平安夢柔話

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源 師子 ~関白の妻への道

2009-03-02 10:15:16 | 歴史人物伝
 先日UPした、第72代 白河天皇」を書くに当たって色々調べていたところ、源師子という人物に興味を引かれました。それで、手持ちの本などで調べて彼女の生涯をまとめてみることにしました。相変わらず、妄想と推察が炸裂していますが、ご覧頂けますと幸いです。

☆源 師子(みなもとのもろこ 1070~1148)

 父は右大臣源 顕房(村上源氏)、母は権中納言源 隆俊女の隆子(醍醐源氏)。
 しかし、「栄花物語」では、後冷泉天皇の女房、式部命婦となっています。師子の母が誰なのかは謎ですが、彼女が賢房からほとんど認知されなかったこと、源麗子の女房になっていたこと、白河上皇の正式な妃になれなかったことなどを考えると、姉の賢子と同母と考えるのは不自然のような気がします。やはり彼女の母は式部命婦と考えた方が自然のように思えます。

 彼女の生涯を語る前にまず、姉の白河天皇中宮、賢子について触れておきます。源師子の前半生を語る上で、賢子は重要だと思いますので…。

 藤原賢子(1057~1084)、実父は源顕房、実母は源隆俊女の隆子。

 延久三年(1071)、藤原師実(頼通の子)の養女として東宮貞仁親王(のちの白河天皇)に入内しました。その時の華やかな様子は「栄花物語」などに記述されています。 賢子は3年後に、すでに即位していた白河天皇の中宮に冊立されました。白河天皇の寵愛を一身に受け、敦文親王(早世)、(女是)子内親王、善仁親王(のちの堀河天皇)、令子内親王、禎子内親王と、次々と皇子や皇女をもうけます。
 まさに幸せな人生を送っていたのですが、(1084)に発病し、あっけなく亡くなってしまいます。その際、白河天皇は(天皇が后の臨終に立ち会うなんて前例がない」と批判されながらも賢子をしっかりと抱きしめ、離そうとしなかったといいます。よほど賢子を強く寵愛していたのでしょうね。

 賢子のことが忘れられない白河天皇は2年後に賢子との間にもうけた善仁親王に譲位してしまいます。これが堀河天皇です。上皇として自由な身分になった白河は何人かの女性を近づけることとなるのですが、その一人が賢子の妹に当たる師子でした。

 師子はいつ頃からかはわかりませんが、源 麗子に仕えていたようです。麗子は賢子を養女とした藤原師実の妻で、師子の父方のおばに当たる女性です。もしかすると麗子は、顕房の愛情が薄かった師子を気の毒に思い、自分の身の回りの世話をさせるために手元に引き取ったのではないかとも考えられそうです。

 師子は18、9歳の頃に白河上皇の目にとまり、寵愛を受けるようになります。というのは、師子の面差しが賢子にそっくりだったからでした。白河上皇は賢子が生き返ってきたような気分になり、師子に夢中になったのでしょうね。やがて師子は懐妊、寛治五年(1091)に皇子を生みました。

 ところが、かわいそうに偽物はやっぱり偽物だったようで、やがて白河上皇の師子への寵愛は冷めていったようです。賢子は華やかなイメージがあり、明るく積極的な女性だったのではないかと思うのですが、師子は父からあまり顧みられなかったこともあり、控えめでおとなしい性格だったのではないでしょうか。そのようなわけで師子は麗子の身の回りの世話をしながら、まれに訪れてくる白河上皇をひたすら待つという日を送っていました。しかし、そんな彼女に大きな転機が訪れます。

 ある時、麗子の孫に当たる藤原忠実というまだ16、7の少年が麗子を訪ねてきました。その時、忠実は麗子に使える師子をかいま見て一目ぼれしてしまったのです。

「ああ、何て美しくて可憐な人なんだろう!しかし、あの女は上皇さまの愛妾なのだ。私には手の届かない方だ。私はあの女を盗み出すか、恋いこがれて死んでしまうかのどちらかだ。ああ、どうしたものだろうか」
 と、悩みに悩んだ忠実はついに麗子にこのことを訴えました。

「おばあさま、私は師子どのに恋してしまったのです。どうかあの女を私に下さるよう、おばあさまから上皇さまに頼んで頂けないでしょうか?」
「頼むのはよいが、上皇さまがお許し下さるかねえ」
と麗子は言ったものの、実は上皇の訪れがまれになって寂しい思いをしている師子をかわいそうに思っていました。

 このまま上皇のお手つきとして一生を終わってしまうのはあまりにも哀れだ、それよりも忠実の妻として落ち着いた生活をさせてあげた方がよっぽど幸せなのではないか。それに忠実も、最初の妻任子(源俊房女)との間に子をなしたものの、子供は早世、任子との中も冷え切ってしまったようだから、師子は新しい妻に適任なのでは……と考えた麗子は上皇に忠実が師子に恋していることを話し、何とか師子を忠実に譲るようにと頼み込んだのでした。

 意外にも白河上皇は、
「なに?師子を忠実にだと?うん、いいだろう」
とあっさりと承知。実は白河上皇も愛情が冷めた師子をもてあましていました。そうかといって、堀河天皇の叔母にも当たる師子を粗末にもできません。なので上皇も渡りに船だと思ったのでしょう。それに、忠実の頼みを受け入れたということで、これからは摂関家に遠慮する必要もあまりないのではないか…と考えたのかもしれませんね。

 こうして師子は忠実の許に行くことになったのですが、8歳年下の忠実との相性が良かったらしく、嘉保二年(1095)に女子を、承徳元年(1097)に男子を生みました。女子は後年、鳥羽天皇の後宮に入った高陽院泰子、男子は摂政・関白を歴任した忠通です。
 一方、白河上皇との間にもうけた皇子は、長治元年(1104)に出家、仁和寺に入って覚法法親王と名乗り、数々の仏事を行い、天下第一の僧と言われました。
 このように、師子の生んだ子供たちは、それぞれ立派に成長していきました。

 ところで、夫となった忠実は父師通が康和元年(1099)に死去したのを受けて氏の長者となり、続いて関白となりましたが、後に白河上皇と対立して関白を罷免されたりなど、かなり波乱に富んだ生涯を送ることとなります。師子はそんな忠実の嫡室として、康和四年(1102)従三位に叙され、天仁二年(1109)従二位に進み、政所を開設、更に従一位に昇りました。

 しかし、長承三年(1134)出家、次第に対立していく夫忠実と、息子忠通に心を痛めたためでしょうか。

 康治元年(1142)には仁和寺に堂舎を建てて常在の所としました。仁和寺というと、白河上皇との間にもうけた覚法法親王が入っている寺です。彼は多分、師子が忠実に嫁してからは別々に暮らしていたのでしょうし、14歳で出家してしまいましたので、母子の縁は非常に薄かったと考えられます。やはり師子はこの皇子のことが気になっていたでしょうし、覚法法親王も幼い頃に別れた母の面影が忘れられなかったのでしょうね。法親王は心をこめて母の世話をしたと思われます。

 久安四年(1148)十二月、病を得、その十四日、79歳の天寿を全うしました。晩年は宇治の別荘に居住していた忠実とは離れて住んでいたようですが、立派に成長した子供たちの世話を受け、心安らかな日々を送っていたことでしょう。
 何より、夫忠実と息子忠通が決定的に対立してしまった保元の乱を見なかったこと、仁平三年(1153)に世を去った覚法法親王や久寿二年(1155)に世を去った泰子よりも先に冥土に旅立ったことも幸せだったかもしれません。

☆参考文献・参考サイト
 『平安時代史事典 CD-ROM版」 角田文衞監修 角川学芸出版
 『人物叢書 藤原忠実』 元木泰雄 吉川弘文館
『歴代天皇と后妃たち』 横尾 豊 柏書房
 『源平争乱期の女性 人物日本の女性史3』 円地文子監修 集英社
 葉つき みかんさんのサイト 月桜村上源氏の人物紹介内の源 師子のページ。自作のイラストつきで師子のことを紹介なさっています。参考にすることを許可して下さいました葉つき みかんさん、ありがとうございました。

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