『ソナチネ』 北野武監督 ☆☆☆☆☆
たけしの映画は好きでほとんど観ているが、今のところこの『ソナチネ』が一番好きだ。これがたけし映画の最高傑作という人も多いようなので、当たり前の意見なのだろう。ベネチアで賞を取った『HANA-BI』も良いが、病気の妻と一緒に死ぬというプロットにいささかメロドラマ性を感じるので、より乾いていて、突き抜けるように虚無的な『ソナチネ』の方が優れていると思う。
まず、たけし映画のスタイルがほぼ完成された形で出ている。静謐でひんやりした空気、極端に省略・デフォルメされた場面、何もしない演技、突発的な暴力。たけしは様式的といってもいいぐらいスタイリッシュな映像を作る監督だが、その映像感覚は本作で存分に味わうことができる。『3-4×10月』なんかもたけし的で良い映画だが、まだ『ソナチネ』ほどスタイルが研ぎ澄まされていない。
本作を語る時に虚無感という言葉は絶対について回るが、それをもたらすものは何かと考えてみると、もともとたけしが持っているクールな映像・演出センスに加え、虚無的なストーリー、エピソードやギャグのブラックさ、そして舞台となっている沖縄の抜けるような青い空と海の映像がもたらす感覚だと思う。
ストーリーは例によってヤクザもので、ヤクザ同士の抗争が物語の軸となっているが、映画のポイントはむしろ抗争の合間にやることがなくなって海で遊ぶヤクザ達の姿にある。たけし演じる村川は抗争に加勢するため手下を引き連れて沖縄にやってくるが、ビルの爆破や襲撃で手下はほとんど死に、数人だけ海辺の家に隠れてほとぼりがさめるのを待つことになる。ヤクザ達は暇なので拳銃でウィリアム・テルごっこ、じゃんけんロシアン・ルーレット、紙相撲、沖縄の踊り、フリスビー、落とし穴、花火で戦争ごっこ、などをやってただただ遊び戯れる。もちろん、この遊び戯れる夏休みのような日々はやがて終わりを告げるのだが。
あらゆるヤクザ映画ギャングスター映画では、当たり前のことだが画面では常に抗争が進展中で、登場人物達はいつ寝てメシ喰ってるのか分からないくらい常に抗争や復讐や犯人探しに没頭している。もちろん観客を飽きさせないためだが、だからこそ「やることなくて遊ぶヤクザ」というアイデアで映画を作るには天才を要するのである。そして虚無的な暴力による発端とクライマックスで「やることなくて遊ぶヤクザ」をサンドイッチにした時点で、この映画が傑作になることは必然だったのだ。
ブラックなギャグも冴えに冴えまくる。ヤクザがアロハ着て沖縄に行く時点でもう笑えるが、他にも金返さない債務者を「3分ぐらい沈めてみるか」などと言って海に沈めるシーン、たけしが射殺した死体を舎弟が「じゃ、海に捨てよっか」と言いながら捨てるシーンなど、面白いシーン満載である。勝村政信と寺島進の舎弟コンビがとにかく最高で、「(マリファナを吸いながら)吸う?」「何だよ」「マリファナ」「麻薬だろ? おれ、シャブしかやんねーから」などケッサクな会話がたくさんある。この二人はリンゴを頭に載せて交代で拳銃で撃つウィリアム・テルごっこなどもやる。こういうカラッと乾いたブラックなギャグは『HANA-BI』では姿を消し、代わりに重たく湿った叙情性が現れる。
この無為で虚無的で、しかも愛しいヤクザ達の日々の背景となっているのが沖縄の美しい海と空というのがまた良い。太陽と海というのは『異邦人』『太陽がいっぱい』などフランス映画では虚無と結びつきやすい舞台設定だが、そういえばこの『ソナチネ』もどこかフランス映画的なニュアンスを持っている。
そして虚無感の駄目押しをするのが結末である。村川がホテルに殴りこみに行くクライマックスで死んでしまうのではなく、生き残り、女が待つ浜辺のすぐそばであっけなく自殺するというこの結末。これは『HANA-BI』のような悲劇的な心中というドラマ性もなく、「え、何で死ぬの?」みたいなまさに「空虚な」自殺である。
ところでこの映画を含め、たけしの映画にはストーリーがない、もしくは弱いと批判する人がいるが、それは違うと思う。まず、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のようにストーリーに依存しない映画というものもあり、それは必ずしも映画の欠点ではない。しかしたけし映画はそういう映画でもなく、いつもかなりしっかりした物語を持っているように私には思える。ただ起承転結や伏線やサスペンスの盛り上げなど、いわゆる娯楽映画の定石を踏んでいないだけだ。この映画で言えば、さっき書いたように「遊び戯れるヤクザ」のエピソードを暴力シーンで挟み込むという緊密な構成になっているし、物語もこれ以上終わりようがないくらいはっきり終わる。例えばこの映画に村山をはめようとする若頭の描写、終盤現れる殺し屋の凄腕ぶりを示すエピソード、村山達を殺そうとする対立組織の描写などを遊び戯れる村山達と平行して入れたりすれば、普通に「ストーリーがある」感じになるだろう。
つまり説明が極端に省略されているので、あれこれ説明して場面をつなげていく普通の娯楽映画と違い、場面転換が唐突でぶっきらぼうな印象を与える。またエピソードが物語の説明に堕しておらず、それぞれ独立した面白さ(または美しさ)を持っているので、各エピソードの断片性が強調される傾向にある。しかしそういう傾向は傑作と呼ばれる映画に多々見られるものであって、ストーリーがない(もしくは弱い)ということではない。でなければ、名作『髪結いの亭主』や『ミツバチのささやき』、『2001年宇宙の旅』、『二人のヴェロニカ』、カウリスマキの映画などもみんなストーリーが弱いことになってしまうだろう。この映画には見事なストーリーがある、これだけは声を大にして言っておきたい。
たけしの映画は好きでほとんど観ているが、今のところこの『ソナチネ』が一番好きだ。これがたけし映画の最高傑作という人も多いようなので、当たり前の意見なのだろう。ベネチアで賞を取った『HANA-BI』も良いが、病気の妻と一緒に死ぬというプロットにいささかメロドラマ性を感じるので、より乾いていて、突き抜けるように虚無的な『ソナチネ』の方が優れていると思う。
まず、たけし映画のスタイルがほぼ完成された形で出ている。静謐でひんやりした空気、極端に省略・デフォルメされた場面、何もしない演技、突発的な暴力。たけしは様式的といってもいいぐらいスタイリッシュな映像を作る監督だが、その映像感覚は本作で存分に味わうことができる。『3-4×10月』なんかもたけし的で良い映画だが、まだ『ソナチネ』ほどスタイルが研ぎ澄まされていない。
本作を語る時に虚無感という言葉は絶対について回るが、それをもたらすものは何かと考えてみると、もともとたけしが持っているクールな映像・演出センスに加え、虚無的なストーリー、エピソードやギャグのブラックさ、そして舞台となっている沖縄の抜けるような青い空と海の映像がもたらす感覚だと思う。
ストーリーは例によってヤクザもので、ヤクザ同士の抗争が物語の軸となっているが、映画のポイントはむしろ抗争の合間にやることがなくなって海で遊ぶヤクザ達の姿にある。たけし演じる村川は抗争に加勢するため手下を引き連れて沖縄にやってくるが、ビルの爆破や襲撃で手下はほとんど死に、数人だけ海辺の家に隠れてほとぼりがさめるのを待つことになる。ヤクザ達は暇なので拳銃でウィリアム・テルごっこ、じゃんけんロシアン・ルーレット、紙相撲、沖縄の踊り、フリスビー、落とし穴、花火で戦争ごっこ、などをやってただただ遊び戯れる。もちろん、この遊び戯れる夏休みのような日々はやがて終わりを告げるのだが。
あらゆるヤクザ映画ギャングスター映画では、当たり前のことだが画面では常に抗争が進展中で、登場人物達はいつ寝てメシ喰ってるのか分からないくらい常に抗争や復讐や犯人探しに没頭している。もちろん観客を飽きさせないためだが、だからこそ「やることなくて遊ぶヤクザ」というアイデアで映画を作るには天才を要するのである。そして虚無的な暴力による発端とクライマックスで「やることなくて遊ぶヤクザ」をサンドイッチにした時点で、この映画が傑作になることは必然だったのだ。
ブラックなギャグも冴えに冴えまくる。ヤクザがアロハ着て沖縄に行く時点でもう笑えるが、他にも金返さない債務者を「3分ぐらい沈めてみるか」などと言って海に沈めるシーン、たけしが射殺した死体を舎弟が「じゃ、海に捨てよっか」と言いながら捨てるシーンなど、面白いシーン満載である。勝村政信と寺島進の舎弟コンビがとにかく最高で、「(マリファナを吸いながら)吸う?」「何だよ」「マリファナ」「麻薬だろ? おれ、シャブしかやんねーから」などケッサクな会話がたくさんある。この二人はリンゴを頭に載せて交代で拳銃で撃つウィリアム・テルごっこなどもやる。こういうカラッと乾いたブラックなギャグは『HANA-BI』では姿を消し、代わりに重たく湿った叙情性が現れる。
この無為で虚無的で、しかも愛しいヤクザ達の日々の背景となっているのが沖縄の美しい海と空というのがまた良い。太陽と海というのは『異邦人』『太陽がいっぱい』などフランス映画では虚無と結びつきやすい舞台設定だが、そういえばこの『ソナチネ』もどこかフランス映画的なニュアンスを持っている。
そして虚無感の駄目押しをするのが結末である。村川がホテルに殴りこみに行くクライマックスで死んでしまうのではなく、生き残り、女が待つ浜辺のすぐそばであっけなく自殺するというこの結末。これは『HANA-BI』のような悲劇的な心中というドラマ性もなく、「え、何で死ぬの?」みたいなまさに「空虚な」自殺である。
ところでこの映画を含め、たけしの映画にはストーリーがない、もしくは弱いと批判する人がいるが、それは違うと思う。まず、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のようにストーリーに依存しない映画というものもあり、それは必ずしも映画の欠点ではない。しかしたけし映画はそういう映画でもなく、いつもかなりしっかりした物語を持っているように私には思える。ただ起承転結や伏線やサスペンスの盛り上げなど、いわゆる娯楽映画の定石を踏んでいないだけだ。この映画で言えば、さっき書いたように「遊び戯れるヤクザ」のエピソードを暴力シーンで挟み込むという緊密な構成になっているし、物語もこれ以上終わりようがないくらいはっきり終わる。例えばこの映画に村山をはめようとする若頭の描写、終盤現れる殺し屋の凄腕ぶりを示すエピソード、村山達を殺そうとする対立組織の描写などを遊び戯れる村山達と平行して入れたりすれば、普通に「ストーリーがある」感じになるだろう。
つまり説明が極端に省略されているので、あれこれ説明して場面をつなげていく普通の娯楽映画と違い、場面転換が唐突でぶっきらぼうな印象を与える。またエピソードが物語の説明に堕しておらず、それぞれ独立した面白さ(または美しさ)を持っているので、各エピソードの断片性が強調される傾向にある。しかしそういう傾向は傑作と呼ばれる映画に多々見られるものであって、ストーリーがない(もしくは弱い)ということではない。でなければ、名作『髪結いの亭主』や『ミツバチのささやき』、『2001年宇宙の旅』、『二人のヴェロニカ』、カウリスマキの映画などもみんなストーリーが弱いことになってしまうだろう。この映画には見事なストーリーがある、これだけは声を大にして言っておきたい。
定石といわれる映画の形があってこそ、たけしの映画が存在すると思いますし、映画はストーリーを楽しむだけの物ではない、とつくづく思います。
今『アウトレイジ』を楽しみにしているところです。
久々に観て思ったんですが、沖縄に行くまでの一連のシーンが凄くイイですね。
この『東京でのドロドロとした日常』がその後に出てくる『沖縄の美しさ』を際立たせてるように感じました。
それにしてもこの頃のたけしは眼が怖いですね