先日、久しぶりに「更級日記」の現代語訳を読み返してみたのですが、作者菅原孝標女の父、菅原孝標とはどんな人物だったのか、ちょっと興味を引かれました。娘は日記作者として有名なのに、その父親は名前だけは有名でも、どんな人物だったのかはすっかり忘れられてしまっていますよね。それではあまりにも孝標さんがお気の毒なので、こちらの人物伝で取り上げさせていただくことにしました。
では、彼の生涯や人となりを紹介しましょう。なお、かなり私の妄想、推察も入っていますのでそのあたりはご了承下さいませ。
☆菅原孝標(973~? 1036以降か)
菅原道真四世の孫。父は大学頭・文章博士の経歴もある右中弁菅原資忠、母は民部大輔源包女。藤原倫寧女との間に定義、「更級日記」の作者とその姉などをもうけました。また、高階成行女との間にも子供がいたようです。この女性は、「更級日記」中に「継母」として登場する人物です。
菅原家は学問の家であり、代々、大学頭や文章博士を輩出していました。孝標も大学頭や文章博士を目指していたのでしょう。最初は大学寮に入り、大学の業を終えたあとに文章生となりました。
しかし、なぜか彼は学問とは別の道を歩むことになるのです。
正暦四年(993)正月、因幡掾として昇殿を許されました。長保二年(1000)正月蔵人、同三年叙爵。このころ頭弁として孝標の上司だったのが藤原行成(972~1027)です。
寛仁元年(1017)正月上総介、同四年十二月に帰京、長元五年(1032)二月常陸介。同九年秋上京後は官途を退いたようです。彼はついに、父の資忠や息子の定義のように、大学頭や文章博士になることはありませんでした。
では、どうして孝標は大学頭や文章博士になれなかったのでしょうか。実は、どうやら彼は学問の家である菅原家に生まれながら、あまり優秀ではなかったようなのです。
「扶桑略記」、治安三年十月十九日の条にこんな記事が載っています。
ある時、藤原道長は吉野の竜門寺に参詣しました。その時、菅原孝標もお供の行列に加わっていました。
竜門寺の方丈の扉には、菅原道真の神筆が遺っていました。孝標は、その道真の神筆の横に仮名文字の添え書きをほどこした上、へたな詩文を脇に書いたりなどして、道長はじめ公卿・殿上人の失笑を買ったというのです。
孝標は、ご先祖さまの神筆にお目にかかった嬉しさのあまり、「自分は道真の子孫である」ということをひけらかしたかったのでしょうけれど、かえって逆効果になってしまったようですよね。
この他にも、聞き違いの情報を他人に伝えて迷惑をかけるなど、あまり芳しい記録が残っていないようです。
確かに「更級日記」から伝わってくるイメージも、「凡庸な人物」です。
しかし、それと同時に私は、「更級日記」の孝標からは家族思いの好人物という印象も受けるのです。
例えば、孝標女は、藤原行成女の書いた文字を書道の手本にしていたということ、これは孝標が行成に頭を下げて手に入れたものではないかと思うのです。
上でも書きましたが、孝標の蔵人時代の上司が行成でした。娘たちが、行成女の書にあこがれていることを知った孝標は、上総から帰京すると間もなく、様々な贈り物を持ってかつての上司、行成の許に挨拶に行ったのでは…と思うのです。実は孝標と行成はほぼ同年代、でも、当時は年齢より身分が優先されますから、孝標は緊張しています。何しろ寛仁四年(1020)当時の行成はすでに権大納言、前上総介の孝標からしてみれば雲の上の存在です。
孝標からの様々な贈り物に行成も大喜び、そこで孝標は、「実は、うちの娘たちが大納言さまの姫さまの書にあこがれております。ぜひ所望したいのですが」と言ったのでは?もちろん、「大納言さまに似ておじょうさまの書も美しくて達筆でいらっしゃいますなあ。血は争えませんです。」などと、お世辞を言うことも忘れてはいません。
自分と愛娘の書をほめられた行成も気をよくし、早速娘の書いた書を孝標に手渡したのではないかと思います。孝標はなかなか娘思いの良いお父様です。
余談ながらこの行成女は当時、藤原道長と源明子との間の子、長家の妻となっていましたが、翌治安元年(1021)に病死してしまいます。孝標女も大変悲しがっていた記述が、「更級日記」にあります。
…と、ここまで書いてきて、私はあることに気がつきました。もしかすると孝標は、行成に以前から接近していたのでは?上総のような大国の介になれたのも、ひょっとすると行成の推薦があったからなのではないかと…。
ついでに孝標は、50年間も関白を務めた藤原頼通にも接近していたように思えます。というのは、孝標女は後年、宮仕えに出るのですが、出資先は後朱雀天皇の皇女、祐子内親王の宮廷です。祐子内親王の母君は藤原(女原)子です。この方の実父は一条天皇の皇子、敦康親王ですが、彼女は頼通の養女になっていました。当然、頼通の後ろだてで入内しています。つまり祐子内親王の外祖父は頼通なのです。孝標女がそんな祐子内親王に使えることができたのは、やはり孝標が頼通派だったからではないかと思うのです。
あと、「更級日記」を読むと、孝標女はかなり豊かな生活をしているような気がします。あちらこちらに物詣でもしていますし、中級貴族にしては物語が手に入りやすい環境だったようですし。上総で等身大の観音様を造ってもらったりもしていますよね。これは、孝標がかなりやり手の国司だったからでは?平安時代史事典にこんな記述がありました。
ー引用開始ー
『更級日記』に描かれた孝標像は凡庸な好人物であるが、近時、能吏としての側面が指摘されるに至った。
ー引用終了ー
孝標がどのような人物だったかは推測するしかありませんが、家では優しいマイホームパパ、仕事ではかなりやり手、でも、時々ドジをして失笑を買う…といったなかなかユーモラスな好人物だったように思えます。
☆参考文献
『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
『更級日記 ー古典の旅5』 杉本苑子 講談社
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いします。
☆トップページに戻る
では、彼の生涯や人となりを紹介しましょう。なお、かなり私の妄想、推察も入っていますのでそのあたりはご了承下さいませ。
☆菅原孝標(973~? 1036以降か)
菅原道真四世の孫。父は大学頭・文章博士の経歴もある右中弁菅原資忠、母は民部大輔源包女。藤原倫寧女との間に定義、「更級日記」の作者とその姉などをもうけました。また、高階成行女との間にも子供がいたようです。この女性は、「更級日記」中に「継母」として登場する人物です。
菅原家は学問の家であり、代々、大学頭や文章博士を輩出していました。孝標も大学頭や文章博士を目指していたのでしょう。最初は大学寮に入り、大学の業を終えたあとに文章生となりました。
しかし、なぜか彼は学問とは別の道を歩むことになるのです。
正暦四年(993)正月、因幡掾として昇殿を許されました。長保二年(1000)正月蔵人、同三年叙爵。このころ頭弁として孝標の上司だったのが藤原行成(972~1027)です。
寛仁元年(1017)正月上総介、同四年十二月に帰京、長元五年(1032)二月常陸介。同九年秋上京後は官途を退いたようです。彼はついに、父の資忠や息子の定義のように、大学頭や文章博士になることはありませんでした。
では、どうして孝標は大学頭や文章博士になれなかったのでしょうか。実は、どうやら彼は学問の家である菅原家に生まれながら、あまり優秀ではなかったようなのです。
「扶桑略記」、治安三年十月十九日の条にこんな記事が載っています。
ある時、藤原道長は吉野の竜門寺に参詣しました。その時、菅原孝標もお供の行列に加わっていました。
竜門寺の方丈の扉には、菅原道真の神筆が遺っていました。孝標は、その道真の神筆の横に仮名文字の添え書きをほどこした上、へたな詩文を脇に書いたりなどして、道長はじめ公卿・殿上人の失笑を買ったというのです。
孝標は、ご先祖さまの神筆にお目にかかった嬉しさのあまり、「自分は道真の子孫である」ということをひけらかしたかったのでしょうけれど、かえって逆効果になってしまったようですよね。
この他にも、聞き違いの情報を他人に伝えて迷惑をかけるなど、あまり芳しい記録が残っていないようです。
確かに「更級日記」から伝わってくるイメージも、「凡庸な人物」です。
しかし、それと同時に私は、「更級日記」の孝標からは家族思いの好人物という印象も受けるのです。
例えば、孝標女は、藤原行成女の書いた文字を書道の手本にしていたということ、これは孝標が行成に頭を下げて手に入れたものではないかと思うのです。
上でも書きましたが、孝標の蔵人時代の上司が行成でした。娘たちが、行成女の書にあこがれていることを知った孝標は、上総から帰京すると間もなく、様々な贈り物を持ってかつての上司、行成の許に挨拶に行ったのでは…と思うのです。実は孝標と行成はほぼ同年代、でも、当時は年齢より身分が優先されますから、孝標は緊張しています。何しろ寛仁四年(1020)当時の行成はすでに権大納言、前上総介の孝標からしてみれば雲の上の存在です。
孝標からの様々な贈り物に行成も大喜び、そこで孝標は、「実は、うちの娘たちが大納言さまの姫さまの書にあこがれております。ぜひ所望したいのですが」と言ったのでは?もちろん、「大納言さまに似ておじょうさまの書も美しくて達筆でいらっしゃいますなあ。血は争えませんです。」などと、お世辞を言うことも忘れてはいません。
自分と愛娘の書をほめられた行成も気をよくし、早速娘の書いた書を孝標に手渡したのではないかと思います。孝標はなかなか娘思いの良いお父様です。
余談ながらこの行成女は当時、藤原道長と源明子との間の子、長家の妻となっていましたが、翌治安元年(1021)に病死してしまいます。孝標女も大変悲しがっていた記述が、「更級日記」にあります。
…と、ここまで書いてきて、私はあることに気がつきました。もしかすると孝標は、行成に以前から接近していたのでは?上総のような大国の介になれたのも、ひょっとすると行成の推薦があったからなのではないかと…。
ついでに孝標は、50年間も関白を務めた藤原頼通にも接近していたように思えます。というのは、孝標女は後年、宮仕えに出るのですが、出資先は後朱雀天皇の皇女、祐子内親王の宮廷です。祐子内親王の母君は藤原(女原)子です。この方の実父は一条天皇の皇子、敦康親王ですが、彼女は頼通の養女になっていました。当然、頼通の後ろだてで入内しています。つまり祐子内親王の外祖父は頼通なのです。孝標女がそんな祐子内親王に使えることができたのは、やはり孝標が頼通派だったからではないかと思うのです。
あと、「更級日記」を読むと、孝標女はかなり豊かな生活をしているような気がします。あちらこちらに物詣でもしていますし、中級貴族にしては物語が手に入りやすい環境だったようですし。上総で等身大の観音様を造ってもらったりもしていますよね。これは、孝標がかなりやり手の国司だったからでは?平安時代史事典にこんな記述がありました。
ー引用開始ー
『更級日記』に描かれた孝標像は凡庸な好人物であるが、近時、能吏としての側面が指摘されるに至った。
ー引用終了ー
孝標がどのような人物だったかは推測するしかありませんが、家では優しいマイホームパパ、仕事ではかなりやり手、でも、時々ドジをして失笑を買う…といったなかなかユーモラスな好人物だったように思えます。
☆参考文献
『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
『更級日記 ー古典の旅5』 杉本苑子 講談社
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いします。
☆トップページに戻る