今回は、私が以前から気になっていた、「源氏物語」にも影響を与えた兼明親王を紹介したいと思います。天皇の皇子に生まれ、臣籍降下して左大臣にまで昇進するものの、突然、再び皇族の身分に戻されてしまうといった、波瀾の生涯を送った方です。
では、彼の生涯を年代を負って書いてみます。そのあとに、関係者へのインタビューも載せてみました。相変わらず妄想炸裂です。
☆兼明親王(かねあきらしんのう) 914~987
父は醍醐天皇 母は藤原菅根(藤原南家)女の淑姫(醍醐天皇更衣)
☆延喜十四年(914)
誕生。成年は同じく醍醐天皇の皇子で、後に安和の変で失脚する源高明(母は源唱女周子)と同年。
なお、外祖父の菅根は文章博士出身で、蔵人頭も勤めていたので醍醐天皇と親しかったのではないか。
☆延喜二十年(920)
源姓を賜り臣籍降下。源兼明となる。
☆承平二年(932)
従四位上に叙せられる。
☆天慶七年(944)
参議に任じられる。
☆天暦七年(953)
権中納言に任じられる。
☆康保四年(967)
大納言に任じられる。
☆安和二年(969)
安和の変により、源高明が失脚。兼明も、高明と兄弟という縁から、一時昇殿を止められる。
☆天禄元年(970)
藤原道綱(父は藤原兼家、母は蜻蛉日記作者)の元服に際し、加冠役をつとめる。
兼明は交際嫌いだったようですが、藤原兼家とはある程度親しかったのではないかと思います。
☆天禄二年(971)
左大臣に任じられる。
このように、兼明はわりと順調に出世をしていました。ところが…、
☆貞元二年(977)
藤原兼通の謀略によって親王となり、政権より遠ざけられた。中務卿に任じられるが、これは親王の名誉職とも言える官職で、実権はない。
「え、どうして?」って感じです。
そこで、兼通さんの堀河第を訪ね、直接事情をうかがうことにしました。
「ああ、その通り、まろが兼明さまを追い落としたのだよ。」と、兼通さんはあっさりと認めました。
「それってもしかして、兼通さんと兼家さんの兄弟の仲が悪かったのが原因なのですか?」
「元々兼家のやつ、弟のくせにこざかしいやつだった」。
と、兼通さんは忌々しそうに言いました。
「あいつは、父上(藤原師輔)ばかりではなく、先々帝村上の帝や実頼おじ、師尹おじ、さらに伊尹兄上に要領よく取り入っていた。このままだとあいつに追い越されてしまう。まあ、本当に追い越されてしまったのだが。あとのことになるが、公卿になったのもあいつの方が先立ったし。弟に追い越された兄は惨めなものだ。」
「それで兼通さん、策を練ったのですよね。」
「その通り。そこでまろは考えた。そうだ、村上の帝の后、安子さま(藤原師輔女・つまり兼通の姉妹)を味方につけようと…。
まろは安子さまのところに行き、一筆書いて下さるように頼んだ。摂関の職は兄弟の順にせよと…。そうすればあいつに追い越されても、兄上のあとはまろが関白になれる。安子さまはそなたの言うことは筋が通っているとおっしゃって下さり、ありがたく起請文を書いて下さった。まろはその起請文を首にかけ、片時も離すまいと決心した。
やがて安子さまは崩御され、数年後、伊尹兄上も亡くなられた。そこで次の関白を誰にするかが問題になった。兼家のやつは、自分が関白になれると大はしゃぎしていたようだが、そうはさせぬ。
まろは今上帝のもとに行き、安子さまの書かれた起請文をお見せした。帝は確かに母上の文字であるとおっしゃられ、まろを関白にして下さった。
しかし、まろが政務を執るのに邪魔になるのは兼家だ。そこでまろは考えた。人が良くておとなしく、まろとも仲の良いいとこ、頼忠どのを引き立て、左大臣にしてあげようと…。しかし、それには左大臣の兼明さまにやめてもらわなくてはならぬ。それで左大臣は病気だという噂を流し、やめさせようという雰囲気に持って行ったのだよ。この試みは大成功だった。さらに兼明さまは兼家めと仲が良い。兼家派の有力者が1人減ったわけだから、一石二鳥だ。
そんなわけで、まろにもしものことがあったとき、関白職をお譲りするのは頼忠どのだ。兼家めには絶対に譲らぬ。」
兼通さんは語り終えると満足そうに口元を撫でました。
それにしてもお気の毒なのは左大臣から中務宮となってしまった兼明さまです。いえ、後続に復帰されたのでお名前をお呼びするのは恐れ多い。「親王さま」とお呼びした方がいいかもしれませんね。
聞くところによると親王さまは、嵯峨の小倉山と峰続きの亀山の山荘に引きこもっておられるとか、早速そちらをお訪ねし、親王さまに直接お話しを伺うことにしました。
「こんな遠方まで、ようこそお越し下さいました。」と、親王さまは丁寧にご挨拶して下さいました。そして、静かに語り始めました。
「安和の変で失脚した高明どのに比べると、私は運が良いと思っておりました。藤原北家が実権を握る調停で、左大臣まで昇進できたのですから。しかし、今度のことは突然で、私もなぜ自分が左大臣を辞めさせられて中務卿に任じられたのか、なぜ皇族の身分に戻されたのか、よくわからなかったのです。でも、時が経つうちに、その理由が何となくわかってきました。藤原北家による源氏排斥と、兼通どのと兼家どのの不和のため、私が犠牲になったということなのでしょう。」
そう言って、親王さまは一枚の紙を取り出しました。達筆な文字で、何か書かれています。
「『菟裘賦(ときゅうのふ)』です。正しい道が衰え、讒言が横行している世が、いつまた清らかな姿になるか、老いた身はその日を待つあてもなく、あきらめねばなるまい。今は亀山の僧堂に隠れるばかりであるというような趣旨を詩にしてみたのです。この世は無常です。
これからは好きな本を読み、詩を作ったり学問に没頭したりして、悠々自適に暮らそうと思っております。」
確かに親王さまのお部屋には、『史記』や『論語』などの中国の古典から、最近わが国で流行している『竹取物語』や『伊勢物語』まで、多くの書物が置いてあります。
「親王さまは本当に学問がお好きなのですね。」
「私の学問好きは、菅根おじいさまに似たのであろうと、母がよく申しておりました。そして母は、そなたはおじいさまに生き写しだとも言っておりました。
祖父は、私が生まれる前に他界してしまいましたので、会ったことがありません。長生きしていたら、色々なことを教えて下さっただろうにと、とても残念に思います。
そう言えば、私の母方の一族は不遇です。
私の母方のいとこ、祐姫どの(藤原元方女・元方は兼明親王の母、淑姫の兄弟)は、村上の帝の寵愛を得て、第一皇子広平親王をお生みになったのに、藤原師輔どのの娘御、安子どのが憲平親王をもうけられたため、広平親王は皇太子になれず、将来を閉ざされてしまいました。
元方おじは悲嘆にくれて、早く亡くなってしまわれました。その怨霊が、憲平親王、つまり先帝、冷泉の帝にとりつき、先帝は狂気だと噂されております。一族の者がそのように言われるのはとても辛いです。
まあ、これも私の母方が、同じ藤原氏でも今栄えている北家とは別系統の南家だからでしょう。だから私も実権のない一親王に戻されてしまったのです。」
語りながら、親王さまは穏やかな微笑を浮かべられていました。でもその影には、どうしようもない寂しさと暗さが感じられました。
ともあれ、これからの親王さまの生活がどうか平穏でありますように…、そんな思いを抱きながら、私は山荘をあとにしました。
(追記) 兼明親王が「源氏物語」に与えた影響
まず、皇族から臣下へ、そして再び皇族へという身分の変遷が、光源氏の親王から臣下へ、そして准太上天皇へという身分の変遷と似通っているように思えます。
ただ、左大臣から皇族に戻されてしまった兼明親王は完全に左遷ですが、太政大臣から准太上天皇の待遇を受けた光源氏は優遇措置ですよね。
でもそれとは別に、兼明親王の厭世的な生き方は、『源氏物語』に影響を与えたように思えます。
あと忘れてはならないのは、明石一族と兼明親王の関係です。
実は、明石の上の母、明石の尼君の祖父は中務宮で、嵯峨に山荘を持っていたのです。
光源氏が須磨・明石を流浪していたときに知り合った明石の上は、光源氏から上洛するように言われても、なかなか上洛しなかったのですが、ついに決心して数年後に上洛します。ただ、源氏の他の妻たちに遠慮して本邸には入らず、まず母が中務宮から譲り受けた嵯峨の山荘に落ち着きます。「中務宮」や「嵯峨の山荘」というキーワードから、紫式部は兼明親王を思い浮かべながら明石の上の物語を書いたのではないかと思います。
☆参考文献
『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞 監修 角川学芸出版
『紫式部の恋 ー「源氏物語」誕生の謎を解く』 近藤富枝 河出文庫
『大鏡 全現代語訳』 保佐か弘司 講談社学術文庫
☆コメントを下さる方は、掲示板へお願いいたします。
☆トップページへ
では、彼の生涯を年代を負って書いてみます。そのあとに、関係者へのインタビューも載せてみました。相変わらず妄想炸裂です。
☆兼明親王(かねあきらしんのう) 914~987
父は醍醐天皇 母は藤原菅根(藤原南家)女の淑姫(醍醐天皇更衣)
☆延喜十四年(914)
誕生。成年は同じく醍醐天皇の皇子で、後に安和の変で失脚する源高明(母は源唱女周子)と同年。
なお、外祖父の菅根は文章博士出身で、蔵人頭も勤めていたので醍醐天皇と親しかったのではないか。
☆延喜二十年(920)
源姓を賜り臣籍降下。源兼明となる。
☆承平二年(932)
従四位上に叙せられる。
☆天慶七年(944)
参議に任じられる。
☆天暦七年(953)
権中納言に任じられる。
☆康保四年(967)
大納言に任じられる。
☆安和二年(969)
安和の変により、源高明が失脚。兼明も、高明と兄弟という縁から、一時昇殿を止められる。
☆天禄元年(970)
藤原道綱(父は藤原兼家、母は蜻蛉日記作者)の元服に際し、加冠役をつとめる。
兼明は交際嫌いだったようですが、藤原兼家とはある程度親しかったのではないかと思います。
☆天禄二年(971)
左大臣に任じられる。
このように、兼明はわりと順調に出世をしていました。ところが…、
☆貞元二年(977)
藤原兼通の謀略によって親王となり、政権より遠ざけられた。中務卿に任じられるが、これは親王の名誉職とも言える官職で、実権はない。
「え、どうして?」って感じです。
そこで、兼通さんの堀河第を訪ね、直接事情をうかがうことにしました。
「ああ、その通り、まろが兼明さまを追い落としたのだよ。」と、兼通さんはあっさりと認めました。
「それってもしかして、兼通さんと兼家さんの兄弟の仲が悪かったのが原因なのですか?」
「元々兼家のやつ、弟のくせにこざかしいやつだった」。
と、兼通さんは忌々しそうに言いました。
「あいつは、父上(藤原師輔)ばかりではなく、先々帝村上の帝や実頼おじ、師尹おじ、さらに伊尹兄上に要領よく取り入っていた。このままだとあいつに追い越されてしまう。まあ、本当に追い越されてしまったのだが。あとのことになるが、公卿になったのもあいつの方が先立ったし。弟に追い越された兄は惨めなものだ。」
「それで兼通さん、策を練ったのですよね。」
「その通り。そこでまろは考えた。そうだ、村上の帝の后、安子さま(藤原師輔女・つまり兼通の姉妹)を味方につけようと…。
まろは安子さまのところに行き、一筆書いて下さるように頼んだ。摂関の職は兄弟の順にせよと…。そうすればあいつに追い越されても、兄上のあとはまろが関白になれる。安子さまはそなたの言うことは筋が通っているとおっしゃって下さり、ありがたく起請文を書いて下さった。まろはその起請文を首にかけ、片時も離すまいと決心した。
やがて安子さまは崩御され、数年後、伊尹兄上も亡くなられた。そこで次の関白を誰にするかが問題になった。兼家のやつは、自分が関白になれると大はしゃぎしていたようだが、そうはさせぬ。
まろは今上帝のもとに行き、安子さまの書かれた起請文をお見せした。帝は確かに母上の文字であるとおっしゃられ、まろを関白にして下さった。
しかし、まろが政務を執るのに邪魔になるのは兼家だ。そこでまろは考えた。人が良くておとなしく、まろとも仲の良いいとこ、頼忠どのを引き立て、左大臣にしてあげようと…。しかし、それには左大臣の兼明さまにやめてもらわなくてはならぬ。それで左大臣は病気だという噂を流し、やめさせようという雰囲気に持って行ったのだよ。この試みは大成功だった。さらに兼明さまは兼家めと仲が良い。兼家派の有力者が1人減ったわけだから、一石二鳥だ。
そんなわけで、まろにもしものことがあったとき、関白職をお譲りするのは頼忠どのだ。兼家めには絶対に譲らぬ。」
兼通さんは語り終えると満足そうに口元を撫でました。
それにしてもお気の毒なのは左大臣から中務宮となってしまった兼明さまです。いえ、後続に復帰されたのでお名前をお呼びするのは恐れ多い。「親王さま」とお呼びした方がいいかもしれませんね。
聞くところによると親王さまは、嵯峨の小倉山と峰続きの亀山の山荘に引きこもっておられるとか、早速そちらをお訪ねし、親王さまに直接お話しを伺うことにしました。
「こんな遠方まで、ようこそお越し下さいました。」と、親王さまは丁寧にご挨拶して下さいました。そして、静かに語り始めました。
「安和の変で失脚した高明どのに比べると、私は運が良いと思っておりました。藤原北家が実権を握る調停で、左大臣まで昇進できたのですから。しかし、今度のことは突然で、私もなぜ自分が左大臣を辞めさせられて中務卿に任じられたのか、なぜ皇族の身分に戻されたのか、よくわからなかったのです。でも、時が経つうちに、その理由が何となくわかってきました。藤原北家による源氏排斥と、兼通どのと兼家どのの不和のため、私が犠牲になったということなのでしょう。」
そう言って、親王さまは一枚の紙を取り出しました。達筆な文字で、何か書かれています。
「『菟裘賦(ときゅうのふ)』です。正しい道が衰え、讒言が横行している世が、いつまた清らかな姿になるか、老いた身はその日を待つあてもなく、あきらめねばなるまい。今は亀山の僧堂に隠れるばかりであるというような趣旨を詩にしてみたのです。この世は無常です。
これからは好きな本を読み、詩を作ったり学問に没頭したりして、悠々自適に暮らそうと思っております。」
確かに親王さまのお部屋には、『史記』や『論語』などの中国の古典から、最近わが国で流行している『竹取物語』や『伊勢物語』まで、多くの書物が置いてあります。
「親王さまは本当に学問がお好きなのですね。」
「私の学問好きは、菅根おじいさまに似たのであろうと、母がよく申しておりました。そして母は、そなたはおじいさまに生き写しだとも言っておりました。
祖父は、私が生まれる前に他界してしまいましたので、会ったことがありません。長生きしていたら、色々なことを教えて下さっただろうにと、とても残念に思います。
そう言えば、私の母方の一族は不遇です。
私の母方のいとこ、祐姫どの(藤原元方女・元方は兼明親王の母、淑姫の兄弟)は、村上の帝の寵愛を得て、第一皇子広平親王をお生みになったのに、藤原師輔どのの娘御、安子どのが憲平親王をもうけられたため、広平親王は皇太子になれず、将来を閉ざされてしまいました。
元方おじは悲嘆にくれて、早く亡くなってしまわれました。その怨霊が、憲平親王、つまり先帝、冷泉の帝にとりつき、先帝は狂気だと噂されております。一族の者がそのように言われるのはとても辛いです。
まあ、これも私の母方が、同じ藤原氏でも今栄えている北家とは別系統の南家だからでしょう。だから私も実権のない一親王に戻されてしまったのです。」
語りながら、親王さまは穏やかな微笑を浮かべられていました。でもその影には、どうしようもない寂しさと暗さが感じられました。
ともあれ、これからの親王さまの生活がどうか平穏でありますように…、そんな思いを抱きながら、私は山荘をあとにしました。
(追記) 兼明親王が「源氏物語」に与えた影響
まず、皇族から臣下へ、そして再び皇族へという身分の変遷が、光源氏の親王から臣下へ、そして准太上天皇へという身分の変遷と似通っているように思えます。
ただ、左大臣から皇族に戻されてしまった兼明親王は完全に左遷ですが、太政大臣から准太上天皇の待遇を受けた光源氏は優遇措置ですよね。
でもそれとは別に、兼明親王の厭世的な生き方は、『源氏物語』に影響を与えたように思えます。
あと忘れてはならないのは、明石一族と兼明親王の関係です。
実は、明石の上の母、明石の尼君の祖父は中務宮で、嵯峨に山荘を持っていたのです。
光源氏が須磨・明石を流浪していたときに知り合った明石の上は、光源氏から上洛するように言われても、なかなか上洛しなかったのですが、ついに決心して数年後に上洛します。ただ、源氏の他の妻たちに遠慮して本邸には入らず、まず母が中務宮から譲り受けた嵯峨の山荘に落ち着きます。「中務宮」や「嵯峨の山荘」というキーワードから、紫式部は兼明親王を思い浮かべながら明石の上の物語を書いたのではないかと思います。
☆参考文献
『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞 監修 角川学芸出版
『紫式部の恋 ー「源氏物語」誕生の謎を解く』 近藤富枝 河出文庫
『大鏡 全現代語訳』 保佐か弘司 講談社学術文庫
☆コメントを下さる方は、掲示板へお願いいたします。
☆トップページへ