「百人一首」には、紫式部の歌「めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに 雲かくれにし 夜半の月影」(57番)と、その娘大弐三位の歌「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」(58番)と、親子二代の歌が並べられています。紫式部というと「源氏物語」の作者として有名ですが、その娘の大弐三位というと名前は知っている方は多いと思いますが、その生涯についてはあまり知られていないのではないでしょうか。
そこで今回の人物伝では、その大弐三位の生涯についてまとめてみることにしました。
大弐三位は本名を藤原賢子といい、長保元年(999)頃に誕生しました。父は右衛門権佐や山城守などを勤めた藤原宣孝、母は上記に述べたとおり紫式部です。
長保三年(1001)、父の宣孝が流行病で薨じます。その後賢子は、紫式部や母方の祖父の藤原為時の手で育てられたと考えられます。そして賢子は15歳頃、皇太后藤原彰子の許に出仕したのではないかと推定されます。出仕した当時の女房名は、祖父為時の官職「越後守」と「左少弁」にちなんで「越後の弁」と言いました。
なお従来は、賢子は母の死後に彰子の許に出仕したと考えられていましたが、最近の研究によると紫式部の没年は寛仁三年(1019)以降と推定されるため、賢子は母と一緒に彰子の許に出仕していたようです。そこで賢子は、母から直接宮仕えの心得を伝授されていたのではないでしょうか。
しかし賢子は、宮仕えにあまりなじめなかった母とは全く違う道を歩むこととなります。
元々賢子は、母よりも父宣孝に似ており、明るく朗らかで細かいことにこだわらない性格だったようです。そのせいか賢子はたちまち貴公子たちの人気者となり、藤原定頼(公任の子)、源朝任(道長室の倫子の甥)、藤原頼宗(道長の子)などの恋人ができました。
そして二十代半ば頃、賢子に運命の転機が訪れます。道長の甥に当たる藤原兼隆との間に子供を身ごもったのでした。(角田文衞氏の説)しかしこれには異説があり、「尊卑分脈」に賢子と兼隆の間の子供の記載がないため、賢子の子供の父親は兼隆ではなく藤原公信(藤原為光の子)だという説です。(萩谷 朴氏の説)
ちなみに賢子を主人公にした小説「猪名の笹原風吹けば 紫式部の娘・賢子(田中阿里子著 講談社 昭和61年刊行 現在は絶版のようです。)では、賢子の許へはその頃、兼隆と公信が同時に通ってきていました。そして賢子の身ごもった子供はどちらの子供ともとれるような書き方をしてありました。しかし賢子は公信のことを嫌っていたため、「この子は絶対に兼隆殿の子」と信じていました。そのためか巻末の登場人物系図でも、子供の父親は兼隆となっていました。
結局、賢子は娘を産むことになるのですが、この娘がどちらの子だったかは私も判断がつかないので結論は差し控えますが、ここでは角田氏の説に従って兼隆の子ということで話を進めさせていただきます。
万寿二年(1025)に産まれたこの娘のおかげで賢子は大きな幸運を得ることとなります。
賢子が娘を産んだのと同じ万寿二年、春宮敦良親王妃の藤原嬉子(道長の娘)が皇子を出産したのです。しかし嬉子はお産の影響と流行病のために皇子を産むとすぐになくなってしまったのですが…。皇子は「親仁」と命名されたのですが、その乳母に娘を産んだばかりの賢子が選ばれたのでした。
賢子は当時の太皇太后彰子からの信任も厚く、のちに述べるようにかなりの長寿を保ったことからみても体も丈夫だったため、乳母に選ばれたものと思われます。しかしその結果、兼隆とはだんだん疎遠になっていったのではないでしょうか。賢子はやがて兼隆と離別し、娘も兼隆に託したのではないかと思われます。そして彼女自身は宮仕えに専念していったのではないかという気がします。
それから約10年近く経った頃、すでに三十代後半にさしかかっていた賢子に一人の男性が現れます。
その人の名は高階成章…。今までの賢子の恋人たちのような公達ではありませんが、何カ国もの受領を歴任してばく大な財宝をため込み、しかも賢子より10歳年上の頼りがいのある男性でした。もっとものちに「欲の大弐」と言われることになる成章ですから、「出世のため」という魂胆で彼の方から春宮(その頃親仁は親王宣下され、父後朱雀天皇の春宮になっていました)の乳母に近づいていったのかもしれませんが…。やがて2人は結婚し、賢子は長暦二年(1038)、成章との間に男児(後の為家)を産むことになります。
寛徳二年(1045)、親仁親王が後冷泉天皇として踐祚すると、乳母である賢子は慣例によって従三位に叙され、典侍に任じられます。
天喜二年(1054)、夫の成章は大宰大弐となって大宰府に下向、賢子は夫の官職にちなんで「大弐三位」と呼ばれることとなりました。
賢子は天皇御乳母としての職務を遂行する一方、大宰大弐の妻としての役目も忘れず、夫の任地である大宰府にも下向しているようです。大宰府は母の書いた「源氏物語」のヒロインの一人、玉鬘が少女時代を送った土地です。大宰府に下向した賢子はそのことを思い出し、母のことを偲んでいたのかもしれません。
天喜六年(1058)、成章は都へ帰ることなく大宰府で薨じます。終生の伴侶と決めた成章の死は賢子にとっては大きな哀しみだったことと思います。
その後も、賢子は後冷泉天皇に献身的に仕えていたと思われますが、約10年後に人生で最も哀しい出来事が訪れます。。治暦四年(1068)、赤子の時から世話をしてきた後冷泉天皇は、まだ早すぎる44歳で、しかも皇子を残すことなく崩御されました。皇統は異母弟の後三条天皇に移ることとなるのですが、賢子にとっては後冷泉天皇の血を引く皇子が誕生しなかったことはさぞ心残りだっただろうなと察せられます。
しかし賢子はまだまだ健在で、承暦2年(1078)に、内裏後番歌合にて、我が子為家の代詠をつとめているのです。この時、賢子は80歳になっています。
彼女の没年は不明ですが、兼隆との間にもうけた娘や孫の源知房、あるいは成章との間にもうけた為家の世話を受け、平穏な晩年を送ったものと思われます。
こうして彼女の生涯を見てみると、母の紫式部を反面教師にしていたような所があるように見受けられます。宮廷生活を思いっきり楽しみ、若い頃はたくさん恋をして、中年になってからお金持ちの頼りがいのある男性と結婚する、しかも天皇の乳母となって出世するなんて、現代に生きる私から見てもうらやましい人生です。もちろん彼女は彼女なりに苦労も悩みも哀しみもあったでしょうけれど、そこは彼女の明るくて前向きな性格で切り抜けていたのでしょうね。
最後に、賢子は数々の歌合に出席し、「後拾遺集」以下の勅撰集に37首の歌が入集した優れた歌人であったこともつけ加えておきます。
百人一首に取られた歌の意味は、有馬山の猪名から風が吹いてくるとあなたを思い出します。どうして恋するあなたを忘れることができるでしょうか。」という意味です。賢子は誰を思ってこの歌を詠んだのでしょうか。今では知るすべもありませんが…。
そこで今回の人物伝では、その大弐三位の生涯についてまとめてみることにしました。
大弐三位は本名を藤原賢子といい、長保元年(999)頃に誕生しました。父は右衛門権佐や山城守などを勤めた藤原宣孝、母は上記に述べたとおり紫式部です。
長保三年(1001)、父の宣孝が流行病で薨じます。その後賢子は、紫式部や母方の祖父の藤原為時の手で育てられたと考えられます。そして賢子は15歳頃、皇太后藤原彰子の許に出仕したのではないかと推定されます。出仕した当時の女房名は、祖父為時の官職「越後守」と「左少弁」にちなんで「越後の弁」と言いました。
なお従来は、賢子は母の死後に彰子の許に出仕したと考えられていましたが、最近の研究によると紫式部の没年は寛仁三年(1019)以降と推定されるため、賢子は母と一緒に彰子の許に出仕していたようです。そこで賢子は、母から直接宮仕えの心得を伝授されていたのではないでしょうか。
しかし賢子は、宮仕えにあまりなじめなかった母とは全く違う道を歩むこととなります。
元々賢子は、母よりも父宣孝に似ており、明るく朗らかで細かいことにこだわらない性格だったようです。そのせいか賢子はたちまち貴公子たちの人気者となり、藤原定頼(公任の子)、源朝任(道長室の倫子の甥)、藤原頼宗(道長の子)などの恋人ができました。
そして二十代半ば頃、賢子に運命の転機が訪れます。道長の甥に当たる藤原兼隆との間に子供を身ごもったのでした。(角田文衞氏の説)しかしこれには異説があり、「尊卑分脈」に賢子と兼隆の間の子供の記載がないため、賢子の子供の父親は兼隆ではなく藤原公信(藤原為光の子)だという説です。(萩谷 朴氏の説)
ちなみに賢子を主人公にした小説「猪名の笹原風吹けば 紫式部の娘・賢子(田中阿里子著 講談社 昭和61年刊行 現在は絶版のようです。)では、賢子の許へはその頃、兼隆と公信が同時に通ってきていました。そして賢子の身ごもった子供はどちらの子供ともとれるような書き方をしてありました。しかし賢子は公信のことを嫌っていたため、「この子は絶対に兼隆殿の子」と信じていました。そのためか巻末の登場人物系図でも、子供の父親は兼隆となっていました。
結局、賢子は娘を産むことになるのですが、この娘がどちらの子だったかは私も判断がつかないので結論は差し控えますが、ここでは角田氏の説に従って兼隆の子ということで話を進めさせていただきます。
万寿二年(1025)に産まれたこの娘のおかげで賢子は大きな幸運を得ることとなります。
賢子が娘を産んだのと同じ万寿二年、春宮敦良親王妃の藤原嬉子(道長の娘)が皇子を出産したのです。しかし嬉子はお産の影響と流行病のために皇子を産むとすぐになくなってしまったのですが…。皇子は「親仁」と命名されたのですが、その乳母に娘を産んだばかりの賢子が選ばれたのでした。
賢子は当時の太皇太后彰子からの信任も厚く、のちに述べるようにかなりの長寿を保ったことからみても体も丈夫だったため、乳母に選ばれたものと思われます。しかしその結果、兼隆とはだんだん疎遠になっていったのではないでしょうか。賢子はやがて兼隆と離別し、娘も兼隆に託したのではないかと思われます。そして彼女自身は宮仕えに専念していったのではないかという気がします。
それから約10年近く経った頃、すでに三十代後半にさしかかっていた賢子に一人の男性が現れます。
その人の名は高階成章…。今までの賢子の恋人たちのような公達ではありませんが、何カ国もの受領を歴任してばく大な財宝をため込み、しかも賢子より10歳年上の頼りがいのある男性でした。もっとものちに「欲の大弐」と言われることになる成章ですから、「出世のため」という魂胆で彼の方から春宮(その頃親仁は親王宣下され、父後朱雀天皇の春宮になっていました)の乳母に近づいていったのかもしれませんが…。やがて2人は結婚し、賢子は長暦二年(1038)、成章との間に男児(後の為家)を産むことになります。
寛徳二年(1045)、親仁親王が後冷泉天皇として踐祚すると、乳母である賢子は慣例によって従三位に叙され、典侍に任じられます。
天喜二年(1054)、夫の成章は大宰大弐となって大宰府に下向、賢子は夫の官職にちなんで「大弐三位」と呼ばれることとなりました。
賢子は天皇御乳母としての職務を遂行する一方、大宰大弐の妻としての役目も忘れず、夫の任地である大宰府にも下向しているようです。大宰府は母の書いた「源氏物語」のヒロインの一人、玉鬘が少女時代を送った土地です。大宰府に下向した賢子はそのことを思い出し、母のことを偲んでいたのかもしれません。
天喜六年(1058)、成章は都へ帰ることなく大宰府で薨じます。終生の伴侶と決めた成章の死は賢子にとっては大きな哀しみだったことと思います。
その後も、賢子は後冷泉天皇に献身的に仕えていたと思われますが、約10年後に人生で最も哀しい出来事が訪れます。。治暦四年(1068)、赤子の時から世話をしてきた後冷泉天皇は、まだ早すぎる44歳で、しかも皇子を残すことなく崩御されました。皇統は異母弟の後三条天皇に移ることとなるのですが、賢子にとっては後冷泉天皇の血を引く皇子が誕生しなかったことはさぞ心残りだっただろうなと察せられます。
しかし賢子はまだまだ健在で、承暦2年(1078)に、内裏後番歌合にて、我が子為家の代詠をつとめているのです。この時、賢子は80歳になっています。
彼女の没年は不明ですが、兼隆との間にもうけた娘や孫の源知房、あるいは成章との間にもうけた為家の世話を受け、平穏な晩年を送ったものと思われます。
こうして彼女の生涯を見てみると、母の紫式部を反面教師にしていたような所があるように見受けられます。宮廷生活を思いっきり楽しみ、若い頃はたくさん恋をして、中年になってからお金持ちの頼りがいのある男性と結婚する、しかも天皇の乳母となって出世するなんて、現代に生きる私から見てもうらやましい人生です。もちろん彼女は彼女なりに苦労も悩みも哀しみもあったでしょうけれど、そこは彼女の明るくて前向きな性格で切り抜けていたのでしょうね。
最後に、賢子は数々の歌合に出席し、「後拾遺集」以下の勅撰集に37首の歌が入集した優れた歌人であったこともつけ加えておきます。
百人一首に取られた歌の意味は、有馬山の猪名から風が吹いてくるとあなたを思い出します。どうして恋するあなたを忘れることができるでしょうか。」という意味です。賢子は誰を思ってこの歌を詠んだのでしょうか。今では知るすべもありませんが…。