今までの人物伝では、わりと幸運な人生を送ったと思われる人々を紹介してきましたが、今回は悲運の内親王を紹介したいと思います。
彼女はごく幼いときに賀茂の斎院となり、のちに入内もしていますが、次々と肉親に先立たれ、そのため後ろ盾もなく、ついには出家をしてしまい、若くしてこの世を去ります。しかし、その生き方には何か一本筋が通ったものを感じましたので、ここに紹介させていただきたいと思います。
では彼女、尊子内親王の生涯を年代を追って紹介しますね。
☆康保三年(966) 1歳
誕生。父・冷泉天皇。母・藤原懐子(藤原伊尹女)。
*同じ年に、のちに摂政太政大臣となって栄華を極めることとなる藤原道長も誕生しています。
☆康保四年(967) 2歳。
父、冷泉天皇が踐祚したことによって内親王宣下される。
☆安和元年(968) 3歳
賀茂の斎院に卜定される。
*同母弟師貞親王(後の花山天皇)がこの年に誕生しています
☆安和二年(969) 4歳。
父、冷泉天皇退位。円融天皇踐祚。皇太子には尊子内親王の同母弟師貞親王が立てられる。安和の変により、左大臣源高明が失脚。
☆天禄三年(972) 7歳
2月3日、外祖父藤原伊尹が斎院御所において、内親王のために子日(ねのひ)の遊びを催した際、清原元輔が斎院御所の松と内親王をたたえる歌を詠んでいます。幼い内親王にとって、こういった華やかな遊びの宴は心ときめくものだったと思われます。
しかしその年の十一月、伊尹は49歳で薨じます。かわいがってくれた祖父の死は、内親王にとっては悲しい出来事だったことでしょう。
☆天延元年(973) 8歳
十二月、斎院御庁の建物が焼失。
☆天延二年(974) 9歳。
母方のおじ、挙賢と義孝が流行病により同日に死去。二人は、「前少将」「後少将」と呼ばれた宮中の人気者で、大変な美男子だったと伝えられています。二人が同日に卒したことについては、藤原朝成の怨霊のせいではないかと噂されました。
☆天延三年(975) 10歳
母、藤原懐子が薨じます。内親王は母の喪によって斎院を退下します。次々と訪れる肉親の死を、幼い内親王はどのような気持ちで受け止めていたのでしょうか…。
*余談ですが、尊子内親王の後任は、のちに「大斎院」と呼ばれることとなる選子内親王(村上天皇皇女)です。
☆天元元年(978) 13歳
四品に叙される。
☆天元二年(979) 14歳。
円融天皇の皇后であった(女皇)子(藤原兼通女)が崩御。尊子内親王は、皇后の死を悼み、円融天皇に歌を送りました。
内親王の歌
亀の上の 山をたづねし 人よりも 空に恋いふらむ 君をこそ思へ
円融天皇の返歌
たづぬべき 方だにもなき 別れには 心をいづち やらぬとぞ思ふ
幼いときに多くの肉親に先立たれた内親王は、天皇の哀しみが自分の哀しみのように思えたのかもしれません。
☆天元三年(980) 15歳
前年の歌の贈答が縁になったかどうかははっきりわかりませんが、10月、円融天皇の薦めで入内し、「麗景殿の女御」と呼ばれることとなります。しかしその翌月、内裏が焼失してしまいます。先に斎院御庁が消失したこととも重なり、世間から「火の宮」とあだ名されることとなります。
☆天元四年(981)
十月、内裏復興。
☆天元五年(982) 17歳
正月、参内。承香殿に入り、「承香殿の女御」と呼ばれることになります。二品に昇叙。
4月、頼りにしていたおじの藤原光昭が世を去ります。
この光昭という人、父はもちろん藤原伊尹です。母は一般的には不詳とされていますが、一説によると歌人の井殿(光孝源氏の源信明と中務の間の娘)と言われています。中務は歌人伊勢と敦慶親王(宇多天皇皇子)の間の娘なので、もしこれが事実なら、光昭は伊勢の曾孫ということになります。「中務集」の詞書きによると、中務は井殿・光昭母子のほか、尊子内親王の女房と推定される「宮の君」という女性とも同居しており、そのことが尊子内親王と光昭との関係を深くしていた要因ではなかったかと思われます。
尊子内親王は、祖父伊尹を始め、母方の多くの有力な肉親に先立たれており、父の冷泉天皇は狂気のため全く頼りになりませんでしたので、上で述べたようなことからも、おじの光昭は最も頼りにできる人物でした。その光昭を失った哀しみは計り知れないものがあったと推察されます。
光昭の死後間もなく、内親王は誰にも知らさず、自ら髪を切って内裏を退出しました。つまり有髪の尼となって出家したということになります。当時の高貴な女性の出家は頭を丸坊主にするのではなく、肩のあたりで切りそろえる…というのが習わしだったようです。
☆永観二年(984) 19歳
冷泉・円融両帝に仕えた漢学者の源為憲が、絵入りの仏教説話集「三宝絵」を著し、尊子内親王に寄進しました。仏に仕える毎日を送る中、この本を見ることにより、内親王はどんなに心を慰められたことでしょうか。
*この年、円融天皇退位。同母弟師貞親王が花山天皇として踐祚しています。
☆寛和元年(985) 20歳
四月、受戒。それまでは有髪の尼だったと思われますが、この時に髪を全部切り、正式に出家したものと思われます。多分彼女はこれ以前から病におかされており、快癒を願って受戒したのではないかと思います。しかしその甲斐なく、翌5月に世を去りました。享年二十。少しも心乱れず、安らかな最期であったと伝えられています。
「池亭記」を著した慶滋保胤は、尊子内親王の四十九日のための願文を書きました。
その中で保胤は、、「出家というものは老年で寡婦であるか、病弱で両親のない者がするものであるが、内親王は先帝の女御、今上帝の姉宮という貴い身分で出家をしてしまった。これは仏の化身に違いない。」と述べています。
尊子内親王は、「いみじう美しげに光るやう」(『栄花物語』)と言われるほどの美しい姫宮でした。また、源為憲が心をこめて仏教説話集を送ったこと、慶滋保胤が彼女をたたえる願文を書いていることなどから、誰からも好かれる清らかで優しい心の持ち主だったと思われます。
しかし、藤原伊尹の子や孫の多くが出家をしたり、若くして世を去っている例にもれず、彼女も若くして亡くなってしまいます。せっかく入内したものの内裏が焼け、「火の宮」と呼ばれ、やがて出家してしまう…、一見すると運命にもてあそばれた悲劇の内親王のようにも見えますが、ただ一つ言えることは、彼女は自分の意志で、生きるべき道を選び取ったということです。
円融天皇は尊子内親王に愛情を注いでいたようですが、彼の後宮には、藤原遵子(藤原頼忠女)、藤原詮子(藤原兼家女)といった女御がいました。二人とも、実家の後ろ盾がしっかりした女御です。その上、内親王が出家した頃の円融天皇は、遵子を立后させるという内意を頼忠に伝えておきながら、第一皇子懐仁親王を産んだ詮子にはばかり、なかなかそれを実行できないでいるという状態でした。こんな風に、円融天皇の後宮では、二人の女御の激しい権力闘争が渦巻いていたのです。
そんな中、しっかりした後ろ盾のない内親王は、後宮で孤独を感じざるを得なかったのではないかと思います。そしてその折々に思い出すのが、幼い頃に過ごした斎院御所だったのではないでしょうか。神に仕える清らかな日々をなつかしく思い出していたのかもしれません。そこで、光昭という頼りにしていたおじの死をきっかけに、自分の意志で髪を下ろし、仏に仕える道を選んだのではないでしょうか。最初の方でも書きましたが、何か一本筋が通った強いものを感じます。
彼女の生涯は大変短いものでしたが、特に出家後の彼女が安らかな気持ちで、充実した日々を過ごしたことを祈りたいです。
☆参考文献
内親王ものがたり 岩佐美代子 岩波書店
中務 三十六歌仙の女性 稲賀敬二 新典社
彼女はごく幼いときに賀茂の斎院となり、のちに入内もしていますが、次々と肉親に先立たれ、そのため後ろ盾もなく、ついには出家をしてしまい、若くしてこの世を去ります。しかし、その生き方には何か一本筋が通ったものを感じましたので、ここに紹介させていただきたいと思います。
では彼女、尊子内親王の生涯を年代を追って紹介しますね。
☆康保三年(966) 1歳
誕生。父・冷泉天皇。母・藤原懐子(藤原伊尹女)。
*同じ年に、のちに摂政太政大臣となって栄華を極めることとなる藤原道長も誕生しています。
☆康保四年(967) 2歳。
父、冷泉天皇が踐祚したことによって内親王宣下される。
☆安和元年(968) 3歳
賀茂の斎院に卜定される。
*同母弟師貞親王(後の花山天皇)がこの年に誕生しています
☆安和二年(969) 4歳。
父、冷泉天皇退位。円融天皇踐祚。皇太子には尊子内親王の同母弟師貞親王が立てられる。安和の変により、左大臣源高明が失脚。
☆天禄三年(972) 7歳
2月3日、外祖父藤原伊尹が斎院御所において、内親王のために子日(ねのひ)の遊びを催した際、清原元輔が斎院御所の松と内親王をたたえる歌を詠んでいます。幼い内親王にとって、こういった華やかな遊びの宴は心ときめくものだったと思われます。
しかしその年の十一月、伊尹は49歳で薨じます。かわいがってくれた祖父の死は、内親王にとっては悲しい出来事だったことでしょう。
☆天延元年(973) 8歳
十二月、斎院御庁の建物が焼失。
☆天延二年(974) 9歳。
母方のおじ、挙賢と義孝が流行病により同日に死去。二人は、「前少将」「後少将」と呼ばれた宮中の人気者で、大変な美男子だったと伝えられています。二人が同日に卒したことについては、藤原朝成の怨霊のせいではないかと噂されました。
☆天延三年(975) 10歳
母、藤原懐子が薨じます。内親王は母の喪によって斎院を退下します。次々と訪れる肉親の死を、幼い内親王はどのような気持ちで受け止めていたのでしょうか…。
*余談ですが、尊子内親王の後任は、のちに「大斎院」と呼ばれることとなる選子内親王(村上天皇皇女)です。
☆天元元年(978) 13歳
四品に叙される。
☆天元二年(979) 14歳。
円融天皇の皇后であった(女皇)子(藤原兼通女)が崩御。尊子内親王は、皇后の死を悼み、円融天皇に歌を送りました。
内親王の歌
亀の上の 山をたづねし 人よりも 空に恋いふらむ 君をこそ思へ
円融天皇の返歌
たづぬべき 方だにもなき 別れには 心をいづち やらぬとぞ思ふ
幼いときに多くの肉親に先立たれた内親王は、天皇の哀しみが自分の哀しみのように思えたのかもしれません。
☆天元三年(980) 15歳
前年の歌の贈答が縁になったかどうかははっきりわかりませんが、10月、円融天皇の薦めで入内し、「麗景殿の女御」と呼ばれることとなります。しかしその翌月、内裏が焼失してしまいます。先に斎院御庁が消失したこととも重なり、世間から「火の宮」とあだ名されることとなります。
☆天元四年(981)
十月、内裏復興。
☆天元五年(982) 17歳
正月、参内。承香殿に入り、「承香殿の女御」と呼ばれることになります。二品に昇叙。
4月、頼りにしていたおじの藤原光昭が世を去ります。
この光昭という人、父はもちろん藤原伊尹です。母は一般的には不詳とされていますが、一説によると歌人の井殿(光孝源氏の源信明と中務の間の娘)と言われています。中務は歌人伊勢と敦慶親王(宇多天皇皇子)の間の娘なので、もしこれが事実なら、光昭は伊勢の曾孫ということになります。「中務集」の詞書きによると、中務は井殿・光昭母子のほか、尊子内親王の女房と推定される「宮の君」という女性とも同居しており、そのことが尊子内親王と光昭との関係を深くしていた要因ではなかったかと思われます。
尊子内親王は、祖父伊尹を始め、母方の多くの有力な肉親に先立たれており、父の冷泉天皇は狂気のため全く頼りになりませんでしたので、上で述べたようなことからも、おじの光昭は最も頼りにできる人物でした。その光昭を失った哀しみは計り知れないものがあったと推察されます。
光昭の死後間もなく、内親王は誰にも知らさず、自ら髪を切って内裏を退出しました。つまり有髪の尼となって出家したということになります。当時の高貴な女性の出家は頭を丸坊主にするのではなく、肩のあたりで切りそろえる…というのが習わしだったようです。
☆永観二年(984) 19歳
冷泉・円融両帝に仕えた漢学者の源為憲が、絵入りの仏教説話集「三宝絵」を著し、尊子内親王に寄進しました。仏に仕える毎日を送る中、この本を見ることにより、内親王はどんなに心を慰められたことでしょうか。
*この年、円融天皇退位。同母弟師貞親王が花山天皇として踐祚しています。
☆寛和元年(985) 20歳
四月、受戒。それまでは有髪の尼だったと思われますが、この時に髪を全部切り、正式に出家したものと思われます。多分彼女はこれ以前から病におかされており、快癒を願って受戒したのではないかと思います。しかしその甲斐なく、翌5月に世を去りました。享年二十。少しも心乱れず、安らかな最期であったと伝えられています。
「池亭記」を著した慶滋保胤は、尊子内親王の四十九日のための願文を書きました。
その中で保胤は、、「出家というものは老年で寡婦であるか、病弱で両親のない者がするものであるが、内親王は先帝の女御、今上帝の姉宮という貴い身分で出家をしてしまった。これは仏の化身に違いない。」と述べています。
尊子内親王は、「いみじう美しげに光るやう」(『栄花物語』)と言われるほどの美しい姫宮でした。また、源為憲が心をこめて仏教説話集を送ったこと、慶滋保胤が彼女をたたえる願文を書いていることなどから、誰からも好かれる清らかで優しい心の持ち主だったと思われます。
しかし、藤原伊尹の子や孫の多くが出家をしたり、若くして世を去っている例にもれず、彼女も若くして亡くなってしまいます。せっかく入内したものの内裏が焼け、「火の宮」と呼ばれ、やがて出家してしまう…、一見すると運命にもてあそばれた悲劇の内親王のようにも見えますが、ただ一つ言えることは、彼女は自分の意志で、生きるべき道を選び取ったということです。
円融天皇は尊子内親王に愛情を注いでいたようですが、彼の後宮には、藤原遵子(藤原頼忠女)、藤原詮子(藤原兼家女)といった女御がいました。二人とも、実家の後ろ盾がしっかりした女御です。その上、内親王が出家した頃の円融天皇は、遵子を立后させるという内意を頼忠に伝えておきながら、第一皇子懐仁親王を産んだ詮子にはばかり、なかなかそれを実行できないでいるという状態でした。こんな風に、円融天皇の後宮では、二人の女御の激しい権力闘争が渦巻いていたのです。
そんな中、しっかりした後ろ盾のない内親王は、後宮で孤独を感じざるを得なかったのではないかと思います。そしてその折々に思い出すのが、幼い頃に過ごした斎院御所だったのではないでしょうか。神に仕える清らかな日々をなつかしく思い出していたのかもしれません。そこで、光昭という頼りにしていたおじの死をきっかけに、自分の意志で髪を下ろし、仏に仕える道を選んだのではないでしょうか。最初の方でも書きましたが、何か一本筋が通った強いものを感じます。
彼女の生涯は大変短いものでしたが、特に出家後の彼女が安らかな気持ちで、充実した日々を過ごしたことを祈りたいです。
☆参考文献
内親王ものがたり 岩佐美代子 岩波書店
中務 三十六歌仙の女性 稲賀敬二 新典社