
『欲望のあいまいな対象』 ルイス・ブニュエル監督 ☆☆☆☆
ブニュエル監督の遺作である。初めて観たが、やっぱブニュエルだなという変態感、次の場面で何がどうなるか分からないスリルはムンムンに立ち込めている一方で、ストーリーは非常にシンプルですっきりしていて、見やすい感じだ。作り手もリラックスしているというか、もはや映画を作ることの気負いから完全に解放されている印象。『ビリディアナ』や『小間使いの日記』や『昼顔』にはどこか攻撃的なスタンスがあるが、この映画にはそれがない。だから見やすい。(といっても映画そのものが尖ってないという意味ではないので注意)
話は簡単で、要するに男がとことん女にじさられる、これだけである。最初から最後までじらし一辺倒。じらしプレイが好きな人はほぼ昇天できる。そのじらし方はもうすさまじい域に達していて、最後の方は怖くなってくる。が、この映画を安心して観ていられる理由のひとつは、最初にこの男女の現在の状況が出てきてその後男が自分の身の上話を語る、という形式のせいで、少なくともこの二人は殺し合いもしないし自殺もしないということが分かっている。
冒頭の場面で、男の豪華な屋敷の一室がメチャメチャに荒らされている。そこにいた女が出て行ったらしい。男は駅へ行き、汽車に乗り込む。すると女がやってくる。男は突然女にバケツの水をぶっかける。驚く回りの人々に対し、男は「あれはとんでもない女なのです」と告げ、身の上話を始める……。ここから回想場面。女は最初、男の家のメイドとして現れる。名前はコンチータ。その美貌に目がくらんだ男はすぐに言い寄るが、女は行方をくらます。次に旅行先でコンチータと再会した男は、彼女の住所を聞き出し母親と二人暮らしのそのアパートに足繁く通うようになる。コンチータはまんざらでもないそぶりだが、どうしても一線を越えさせてくれない。苛立った男は母親と話をつけて、コンチータを自分の屋敷に迎えることにするが、彼女は「私はあなたのものになるつもりだったのに、母と決めてしまうなんてひどい」と置手紙を残し、消えてしまう。アパートはもぬけの空。落ち込む男。しばらくして、男はたまたま入ったレストランでクローク係をやっているコンチータと再会する。またしても言い寄る男。まんざらでもない、というか明らかに気のあるそぶりのコンチータ。男は熱を上げるが、しかしまたしても……。
という話である。行方知れずとなったコンチータと色んなところでばったり再会するのが笑える。かなりふざけた映画である。そういうおふざけ感をニヤニヤ楽しめる一方で、もうちょっとというところでいつも逃げられる男の、やり場のない焼きつくような欲求不満と、コンチータという女が一体何を考えているのかさっぱり分からない焦燥感がどんどんエスカレートしていくので、観客も相当モヤモヤしてくる。もし自分がこういう立場に立たされたら気が狂うんじゃないか、と怖くなる。性的な欲求不満というのは下手すると怪物的に膨らんでいくものだし、女がその気があるそぶりをして掻き立てるようなマネをしたら尚更だ。とんでもないことになってしまう。
従って、物語が進むにつれてだんだん半狂乱になってくる男の姿には、ただのおふざけではないリアリティと絶望感が漂う。男なら誰でも身につまされるに違いない。「おいおい、もう止めとけよ。その女はダメだって!」と声をかけてやりたくなるが、そこで止められない心境も分かるのである。こうして男は、底なし沼のようなコンチータ地獄の中に呑み込まれていく。
ところでこの映画が面白いのは、コンチータを二人の女優がかわりばんこに演じている点である。一人二役ではなく、二人一役。もちろん顔が違う(二人ともちょっとタイプの違う美人である)が、同一人物として出てくる。それぞれがコンチータの何かしらの状態を表わしている、ということもないようで、ランダムに入れ替わる。何も知らないで観ると混乱するだろう。ブニュエルによれば「深い意味はない」そうだから考え込む必要はないのだろうが、しかし面白い効果を上げていると思う。このせいでコンチータという女がますますつかみどころがなくなり、その変幻自在性と不可思議な存在感が強く印象づけられる。
それから、映画のあちこちに世の中に氾濫するテロ事件や不穏な世相が点景のように挟み込まれていて、そうしたアナーキズムが映画全体に奇妙な不穏さと荒々しさを与えている。メインプロットである恋愛劇は男が富豪であることもあってブルジョワ的なので、その対比は異様に鮮明だ。
全体としては、おふざけ感や分かりやすいプロットのせいで観やすい映画でありながら、狂気の域にまで追いつめられていく欲求不満とアイロニーを荒々しく結びつけた、きわめてブニュエルらしいフィルムだと思う。ところで、この嫉妬に狂っていく男というプロットはモラヴィアの『倦怠』やピエール・ルイスの『女と人形』みたいだな、と思いつつ観終えたところ、この映画は『女と人形』を下敷きにしていたらしい。知らなかった。
しかしこの映画では極端にデフォルメされているけれども、実際、女ってみんなこういうとこあるよね、と思えてしまうのが、なんともコワイところであります。
ブニュエル監督の遺作である。初めて観たが、やっぱブニュエルだなという変態感、次の場面で何がどうなるか分からないスリルはムンムンに立ち込めている一方で、ストーリーは非常にシンプルですっきりしていて、見やすい感じだ。作り手もリラックスしているというか、もはや映画を作ることの気負いから完全に解放されている印象。『ビリディアナ』や『小間使いの日記』や『昼顔』にはどこか攻撃的なスタンスがあるが、この映画にはそれがない。だから見やすい。(といっても映画そのものが尖ってないという意味ではないので注意)
話は簡単で、要するに男がとことん女にじさられる、これだけである。最初から最後までじらし一辺倒。じらしプレイが好きな人はほぼ昇天できる。そのじらし方はもうすさまじい域に達していて、最後の方は怖くなってくる。が、この映画を安心して観ていられる理由のひとつは、最初にこの男女の現在の状況が出てきてその後男が自分の身の上話を語る、という形式のせいで、少なくともこの二人は殺し合いもしないし自殺もしないということが分かっている。
冒頭の場面で、男の豪華な屋敷の一室がメチャメチャに荒らされている。そこにいた女が出て行ったらしい。男は駅へ行き、汽車に乗り込む。すると女がやってくる。男は突然女にバケツの水をぶっかける。驚く回りの人々に対し、男は「あれはとんでもない女なのです」と告げ、身の上話を始める……。ここから回想場面。女は最初、男の家のメイドとして現れる。名前はコンチータ。その美貌に目がくらんだ男はすぐに言い寄るが、女は行方をくらます。次に旅行先でコンチータと再会した男は、彼女の住所を聞き出し母親と二人暮らしのそのアパートに足繁く通うようになる。コンチータはまんざらでもないそぶりだが、どうしても一線を越えさせてくれない。苛立った男は母親と話をつけて、コンチータを自分の屋敷に迎えることにするが、彼女は「私はあなたのものになるつもりだったのに、母と決めてしまうなんてひどい」と置手紙を残し、消えてしまう。アパートはもぬけの空。落ち込む男。しばらくして、男はたまたま入ったレストランでクローク係をやっているコンチータと再会する。またしても言い寄る男。まんざらでもない、というか明らかに気のあるそぶりのコンチータ。男は熱を上げるが、しかしまたしても……。
という話である。行方知れずとなったコンチータと色んなところでばったり再会するのが笑える。かなりふざけた映画である。そういうおふざけ感をニヤニヤ楽しめる一方で、もうちょっとというところでいつも逃げられる男の、やり場のない焼きつくような欲求不満と、コンチータという女が一体何を考えているのかさっぱり分からない焦燥感がどんどんエスカレートしていくので、観客も相当モヤモヤしてくる。もし自分がこういう立場に立たされたら気が狂うんじゃないか、と怖くなる。性的な欲求不満というのは下手すると怪物的に膨らんでいくものだし、女がその気があるそぶりをして掻き立てるようなマネをしたら尚更だ。とんでもないことになってしまう。
従って、物語が進むにつれてだんだん半狂乱になってくる男の姿には、ただのおふざけではないリアリティと絶望感が漂う。男なら誰でも身につまされるに違いない。「おいおい、もう止めとけよ。その女はダメだって!」と声をかけてやりたくなるが、そこで止められない心境も分かるのである。こうして男は、底なし沼のようなコンチータ地獄の中に呑み込まれていく。
ところでこの映画が面白いのは、コンチータを二人の女優がかわりばんこに演じている点である。一人二役ではなく、二人一役。もちろん顔が違う(二人ともちょっとタイプの違う美人である)が、同一人物として出てくる。それぞれがコンチータの何かしらの状態を表わしている、ということもないようで、ランダムに入れ替わる。何も知らないで観ると混乱するだろう。ブニュエルによれば「深い意味はない」そうだから考え込む必要はないのだろうが、しかし面白い効果を上げていると思う。このせいでコンチータという女がますますつかみどころがなくなり、その変幻自在性と不可思議な存在感が強く印象づけられる。
それから、映画のあちこちに世の中に氾濫するテロ事件や不穏な世相が点景のように挟み込まれていて、そうしたアナーキズムが映画全体に奇妙な不穏さと荒々しさを与えている。メインプロットである恋愛劇は男が富豪であることもあってブルジョワ的なので、その対比は異様に鮮明だ。
全体としては、おふざけ感や分かりやすいプロットのせいで観やすい映画でありながら、狂気の域にまで追いつめられていく欲求不満とアイロニーを荒々しく結びつけた、きわめてブニュエルらしいフィルムだと思う。ところで、この嫉妬に狂っていく男というプロットはモラヴィアの『倦怠』やピエール・ルイスの『女と人形』みたいだな、と思いつつ観終えたところ、この映画は『女と人形』を下敷きにしていたらしい。知らなかった。
しかしこの映画では極端にデフォルメされているけれども、実際、女ってみんなこういうとこあるよね、と思えてしまうのが、なんともコワイところであります。
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