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平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
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藤原元子 ー天皇の女御から情熱的な恋愛へー

2005-06-05 00:32:59 | 歴史人物伝
 平安時代、ドラマチックな人生を送った女性は数多くいます。何人かの男性と恋をし、数多くの優れた歌を残した和泉式部もそのうちの一人だと思います。
 そして、彼女とほとんど同時代を生きた一条天皇女御の藤原元子も負けないくらいのドラマチックな人生を生きています。
今回は、この藤原元子についてお話ししますね。

 彼女の生没年はよくわかりません。天元二年(979)頃の生まれではないかと推定されていますが、没年はほとんどわかりません。ここでは、先に書いたように979年生まれとして話を進めさせていただきます。

 彼女の父は藤原顕光(藤原兼家の兄兼通の長男)といって、最終的には左大臣にまで昇進した人です。そして、母は村上天皇の皇女・盛子内親王です。ついでに言うと元子の父方の祖母、つまり顕光の母は陽成天皇の孫でした。
 つまり、元子は父方、母方ともに皇族の血を受けているわけです。そのような理由からかはよくわかりませんが、元子も同母兄の重家もかなりの美形だったようです。

 さて、美しく成長した元子は18歳の時人生の転機を迎えます。「おたくの姫様を時の帝、一条天皇の妃に…」という話が舞い込んだのでした。
 話を持ってきたのは当時一上の左大臣であった藤原道長でした。実は当時の道長は、少し微妙な立場でした。一条天皇の寵愛を一身に受けている中宮定子が懐妊していたのです。定子の父道隆はすでに薨じており、兄弟たちも失脚して流罪になっているとはいえ、定子に皇子が産まれたらたちまち勢力を盛り返してしまうかもしれません。道長の娘はまだ幼くて入内できない今、それだけは避けたい……。そこで思いついたのが他の女性を天皇に入内させることでした。そこで当時の右大臣顕光と、内大臣公季に娘の入内の話を持ち込んだのでした。

 道長のそんな心の中を知ってか知らずか、顕光は大喜びで元子の入内の準備を始めました。一条天皇の許に入内した元子は承香殿をあてがわれ、「承香殿の女御」と呼ばれることになります。そして、幸い天皇に気に入られ、間もなく懐妊の兆しが現れたのです。顕光が腰をぬかさんばかりに喜んだのは言うまでもありません。「もし元子に皇子が産まれたら、わしは将来帝の外祖父だ!!」
 実はこの顕光という方、人はいいのですがかなりおっちょこちょいなところがありました。これは後の話ですが、儀式の時、順番を間違えて顰蹙を買ったこともあります。
また、道長の「この世をば…」の歌を日記に書き残した実資は、顕光のことを「無能の大臣」と痛烈に批判しています。そのように、他の公卿たちから馬鹿にされているような所がありました。なので、「顕光が帝の外祖父になる?これは世の中がひっくり返る……。」と当時の公卿たちは思っていたかもしれませんね。

 さて、懐妊した元子は意気揚々と承香殿を退出しました。同じ頃入内した公季の娘義子(こちらは弘徽殿の女御と呼ばれていました。)はさっぱり懐妊の兆しがなかったので、悔しくてなりません。そこで、「承香殿の退出を見物してやろう。」ということで、みんな御簾に張り付いてしまったので、外から見ると御簾がふくらんでいるように見えたといいます。そこで、元子の女童が「あら、こちらはすだれだけがはらんでいるわ!」と言ったとか…。

 出産のために内裏を退出して実家の堀河殿に里下りした元子でしたが、産み月になってもさっぱり出産の兆しがありませんでした。顕光は心配になり、父娘共々広隆寺に参詣することにしたのでした。その甲斐があったのか、元子は広隆寺で産気づいてしまいます。顕光はびっくりするやら嬉しいやらでおろおろ。しかし、元子の体内から出てきたのは赤ちゃんではなく、大量の水でした。……
 これは、「栄花物語」に載っている話ですが、史実は多分、死産だったのではなかったかと思います。どちらにしても、顕光・元子親子にとっては恥ずかしさとやり切れなさのあまり、どうしていいかわからないという状態だったと思います。なぜならば、出産の場所がお寺だっただけに、都中に噂が広まってしまいましたから…。
 しかも、意気揚々と内裏を退出した上、女童の不用意な発言ゆえ、元子は恥ずかしくて内裏に戻ることもできませんでした。その上、母の盛子内親王がその頃世を去り、元子自身もショックから体調を崩していたようです。
 心身ともに傷つき内裏に戻れないでいた元子に対して、一条天皇は「早く内裏に戻っておいで。」と何度も文を下さいました。一条天皇は本当に優しい方だったようです。そこで元子はようやく内裏に戻る決心をしたのでした。

 ちょうどこの頃に、一条天皇の周りでは大きな変化が起こっていました。長保元年(999)、12歳になった道長の娘彰子が入内します。彰子は翌年女御から中宮となり、中宮定子は皇后と称することになりました。そしてその年の暮れ、定子は3人目の子供を産んで間もなく崩御されました。一条天皇が悲しまれたことは言うまでもありません。
 元子が内裏に戻ったのは、そのように一条天皇の周りがあわただしく変化しているときでした。そして定子亡き後の一条天皇の寵愛を、一番強く受けたのは他ならぬ元子だったのです。

 一条天皇の元子に対する愛情の現れにこんな話があります。
 一条天皇は、藤原顕光の家司であった平維衡を伊勢守に推薦したのでした。ちなみに平維衡は、平忠盛・清盛の直系の祖先に当たる人物です。
 しかし維衡は色々問題のある人物でした。伊勢国において平致頼と合戦をした前歴があるのもその一例ですが、何よりもその伊勢に自分の本拠地を持っていたのが問題でした。その頃は、○○国に本拠地を持っている者は、同じ○○国の受領には任じないというのが決まりになっており、一種の常識でもありました。つまり、「維衡を伊勢守に」と言う一条天皇の推薦は、とんでもない常識はずれなことだったのです。そこまでして維衡を伊勢守にしようとしたのは、維衡が顕光の家司だったからでしょうね。つまり、一条天皇は元子の父である顕光に手をさしのべたかったのだと思います。しかし、維衡は寛弘三年正月二十八日の除目で伊勢守に任じられたものの、同年三月十九日に解任されます。道長が一条天皇を圧迫し、維衡の伊勢守を解任させたと思われます。

 そこまでして元子を寵愛した一条天皇でしたが、道長の権力が絶大なものになってくると、彰子を放っておくわけにはいかなかったようです。何よりも、彰子は性格が素直で優しく、定子の忘れ形見の敦康親王を自分の子のように可愛がっていたといいます。そんな彰子に対して一条天皇も徐々に愛情を感じ始めたのかもしれません。やがて二人の間には二人の皇子が産まれました。そして、それと反比例するように元子の影は薄くなっていったのではないでしょうか。

 寛弘八年(1011)六月、一条天皇は32歳で崩御されました。そして、皇太子だった一条天皇のいとこの三条天皇が即位しました。それと共に、元子は堀河殿に下がることとなります。

 しかし、元子の人生はこれで終わったのではありません。やがて元子の許に一人の男性が現れます。
 その人の名は源頼定……。村上天皇の孫に当たる人でした。
 しかし、元子の許に頼定が通ってきていることを知った顕光は激怒しました。
 頼定は有名なプレーボーイで、これまで関わった女性は数知れずいたようです。
その一人に、三条天皇がまだ皇太子で居貞親王と呼ばれていたときの尚侍の藤原綏子がいます。綏子は藤原兼家の娘で、道長の異母妹に当たります。尚侍と言っても、綏子は女御とほとんど変わらない立場でした。しかし綏子と頼定は三条天皇の目を盗んで密通を重ね、ついに綏子は懐妊してしまったとも言われています。
三条天皇はこのことに大いに怒り、自分の在位中は頼定の参内を許しませんでした。
 実は、元子の妹の延子はこの三条天皇の第一皇子である敦明親王の女御であり、二人の間には皇子も産まれていました。一条天皇の崩御と共に元子は内裏を下がり、息子の重家もすでに出家して官界から去った今、顕光にとっては延子は希望の星だったのです。なので、三条天皇は絶対に怒らせてはならない存在でした。
 それなのに姉の元子が三条天皇から不興を買っている男と通じているとなると、顕光の立場がありません。顕光は元子の黒髪を無理やり切ってしまいました。「尼になって出ていけ!!」と言ったともいわれています。
しかし元子も負けてはいませんでした。「それならお父様、さようなら~。」と言ってさっさと堀河殿を出ていってしまいます。そして、頼定と二人で家司の家で暮らし始めてしまいました。

 それから数年後、元子と頼定はやっと顕光に許され、堀河殿で暮らすことができるようになったのですが、父と娘の仲はどうにもしっくり行かなかったようです。しかも、幸せはあまり長続きせず、頼定は寛仁四年(1020)六月に世を去りました。
 やがて妹の延子と顕光も相次いで世を去ります。延子の夫の敦明親王が道長の婿になったことで、道長を恨みながら死んでいったと言われています。
 しかし、残された元子は寂しいながらもかなり満ち足りた余生を送ったのではないでしょうか。元子の気持ちを察することは想像するしかありませんが、頼定との恋は本物だったと私は思うのです。「心から愛する人ができ、相手も自分のことを愛してくれた……」、それだけで充分だったのではないでしょうか。

 なお「尊卑分脈」には、元子と頼定との間には子供はいなかったことになっていますが、角田文衞先生の著書「承香殿の女御」によると、二人の間には娘が二人産まれていたとなっています。
 のちの話になりますが、道長の長男頼通の養女となった藤原(女原)子(実父は一条天皇と定子との間に産まれた敦康親王)が、後朱雀天皇の許に入内する際、元子と頼定との間に産まれた娘の一人が、「御匣殿」という女房名で女房として出仕しているようです。これが事実とすると、元子はしっかり頼通にも接近して娘を売り込んでいたということになります。彼女の政治力のすごさを感じる思いです。
なお最初の方でも書きましたが、元子の没年は記録がなく、不明だそうです。

秋晴れの午後、久しぶりに京都を訪れた私は、二条城を堀河通りを挟んだ向かい側に立ち、元子のことを偲びました。このあたりは現在、ホテルが建ち並んでいますが、平安時代には堀河殿が建っていたのだそうです。元子が生涯の大半を過ごした場所です。彼女はここで、どのような気持ちで毎日を送っていたのでしょうか。

 名門の貴族の娘として産まれ、親に言われるままに入内し、水を産んでしまうという不運にみまわれた元子ですが、後半生には心から愛することができる人と巡り会えて幸せだったのではないか……。そう思いたいような気がしました。また、1000年前にも、親の反対を押し切ってまでも自分の恋を貫き通した女性がいたということに、勇気をもらえるような気がしました。勿論彼女には会ったことがありません。しかし彼女はきっと素敵な女性だったのだろうなと思います。

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