平安夢柔話

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第71代 後三条天皇

2008-07-25 10:10:06 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1034~1073
☆在位期間 1068~1072

☆両親
 父・後朱雀天皇 母・禎子内親王

☆略歴

 名は尊仁。後朱雀天皇の第二皇子として生まれました。寛徳二年(1045)、12歳の時に東宮に立てられました。この立太子はもちろん父、後朱雀天皇の意向によるものだったのですが、これに助力した藤原能信の功績も大きいと言えます。しかし、藤原摂関家を外戚に持たない東宮だったため関白藤原頼通らにうとまれ、東宮累代の宝物である「壺切剣」も渡されないといった嫌がらせも受けました。

 治暦四年(1068)、35歳で即位。帝位にあること約4年半、延久四年(1072)十二月八日、第一皇子貞仁親王(白河天皇)に譲位しました。翌延久五年(1073)四月二十一日、急病により出家し(法名金剛行)、同年五月七日、40歳で崩御しました。

 後三条天皇は上でも書いたように藤原摂関家を外戚に持たない天皇であったため、摂関家以外の有能な人材を重用し、思い切った天皇親政を行いました。また、荘園整理令と記録荘園券契所の設置活動などの改革も行っています。後三条天皇の出現は、藤原摂関家の衰退を招き、やがて新しい時代、院政期への橋渡しとなりました。


☆父方の親族

 祖父・一条天皇 祖母・藤原彰子(藤原道長女)

おじ
 敦康親王・後一条天皇

おば
 脩子内親王・(女美)子内親王

いとこ
 藤原(女原)子(藤原頼通養女・後朱雀天皇中宮) 実父は敦康親王
 章子内親王(後冷泉天皇中宮)・馨子内親王(後一条朝の賀茂斎院・後三条天皇皇后) 父は後一条天皇


☆母方の親族

 祖父・三条天皇 祖母・藤原妍子(藤原道長女)

おじ
 敦明親王(小一条院)・敦儀親王・敦平親王・師明親王

おば
 当子内親王(三条朝の伊勢斎王)・子内親王

主ないとこ
 源 基平(大僧正行尊・後三条天皇女御の源 基子の父)・敦貞親王・敦賢親王(白河朝の伊勢斎王、淳子女王の父)・嘉子内親王(後冷泉朝の伊勢斎王)・斉子女王(白河朝の賀茂斎院) 父は敦明親王
 敬子女王(後冷泉朝の伊勢斎王) 父は敦平親王


☆兄弟姉妹

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
 *後冷泉天皇

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 ○良子内親王(後朱雀朝の伊勢斎王)・ ○娟子内親王(後朱雀朝の賀茂斎院・源 俊房室) *祐子内親王 *(示某)子内親王(後冷泉朝の賀茂斎院)


☆主な后妃と皇子・皇女

 馨子内親王(後一条天皇皇女)

 藤原茂子(藤原公成女・藤原能信養女) → 貞仁親王(白河天皇)・聡子内親王・俊子内親王(後三条朝の伊勢斎王)・佳子内親王(後三条・白河朝の賀茂斎院)・篤子内親王(白河朝の賀茂斎院・堀河天皇中宮)

 源 基子(源 基平女) → 実仁親王・輔仁親王

 藤原昭子(藤原頼宗女)

 侍従内侍(平 経国女) → 藤原有佐(藤原顕綱養子)


☆末裔たち

・その後の皇位継承について
 後三条天皇のあとに帝位についたのは、略歴の項でも述べましたように藤原茂子の生んだ第一皇子、貞仁親王、すなわち白河天皇です。そして白河天皇の東宮に立ったのは、源 基子の生んだ第二皇子、実仁親王でした。そして後三条上皇は、実仁親王のあとはその同母弟、輔仁親王の即位を望んでいたのでした。

 ところが実仁親王は1085年、東宮のまま15歳で世を去ってしまいます。そこで白河天皇は、弟の輔仁親王ではなく、自分の皇子である善仁親王を東宮に立て、即日譲位してしまいます。これが堀河天皇です。以後、堀河天皇の子孫が帝位につくこととなり、輔仁親王は天皇への道を閉ざされてしまいました。


・輔仁親王と源 有仁
 輔仁親王(1073~1119)は英明な皇子で、東宮に立てられるにふさわしい人物でしたが、上でも書いたように堀河天皇の即位により、天皇への道を閉ざされてしまいました。しかし、堀河天皇に皇子が生まれるまでは、村上源氏を中心に「輔仁親王を東宮に」という動きもあったようですが、堀河天皇の皇子、宗仁親王が東宮に立てられ、やがて鳥羽天皇として即位してからは完全に道が閉ざされ、失意の輔仁親王は仁和寺に入ってしまいます。

 そんな輔仁親王には、何人かの妻との間に源 有仁、守子内親王(崇徳朝の伊勢斎王)、怡子内親王(崇徳・近衛朝の賀茂斎院)、信証、行恵といった子供たちがいます。

 そのうち源 有仁(1103~1147)は一時、白河天皇の猶子になりますが、1119年に臣籍に降下して源姓を賜り、最終的には左大臣にまで昇進しました。美貌で詩歌・管絃の才に優れていたので、光源氏のようだと讃嘆されたそうです。


・後三条天皇の一人のご落胤とその子孫
 後三条天皇は侍従内侍と呼ばれた女性を寵愛し、その間に男児を一人もうけました。その男児は藤原顕綱の養子となったのですが、これは顕綱の母である藤原明子が、禎子内親王の乳母だったことに関係しているようです。それはともかくとして、彼は藤原有佐と名乗り、受領階級としてその一生を送りました。同じ後三条天皇の子である輔仁親王は政争に巻き込まれてしまいましたが、それに比べると有佐の生涯は平穏で、ある意味では幸せだったかもしれませんね。

 ところで、この有佐の子孫は思いがけないところとつながっているので、そのあたりを紹介してみたいと思います。

 有佐には娘がおり、その娘は藤原知信(藤原氏長良流)という官人と結婚しました。その間に生まれたのが歌人としても知られる為忠です。

 為忠の息子たちが、いわゆる大原三寂と言われる寂念(為業)、寂超(為経)、寂然(頼業)の三兄弟です。このうち寂超が美福門院加賀との間にもうけたのが隆信です。美福門院加賀はのちに藤原俊成と結婚して定家をもうけるので、隆信は定家の異父兄ということになります。

 隆信は歌人でもありますが、どちらかというと肖像画描きの名人として有名だと思います。そして、隆信の子が佐竹本・三十六歌仙絵巻を書いたことでも知られる藤原信実です。おお、後三条天皇の遺伝子がこんな所に!何かわくわくしますね。

*後三条天皇から藤原信実までの略系図
 後三条天皇 → 藤原有佐 → 女(藤原知信室) →藤原為忠 → 寂超(藤原為経) → 藤原隆信 → 藤原信実


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