☆生没年 1161~1181
☆在位期間 1168~1180
☆両親
父・後白河天皇 母・建春門院平滋子(平時信女)
☆略歴
名は憲仁。仁安元年(1166)、6歳で立太子、二年後に八歳で踐祚します。平徳子を中宮とするなど平氏との関係が深く、岳父平清盛の専権と父後白河院の院政との間にあって傀儡的な存在だったようです。そのうえ、父と清盛との軋轢に悩み、治承四年(1180)二月、位を第一皇子、言仁親王(安徳天皇)に譲った直後、、厳島神社に御幸しています。この前年、後白河院は清盛のクーデターによって鳥羽殿に幽閉されていますので、「清盛の怒りを沈め、二人の仲を何とかしたい」という、高倉上皇の必死の想いが込められた御幸だったと思われます。
高倉上皇はその年のうちに再度、厳島神社に御幸していますが、その頃から病におかされており、御幸の3ヶ月後、治承五年(1181)正月十四日、21歳という若さで崩御しました。誰からも愛される穏和な性格で、笛の名手であったとも伝えられています。
☆父方の親族
祖父・鳥羽天皇 祖母・待賢門院藤原璋子(藤原公実女)
主なおじ
崇徳天皇 近衛天皇 覚姓法親王
主なおば
統子内親王(上西門院) 子内親王(八条院) (女朱)子内親王(八条院)
主ないとこ
重仁親王(父は崇徳天皇)
海恵(母は(女朱)子内親王
☆母方の親族
祖父・平時信 祖母・藤原祐子
おじ
平時忠 平親宗など
おば
平時子(平清盛室) 女(平宗盛室)など
主ないとこ
平宗盛 平知盛 平重衡 平徳子(以上 母は平時子)
平清宗(母は平宗盛室)
☆主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
*二条天皇 *守覚方親王 *以仁王
☆主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
*亮子内親王(殷富門院) *式子内親王 *観子内親王(宣陽門院)
☆主なおい
六条天皇(父は二条天皇)
北陸宮(父は以仁王)
☆主なめい
(イ善)子内親王(父は二条天皇)
☆后妃と子供たち
平 徳子(平清盛の女 建礼門院) →言仁親王(安徳天皇)
藤原殖子(藤原信隆女 七条院) → 守貞親王(後高倉院)・尊成親王(後鳥羽天皇)
帥局(藤原公重女 高倉天皇乳母) → 功子内親王(伊勢斎王)
藤原頼定女 → 潔子内親王(伊勢斎王)
小督局(藤原成範女) →範子内親王(土御門天皇准母 坊門院)
平 範子(平義範女) → 惟明親王
☆末裔たち
帝位はまず、高倉天皇の第一皇子言仁親王に譲られます。これが安徳天皇です。しかし、安徳天皇は8歳の時、壇ノ浦で入水自殺をしていますので子孫は残していません。
これより先、安徳天皇が平家とともに都落ちした直後、後白河院は新しい天皇を立てます。これが高倉天皇の第四皇子尊成親王、つまり後鳥羽天皇です。帝位は後鳥羽天皇の皇子、土御門天皇、さらにその弟の順徳天皇、そして順徳天皇の皇子仲恭天皇へ受け継がれていきますが、後鳥羽上皇は承久三年(1221)に鎌倉幕府倒幕計画を結行します。これが承久の変ですが、上皇方は破れ、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇は配流、仲恭天皇は退位させられます。
そして、「後鳥羽上皇の血統からは天皇を出さない」という鎌倉幕府の方針により踐祚したのが、それまで日陰の存在であった高倉天皇の第二皇子、守貞親王の皇子茂仁王でした。茂仁王は後堀河天皇として位に就き、守貞親王は後高倉院として院政を執ることとなります。
後堀河天皇のあとは、その皇子の四条天皇が即位しますが、四条天皇は皇子を残さず崩御したため、そのあとは土御門天皇の皇子、邦仁親王が後嵯峨天皇として踐祚しました。こうして、天皇家の血統は結局、後鳥羽天皇の子孫たちによって継承されていくこととなります。
☆守貞親王に関しては、こちらのページもご覧下さいませ。
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☆在位期間 1168~1180
☆両親
父・後白河天皇 母・建春門院平滋子(平時信女)
☆略歴
名は憲仁。仁安元年(1166)、6歳で立太子、二年後に八歳で踐祚します。平徳子を中宮とするなど平氏との関係が深く、岳父平清盛の専権と父後白河院の院政との間にあって傀儡的な存在だったようです。そのうえ、父と清盛との軋轢に悩み、治承四年(1180)二月、位を第一皇子、言仁親王(安徳天皇)に譲った直後、、厳島神社に御幸しています。この前年、後白河院は清盛のクーデターによって鳥羽殿に幽閉されていますので、「清盛の怒りを沈め、二人の仲を何とかしたい」という、高倉上皇の必死の想いが込められた御幸だったと思われます。
高倉上皇はその年のうちに再度、厳島神社に御幸していますが、その頃から病におかされており、御幸の3ヶ月後、治承五年(1181)正月十四日、21歳という若さで崩御しました。誰からも愛される穏和な性格で、笛の名手であったとも伝えられています。
☆父方の親族
祖父・鳥羽天皇 祖母・待賢門院藤原璋子(藤原公実女)
主なおじ
崇徳天皇 近衛天皇 覚姓法親王
主なおば
統子内親王(上西門院) 子内親王(八条院) (女朱)子内親王(八条院)
主ないとこ
重仁親王(父は崇徳天皇)
海恵(母は(女朱)子内親王
☆母方の親族
祖父・平時信 祖母・藤原祐子
おじ
平時忠 平親宗など
おば
平時子(平清盛室) 女(平宗盛室)など
主ないとこ
平宗盛 平知盛 平重衡 平徳子(以上 母は平時子)
平清宗(母は平宗盛室)
☆主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
*二条天皇 *守覚方親王 *以仁王
☆主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
*亮子内親王(殷富門院) *式子内親王 *観子内親王(宣陽門院)
☆主なおい
六条天皇(父は二条天皇)
北陸宮(父は以仁王)
☆主なめい
(イ善)子内親王(父は二条天皇)
☆后妃と子供たち
平 徳子(平清盛の女 建礼門院) →言仁親王(安徳天皇)
藤原殖子(藤原信隆女 七条院) → 守貞親王(後高倉院)・尊成親王(後鳥羽天皇)
帥局(藤原公重女 高倉天皇乳母) → 功子内親王(伊勢斎王)
藤原頼定女 → 潔子内親王(伊勢斎王)
小督局(藤原成範女) →範子内親王(土御門天皇准母 坊門院)
平 範子(平義範女) → 惟明親王
☆末裔たち
帝位はまず、高倉天皇の第一皇子言仁親王に譲られます。これが安徳天皇です。しかし、安徳天皇は8歳の時、壇ノ浦で入水自殺をしていますので子孫は残していません。
これより先、安徳天皇が平家とともに都落ちした直後、後白河院は新しい天皇を立てます。これが高倉天皇の第四皇子尊成親王、つまり後鳥羽天皇です。帝位は後鳥羽天皇の皇子、土御門天皇、さらにその弟の順徳天皇、そして順徳天皇の皇子仲恭天皇へ受け継がれていきますが、後鳥羽上皇は承久三年(1221)に鎌倉幕府倒幕計画を結行します。これが承久の変ですが、上皇方は破れ、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇は配流、仲恭天皇は退位させられます。
そして、「後鳥羽上皇の血統からは天皇を出さない」という鎌倉幕府の方針により踐祚したのが、それまで日陰の存在であった高倉天皇の第二皇子、守貞親王の皇子茂仁王でした。茂仁王は後堀河天皇として位に就き、守貞親王は後高倉院として院政を執ることとなります。
後堀河天皇のあとは、その皇子の四条天皇が即位しますが、四条天皇は皇子を残さず崩御したため、そのあとは土御門天皇の皇子、邦仁親王が後嵯峨天皇として踐祚しました。こうして、天皇家の血統は結局、後鳥羽天皇の子孫たちによって継承されていくこととなります。
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