私がこの女性のことを初めて知ったのは今から20年ほど前、永井路子さんの「この世をば」を読んだときでした。とにかく強烈なイメージでした。「みやびでなよやかな印象を持っていた平安時代にこんな強い女性がいたんだ~」とびっくりし、同時に何となく嬉しくもありました。
今回の人物伝では、そんな女性、藤原詮子を紹介したいと思います。
では、彼女のプロフィールからどうぞ。
☆藤原詮子 (962~1001)
父・藤原兼家 母・藤原時姫(藤原中正女)。同母兄に道隆と道兼、同母姉に超子(冷泉天皇女御・三条天皇母)、同母弟に道長がいました。
彼女の子供時代についてはわかりません。ただ、彼女の後年の行動から、どんな子供だったかを推察することはできると思います。
詮子の姉の超子は、天元五年(982)正月、庚申待ちの明け方に若くして急死してしまいます。そのようなことから、何となくはかないイメージを受けます。
それに対して詮子は、なかなかきかん気でおてんばな姫さまだったのではないでしょうか。道兼は詮子の1歳上の兄ですが、彼女は年の近い兄にライバル心を燃やし、口げんかをすることもあったかもしれません。
そんな詮子は、17歳の時に人生の転機を迎えました。
天元元年(978)八月、詮子は円融天皇の後宮に入内します。同年十一月に女御となり、「梅壺女御」と呼ばれました。
当時、円融天皇の後宮には、藤原兼通女の(女皇)子、藤原頼忠女の遵子がいましたが、天皇にはまだ皇子が生まれていませんでした。負けず嫌いの詮子は、「私が絶対に帝の第一皇子を生んでやる」と思っていたことは充分考えられます。しかしそれは彼女の負けず嫌いの性格のためだけではなく、自分が帝の第一皇子を生むことによって父兼家を天皇の外戚にし、我が家に運を開かせるという強い信念もあったのではないかと思います。
その強い決心と信念を貫いた詮子は、天元三年(980)六月一日、里邸の東三条第にて、円融天皇の第一皇子を出産します。
「皇子のご誕生ですよ。」と告げられた詮子は何を思ったのでしょうか。「私は他の女御たちに勝った。これでわが父も運が開ける。」と思ったことでしょう。兼家の喜ぶ顔も目に浮かんできそうです。
皇子はその年の八月に親王宣下され、「懐仁」と名付けられました。
しかし詮子は内裏には戻らず、東三条第に居続けたようです。というのは、その年の十一月に内裏が消失しているのですが(当ブログの「尊子内親王」の項を参照して下さい)、詮子が内裏から避難したという記録がないようなのです。しかも円融天皇と他の妃たちとの贈答歌は残っているようですが、詮子との贈答歌は一種もないようなのですよね。
こうしてみると詮子は、懐仁親王を生んだ時点で円融天皇から離れたとも考えられますが、もし詮子が立后していたら、その後の彼女の人生も変わっていたかもしれません。
天元五年三月、、円融天皇が皇后に選んだのは詮子ではなく遵子だったのでした。兼通女の(女皇)子はこの3年前に世を去っており、詮子のあとに入内したもう1人の女御尊子内親王はしっかりした後ろ盾がないため、円融天皇も立后を考えなかったようです。
皇后になることができなかった詮子は「悔しい!帝の皇子を生んでいるのはこの私なのに…」と思ったことでしょう。しかも、遵子が皇后として意気揚々と参内する途中、その行列が東三条第の横を通ったとき、参内の伴をしていた遵子の弟の公任が
「こちらの女御さまはいつ后になるのでしょうね。」
と言ったものですから、詮子の悔しさは言葉では言い表せないものだったと思われます。父兼家も円融天皇に対し、不快をあらわにしたと言われています。
上で私は、「詮子は懐仁親王を生んだ時点で円融天皇から離れたとも考えられる」と書きましたが、少なくても天元五年の正月頃までは、自分の進むべき道をどうするか迷っていたところがあったと思います。
「内裏も再興されたし、そろそろ懐仁を連れて帝のもとに戻っても良い」
と、詮子は考えていたのかもしれませんが、自分が后になれないことを知った時点で、完全に円融天皇から離れたのではないかと思います。
「私は藤原氏側の人間として、父のため、兄弟のため、息子懐仁のために生きよう。」
と、詮子は決心したのではないでしょうか。
その二年後、円融天皇は皇太子の師貞親王に譲位をします。つまり花山天皇です。そして、花山天皇の皇太子には詮子の生んだ懐仁親王が立てられます。円融天皇が譲位し、懐仁親王を皇太子にした理由の一つには、兼家や詮子の不快を和らげようとしたためだとも言われています。
ともあれ、詮子は一応、皇太子の母となったわけです。しかし、花山天皇はまだ若く、いつ譲位するかわかりません。
ただ、花山天皇は外戚の力が非情に弱い天皇でした。そこで兼家は、謀略を持って花山天皇を退位させます。
つまり、寵愛していた女御に先立たれて気落ちした花山天皇につけ込んだのです。五位蔵人として天皇に使えていた兼家の息子道兼は、「一緒に出家しましょう」と言って天皇をだまし、内裏から連れ出してしまいます。そして天皇の出家を見届けると、さっさと逃げ出してしまいます。天皇が「だまされた」ということに気がついたときはもう、三種の神器は懐仁親王のもとに移っていました。
こうして寛和二年(986)六月、懐仁親王は踐祚します。つまり一条天皇です。詮子は天皇の母として皇太后に立てられることとなりました。
この花山天皇退位事件に詮子が関わっていたかどうかはわかりませんが、この謀略の計画を事前に明かされていたことは間違いないと思います。そして謀略が成功したことを聞いたとき、詮子の頭に浮かんだことは「私は勝った!遵子にも、円融上皇にも…」ということだったのではないでしょうか。
かくして詮子は、絶大な力を持つこととなります。つまり、詮子は、天皇の祖父として摂政となった兼家の片腕役だったと考えて良いと思います。それだけ、彼女は強い政治力の持ち主でした。このように外祖父・母后・天皇の3人がそろっているときにこそ、摂関政治は絶大な効果を発揮していたのでした。
永祚二年(990)七月、その兼家が世を去ります。兼家の跡を継いだのは詮子の兄の道隆。あるじを失っても詮子ファミリーは外戚として絶大な力を持ち続けました。
翌正暦二年(991)九月、詮子は落飾します。しかし、世を捨てたわけでは決してありません。詮子はその時に「東三条院」という院号を授かり、上皇並みの待遇となったのでした。そして、この「東三条院」がその後、何十人もの后や内親王に授けられることになる女院号の始まりでした。詮子の発言力はますます強くなっていったことは言うまでもありません。
その発言力が最も発揮されたのが、長徳元年(995)五月の道長政権誕生の時だったのではないかと思います。
長徳元年は激動の年でした。まず、以前から病気であった関白道隆が四月に世を去ります。その直後、西の方からやってきた伝染病が京で流行し始め、公卿・殿上人が次々と死んでいきました。道隆のあとを継いだ道兼も、関白に任じられて十日あまりで世を去ってしまいます。
そこで次期関白の候補となったのは、道隆の嫡男で内大臣の伊周(22歳)と、道隆や道兼・詮子の弟で権大納言の道長(30歳)の二人でした。
詮子が押したのは自分のお気に入りの弟の道長でした。しかし、一条天皇は首を縦にふりませんでした。
というのは、当時一条天皇の後宮には、故道隆の娘、中宮定子がただ一人の后としてときめいており、天皇はこの定子を大変愛しておられました。そこで天皇は、父親を失ったばかりの定子の頼もしい後ろ盾として、伊周に関白になってもらおう…と密かに決心していたようなのです。
そんな天皇の心中に感づいた詮子は非常手段に出ることになります。何と、夜中に天皇の寝所に押しかけていったのでした。
「道兼どのに関白の宣旨を下したのに、道長どのに下さないなんてかわいそうではないの。」
「伊周どのはまだ若くて頼りにはなりません。道長どのこそ、頼りになる御方です。」
と涙ながらに訴え、とうとう天皇に、「道長に内覧の宣旨を下す」ことを承知させます。内覧…と言っても、実質的には関白とほとんど変わりませんので、詮子はここでも自分の信念を貫き通したことになります。
詮子はどうして、道長政権にこだわったのでしょうか?
「兄弟の中で一番仲の良い、お気に入りの弟に政権を取らせてあげたい」という姉としての気持ち、「息子が大切に思っている嫁の定子に対する嫉妬新」などももちろんあったでしょうが、それとは別な気持ちが詮子にはありました。
詮子は、伊周や定子ではなく、彼らの母の実家、高階一族を嫌っていたのではないでしょうか。
実は、関白となった道隆は、妻貴子の実家である高階一族の人々を大変優遇しているのです。貴子の父、高階成忠を従二位に叙したり、貴子の兄弟たちの官位を上げたりしています。元々受領階級である高階一族を、詮子は一段低く見ているところがありました。もし伊周が関白になったら、母方の親戚である彼らの発言力はぐっと強くなります。そのような事になるのは絶対に嫌…と、詮子は思ったのでしょう。
「伊周が関白になったら、権力があちらに移ってしまうかもしれない。それなら、藤原摂関家と帝を守ることができるのは私と道長どのだけ…」
と考えた詮子は、何が何でも天皇を説得しなければ…という、強い信念があったと思われます。彼女はこの時、藤原摂関家の強い女あるじぶりを発揮したとも言えそうです。
さて、その後の詮子ですが……、残念ながら彼女は、その後間もない頃から次第に健康を損ねるようになります。
翌長徳二年(996)三月、病により院号及び年官年爵を辞しています。。長保元年(999)八月、慈徳寺の落慶供養を行ったり、また、洛北長谷の地に解脱寺を建立したりしています。次第に健康を損ねていった詮子は、急速に仏教に帰依するようになったことがうかがえます。
長保三年(1001)十月、道長は自邸の土御門第にて、詮子の四十の賀を催しました。道長の詮子に対する長年の感謝の気持ちの表れだと思われます。
その約半月後、詮子は石山寺詣でをしています。この時期までは、まだ、外出できるほどの病状だったと思います。「藤原摂関家の女あるじとして、私はまだ倒れるわけにはいかない」という強い気力もあったかもしれませんが…。
しかし、その年の閏十二月十六日、詮子は病の重きにより、法橋覚運を戒師として出家。翌日東三条院別当である藤原行成第に渡り、二十二日に崩御しました。まだ早すぎる40歳でした。最晩年には、長保二年に誕生と引き替えに母后定子を亡くした(女美)子内親王を引き取って慈しんでいたと言われています。
こうして彼女の生涯を眺めてみると、まさしく実家のため、父のため、弟のために全力投球で生き抜いた人生だったという感じがします。更に、「思ったことは必ずやり遂げる」という強い意志を持って生きていたような気がします。
また、彼女の強い政治力は、院政期の美服門院や丹後局、鎌倉時代の北条政子などにも通じる者があるような気がします。もう少し注目されてもよい女性だと思います。
☆参考文献
「平安時代史事典 CD-ROM版」 角田文衞監修 角川学芸出版
「人物叢書 一条天皇」 倉本一宏 吉川弘文館
「大鏡 全現代語訳」 保坂弘司 講談社・講談社学術文庫
今回の人物伝では、そんな女性、藤原詮子を紹介したいと思います。
では、彼女のプロフィールからどうぞ。
☆藤原詮子 (962~1001)
父・藤原兼家 母・藤原時姫(藤原中正女)。同母兄に道隆と道兼、同母姉に超子(冷泉天皇女御・三条天皇母)、同母弟に道長がいました。
彼女の子供時代についてはわかりません。ただ、彼女の後年の行動から、どんな子供だったかを推察することはできると思います。
詮子の姉の超子は、天元五年(982)正月、庚申待ちの明け方に若くして急死してしまいます。そのようなことから、何となくはかないイメージを受けます。
それに対して詮子は、なかなかきかん気でおてんばな姫さまだったのではないでしょうか。道兼は詮子の1歳上の兄ですが、彼女は年の近い兄にライバル心を燃やし、口げんかをすることもあったかもしれません。
そんな詮子は、17歳の時に人生の転機を迎えました。
天元元年(978)八月、詮子は円融天皇の後宮に入内します。同年十一月に女御となり、「梅壺女御」と呼ばれました。
当時、円融天皇の後宮には、藤原兼通女の(女皇)子、藤原頼忠女の遵子がいましたが、天皇にはまだ皇子が生まれていませんでした。負けず嫌いの詮子は、「私が絶対に帝の第一皇子を生んでやる」と思っていたことは充分考えられます。しかしそれは彼女の負けず嫌いの性格のためだけではなく、自分が帝の第一皇子を生むことによって父兼家を天皇の外戚にし、我が家に運を開かせるという強い信念もあったのではないかと思います。
その強い決心と信念を貫いた詮子は、天元三年(980)六月一日、里邸の東三条第にて、円融天皇の第一皇子を出産します。
「皇子のご誕生ですよ。」と告げられた詮子は何を思ったのでしょうか。「私は他の女御たちに勝った。これでわが父も運が開ける。」と思ったことでしょう。兼家の喜ぶ顔も目に浮かんできそうです。
皇子はその年の八月に親王宣下され、「懐仁」と名付けられました。
しかし詮子は内裏には戻らず、東三条第に居続けたようです。というのは、その年の十一月に内裏が消失しているのですが(当ブログの「尊子内親王」の項を参照して下さい)、詮子が内裏から避難したという記録がないようなのです。しかも円融天皇と他の妃たちとの贈答歌は残っているようですが、詮子との贈答歌は一種もないようなのですよね。
こうしてみると詮子は、懐仁親王を生んだ時点で円融天皇から離れたとも考えられますが、もし詮子が立后していたら、その後の彼女の人生も変わっていたかもしれません。
天元五年三月、、円融天皇が皇后に選んだのは詮子ではなく遵子だったのでした。兼通女の(女皇)子はこの3年前に世を去っており、詮子のあとに入内したもう1人の女御尊子内親王はしっかりした後ろ盾がないため、円融天皇も立后を考えなかったようです。
皇后になることができなかった詮子は「悔しい!帝の皇子を生んでいるのはこの私なのに…」と思ったことでしょう。しかも、遵子が皇后として意気揚々と参内する途中、その行列が東三条第の横を通ったとき、参内の伴をしていた遵子の弟の公任が
「こちらの女御さまはいつ后になるのでしょうね。」
と言ったものですから、詮子の悔しさは言葉では言い表せないものだったと思われます。父兼家も円融天皇に対し、不快をあらわにしたと言われています。
上で私は、「詮子は懐仁親王を生んだ時点で円融天皇から離れたとも考えられる」と書きましたが、少なくても天元五年の正月頃までは、自分の進むべき道をどうするか迷っていたところがあったと思います。
「内裏も再興されたし、そろそろ懐仁を連れて帝のもとに戻っても良い」
と、詮子は考えていたのかもしれませんが、自分が后になれないことを知った時点で、完全に円融天皇から離れたのではないかと思います。
「私は藤原氏側の人間として、父のため、兄弟のため、息子懐仁のために生きよう。」
と、詮子は決心したのではないでしょうか。
その二年後、円融天皇は皇太子の師貞親王に譲位をします。つまり花山天皇です。そして、花山天皇の皇太子には詮子の生んだ懐仁親王が立てられます。円融天皇が譲位し、懐仁親王を皇太子にした理由の一つには、兼家や詮子の不快を和らげようとしたためだとも言われています。
ともあれ、詮子は一応、皇太子の母となったわけです。しかし、花山天皇はまだ若く、いつ譲位するかわかりません。
ただ、花山天皇は外戚の力が非情に弱い天皇でした。そこで兼家は、謀略を持って花山天皇を退位させます。
つまり、寵愛していた女御に先立たれて気落ちした花山天皇につけ込んだのです。五位蔵人として天皇に使えていた兼家の息子道兼は、「一緒に出家しましょう」と言って天皇をだまし、内裏から連れ出してしまいます。そして天皇の出家を見届けると、さっさと逃げ出してしまいます。天皇が「だまされた」ということに気がついたときはもう、三種の神器は懐仁親王のもとに移っていました。
こうして寛和二年(986)六月、懐仁親王は踐祚します。つまり一条天皇です。詮子は天皇の母として皇太后に立てられることとなりました。
この花山天皇退位事件に詮子が関わっていたかどうかはわかりませんが、この謀略の計画を事前に明かされていたことは間違いないと思います。そして謀略が成功したことを聞いたとき、詮子の頭に浮かんだことは「私は勝った!遵子にも、円融上皇にも…」ということだったのではないでしょうか。
かくして詮子は、絶大な力を持つこととなります。つまり、詮子は、天皇の祖父として摂政となった兼家の片腕役だったと考えて良いと思います。それだけ、彼女は強い政治力の持ち主でした。このように外祖父・母后・天皇の3人がそろっているときにこそ、摂関政治は絶大な効果を発揮していたのでした。
永祚二年(990)七月、その兼家が世を去ります。兼家の跡を継いだのは詮子の兄の道隆。あるじを失っても詮子ファミリーは外戚として絶大な力を持ち続けました。
翌正暦二年(991)九月、詮子は落飾します。しかし、世を捨てたわけでは決してありません。詮子はその時に「東三条院」という院号を授かり、上皇並みの待遇となったのでした。そして、この「東三条院」がその後、何十人もの后や内親王に授けられることになる女院号の始まりでした。詮子の発言力はますます強くなっていったことは言うまでもありません。
その発言力が最も発揮されたのが、長徳元年(995)五月の道長政権誕生の時だったのではないかと思います。
長徳元年は激動の年でした。まず、以前から病気であった関白道隆が四月に世を去ります。その直後、西の方からやってきた伝染病が京で流行し始め、公卿・殿上人が次々と死んでいきました。道隆のあとを継いだ道兼も、関白に任じられて十日あまりで世を去ってしまいます。
そこで次期関白の候補となったのは、道隆の嫡男で内大臣の伊周(22歳)と、道隆や道兼・詮子の弟で権大納言の道長(30歳)の二人でした。
詮子が押したのは自分のお気に入りの弟の道長でした。しかし、一条天皇は首を縦にふりませんでした。
というのは、当時一条天皇の後宮には、故道隆の娘、中宮定子がただ一人の后としてときめいており、天皇はこの定子を大変愛しておられました。そこで天皇は、父親を失ったばかりの定子の頼もしい後ろ盾として、伊周に関白になってもらおう…と密かに決心していたようなのです。
そんな天皇の心中に感づいた詮子は非常手段に出ることになります。何と、夜中に天皇の寝所に押しかけていったのでした。
「道兼どのに関白の宣旨を下したのに、道長どのに下さないなんてかわいそうではないの。」
「伊周どのはまだ若くて頼りにはなりません。道長どのこそ、頼りになる御方です。」
と涙ながらに訴え、とうとう天皇に、「道長に内覧の宣旨を下す」ことを承知させます。内覧…と言っても、実質的には関白とほとんど変わりませんので、詮子はここでも自分の信念を貫き通したことになります。
詮子はどうして、道長政権にこだわったのでしょうか?
「兄弟の中で一番仲の良い、お気に入りの弟に政権を取らせてあげたい」という姉としての気持ち、「息子が大切に思っている嫁の定子に対する嫉妬新」などももちろんあったでしょうが、それとは別な気持ちが詮子にはありました。
詮子は、伊周や定子ではなく、彼らの母の実家、高階一族を嫌っていたのではないでしょうか。
実は、関白となった道隆は、妻貴子の実家である高階一族の人々を大変優遇しているのです。貴子の父、高階成忠を従二位に叙したり、貴子の兄弟たちの官位を上げたりしています。元々受領階級である高階一族を、詮子は一段低く見ているところがありました。もし伊周が関白になったら、母方の親戚である彼らの発言力はぐっと強くなります。そのような事になるのは絶対に嫌…と、詮子は思ったのでしょう。
「伊周が関白になったら、権力があちらに移ってしまうかもしれない。それなら、藤原摂関家と帝を守ることができるのは私と道長どのだけ…」
と考えた詮子は、何が何でも天皇を説得しなければ…という、強い信念があったと思われます。彼女はこの時、藤原摂関家の強い女あるじぶりを発揮したとも言えそうです。
さて、その後の詮子ですが……、残念ながら彼女は、その後間もない頃から次第に健康を損ねるようになります。
翌長徳二年(996)三月、病により院号及び年官年爵を辞しています。。長保元年(999)八月、慈徳寺の落慶供養を行ったり、また、洛北長谷の地に解脱寺を建立したりしています。次第に健康を損ねていった詮子は、急速に仏教に帰依するようになったことがうかがえます。
長保三年(1001)十月、道長は自邸の土御門第にて、詮子の四十の賀を催しました。道長の詮子に対する長年の感謝の気持ちの表れだと思われます。
その約半月後、詮子は石山寺詣でをしています。この時期までは、まだ、外出できるほどの病状だったと思います。「藤原摂関家の女あるじとして、私はまだ倒れるわけにはいかない」という強い気力もあったかもしれませんが…。
しかし、その年の閏十二月十六日、詮子は病の重きにより、法橋覚運を戒師として出家。翌日東三条院別当である藤原行成第に渡り、二十二日に崩御しました。まだ早すぎる40歳でした。最晩年には、長保二年に誕生と引き替えに母后定子を亡くした(女美)子内親王を引き取って慈しんでいたと言われています。
こうして彼女の生涯を眺めてみると、まさしく実家のため、父のため、弟のために全力投球で生き抜いた人生だったという感じがします。更に、「思ったことは必ずやり遂げる」という強い意志を持って生きていたような気がします。
また、彼女の強い政治力は、院政期の美服門院や丹後局、鎌倉時代の北条政子などにも通じる者があるような気がします。もう少し注目されてもよい女性だと思います。
☆参考文献
「平安時代史事典 CD-ROM版」 角田文衞監修 角川学芸出版
「人物叢書 一条天皇」 倉本一宏 吉川弘文館
「大鏡 全現代語訳」 保坂弘司 講談社・講談社学術文庫