇)子は円融天皇に入内し、皇后となりました。
顕光は村上天皇の皇女、盛子内親王との間に重家元子、延子をもうけました。つまり権力欲は強かったけれどちょっとおっちょこちょいの顕光さんは陽成天皇の曾孫ということになります。系譜の面白いところですね。
☆陽成天皇に関するお薦めの本
陽成院 ー乱行の帝 山下道代著 新典社
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☆在位期間 876~884
☆両親
父・清和天皇 母・藤原高子(藤原長良女・藤原良房養女)
☆略歴
名は貞明。清和天皇の第一皇子。
貞観十年(868)十二月、染殿において誕生。翌年二月立太子。同十八年十一月、九歳で践祚。翌元慶元年(八七七)正月、豊楽殿において即位。おじの藤原基経が事実上、政務を執り行った。
同三年読書始(『御註孝経』)。同六年元服。加冠は太政大臣藤原基経が、理髪は大納言源多がそれぞれ奉仕した。
元慶八年(884)、十七歳で退位。
退位の理由については、乳母を手打ちにしたり、宮中で馬を乗り回したり、小動物に悪戯をして殺生を重ねるなど乱行が多く藤原基経の不興を買ったためだとも言われているが、真相は不明。
譲位後は陽成院を後院とする。歌合を主催するなど、和歌に対する素養も深く、「つくばねの峰よりおつるみなの河恋ぞつもりて淵となりける」は『百人一首』13番目の歌として有名。
天暦三年(949)九月二十日、病により出家。同二十九日、冷泉院において崩御。神楽岡東陵(現在、京都市左京区浄土寺に所在)に葬られる。
十七歳で譲位して約60年間、上皇として過ごした陽成さん、若い頃は源融の別荘を襲うなど乱行も多かったようですが、次第に落ち着いて、天皇家や摂関家との融和を計っていったようです。でも、どのような心情で上皇としての生活を送っていたのか、気になるところです。
☆父方の親族
祖父母
祖父・文徳天皇 祖母・藤原明子
主なおじ
惟喬親王 惟条親王 惟彦親王 源能有
主なおば
恬子内親王(伊勢斎王) 掲子内親王(伊勢斎王) 晏子内親王(伊勢斎王)
主ないとこ
源厳子(清和天皇女御) 源昭子(藤原忠平室) 女子(貞純親王妃 )*以上 父は源能有
直子女王(賀茂斎院) *父は惟彦親王
☆母方の親族
祖父母
祖父・藤原長良 母・藤原乙春(藤原総継女)
主なおじ
藤原基経 藤原国経 藤原遠経 藤原高経 藤原清経
☆主なおば
藤原淑子(藤原氏宗室) 藤原有子(高棟王室)
主ないとこ
藤原時平 藤原仲平 藤原忠平 藤原温子(宇多天皇女御) 藤原佳珠子(清和天皇女御) 藤原佳美子(光孝天皇女御) 藤原穏子(醍醐天皇皇后)*父は藤原基経
藤原良範(藤原純友の父)*父は藤原遠経)
藤原惟岳(藤原倫寧の父=蜻蛉日記作者の祖父)*父は藤原高経
藤原元名(紫式部の母の曾祖父)*父は藤原清経
☆兄弟姉妹と甥・姪
主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
○貞保親王 *貞辰親王 *貞固親王 *貞数親王
*貞信親王 *貞頼親王 *貞純親王 *貞元親王
主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
○敦子内親王 *識子内親王(伊勢斎王) *包子内親王
主な甥と姪
源経基*父は貞純親王(異説があるので後述します。)
源兼忠 源兼信(父は貞元親王)
☆主な后妃と皇子・皇女
綏子内親王(光孝天皇皇女)
紀君(紀氏) → 源清蔭
藤原遠長女 → 元良親王 元平親王
姉子女王 → 元長親王 元利親王 長子内親王 厳子内親王
佐伯氏 → 源 清遠
伴氏 → 源 清鑒
☆末裔たち
○その後の皇位継承について
陽成天皇は上でも書きましたように、17歳で譲位しました。そのあとを継いだのは陽成天皇の曾祖父に当たる仁明天皇の第三皇子、時康親王でした。これが光孝天皇です。
光孝天皇のあとは、その皇子である宇多天皇が皇位につきました。
そのため陽成天皇の子孫は、皇位につくことはありませんでした。陽成天皇の皇子たちは臣籍に下った者、一親王として生涯を送った者など様々ですが、中でも元良親王は恋多き親王、「百人一首」20番目の歌の作者としても有名です。
○清和源氏は実は陽成源氏?
清和天皇の「末裔たち」でも少し触れましたが、清和天皇の皇子貞純親王の子、源経基は実は、陽成天皇皇子の元平親王の子という説があるのです。
経基が貞純親王の子であるということは、南北朝時代に編纂された「尊卑分脈」に記述されているものなのですが、実は貞純親王の没年、経基とその子、源満仲の生年には大きな矛盾があるそうです。
「尊卑分脈」によると、経基の生年は921年、しかし、その父であるはずの貞純親王の没年は916年、子である満仲の生年は912年と記述されています。つまり、父は経基が生まれる数年前に世を去り、子供は本人より早く生まれたことになってしまうのです。
この矛盾を解決するものとして、近代に編纂され、同じ清和源氏説を採用している「系図纂要」があります。こちらによると、経基の生年は寛平年間とのこと。しかしこの説に従うと、一世源氏でしかも文徳天皇皇子源能有の女を母とする経基が、50歳くらいになるまで叙爵されず、武蔵介で据え置かれていたことになり、どう考えても不自然です。そもそも「系図纂要」は信憑性にも乏しいとのこと。
そこでいよいよ清和源氏は実は陽成源氏だったという話に移ります。
この説には、河内源氏の祖となった源頼信が八幡大菩薩に対する帰依を告白した文書に、自分の祖先についての記述が書かれていることが根拠になっているそうです。この文書には、頼信の祖父、源経基の父は貞純親王ではなく元平親王、そしてその父は陽成天皇、そこから清和天皇につながっているとあるのだそうです。
ではどうして系図を改変したのか?
それは、陽成天皇が藤原基経によって退位させられた不名誉な天皇だから、そして、ライバルの桓武平氏の祖、桓武天皇は平安遷都を成し遂げた英明な帝だから、こちらも不名誉な陽成天皇ではなく、その父である清和天皇が祖というように、系図を改変しようという、源頼朝の考えだったようです。
そこで私なりに少し調べてみたのですが、元平親王の同母兄、元良親王の生年は890年なので、弟である元平親王の生年はおそらく895年前後ということになると思います。すると、「尊卑分脈」によると921年生まれとされる経基との矛盾はなくなるわけですよね。
しかし、これでも満仲との矛盾は解決しないし、仮に「系図纂要」に記述されているように経基が寛平年間の生まれとすると、父である元平親王とほぼ同世代になってしまいます。
いずれのことから私にも、源経基が清和天皇の孫なのか、陽成天皇の孫なのか、判断がつかないです。
ただ以前、twitterでフォロアーさんと、「満仲や頼光は暴れん坊だから、おとなしそうな清和天皇より、暴れん坊の陽成天皇の子孫だと考えた方がふさわしいよね」というようなことを話したことがあります。それに、清和天皇が実は陽成源氏だったとしても、清和天皇の血を引いていることには変わりないわけですし、それほど気にしなくていい問題なのかもしれません。タイムスリップをして貞純親王、元平親王、源経基のDNA鑑定をするという、夢のまた夢のような話が実現しない限り、この問題は永遠に謎のままなのかもしれませんよね。
(以上、参考「源満仲・頼光 元木泰雄著 ミネルヴァ書房)
○元平親王の子孫がこんな所に…
さらにそれとは別に、元平親王の血統はもう一つ、思いがけないところとつながっていました。
元平親王には、昭子女王という娘がいました。この昭子女王は長じて藤原兼通の室となり、(女皇)子と顕光を生みました。
(女皇)子は円融天皇に入内し、皇后となりました。
顕光は村上天皇の皇女、盛子内親王との間に重家元子、延子をもうけました。つまり権力欲は強かったけれどちょっとおっちょこちょいの顕光さんは陽成天皇の曾孫ということになります。系譜の面白いところですね。
☆陽成天皇に関するお薦めの本
陽成院 ー乱行の帝 山下道代著 新典社
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