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アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊

2011-02-16 23:02:00 | アニメ
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』 押井守監督   ☆☆☆☆

 DVDで再見。これは海外でもジャパニメーションの代表的作品として認知されている作品で、マトリックスの元ネタになっているのは有名な話。人間の首の後ろにジャックの穴があってネットに接続できる、なんて部分がそのままパクられている。それからバットマン・シリーズの『ダークナイト』でもバットマンが車の屋根に飛び降りて重さで屋根がへこむ、という場面があったが、ああいうのもこれの影響だろう。サイボーグの素子が飛び降りてコンクリートの地面がひび割れる描写がある。

 結局のところ、そういうスタイリッシュな描写、神経質なまでに美意識を貫いたビジュアルへのこだわりがこの作品の魅力だと思う。あくまでエンタメであり、クールでスタイリッシュなノワールなのだ。逆に思想やらテーマやらには、とりたてて魅力を感じない。

 最初にこれを観た時は友人に借りたのだが、パッケージを見てオタクっぽいなと思い、あまり期待せずに見始めた。アヴァンタイトルで主人公の草薙素子少佐の裸が出てきた時は「やっぱりそっち系か」と思ったが、その直後、タイトルバックの映像と音楽にやられた。主人公である草薙素子の義体の製造工程なのだが、凝りに凝りまくった映像である。バックに流れるのは日本の雅楽みたいな奇妙で荘厳な音楽。このタイトルバックは本作の美意識の結晶であり、この作品の魅力の端的な要約になっている。

 話は結構ややこしい。草薙素子少佐、バトー達は公安9課所属の捜査員で、彼らの体は多かれ少なかれサイボーグ化されている(完全な人間の捜査員も少数だがいる)。人工の体は義体と呼ばれ、ネットに接続したり透明化したりできる。義体を動かす意識の方はゴーストと呼ばれる。そんな彼らの前に「人形つかい」と呼ばれる天才的ハッカーが現れる。「人形つかい」は工場で作られたばかりの金髪女の義体に侵入し、ハイウェイに出たところを車にひかれて公安警察に捕まる。「人形つかい」ともあろうものがなぜこんなミスを? ひょっとしてわざと捕まったのか? 目的が分からず混乱する素子達。やがて「人形つかい」は公安警察のプロジェクトで生み出され、ネットに逃げ出した擬似人格であることが分かる。つまり「人形つかい」は人間ではなく、「ネットの海で発生した生命」なのだった。この事実に蓋をしたい公安1課は義体を盗み出して逃げ、素子とバトーたちはそれを追う。素子の目的は義体を取り戻し、そのゴーストにダイブする(自分の意識を接続する)ことだった。彼女は脳以外すべて義体化された自分が本当に人間なのか、自分の意識や記憶は本当に真実なのかという疑念に悩まされていた…。

 作品の中では草薙素子の苦悩、自分は人間なのか、自分の記憶は本物なのか、という疑念が主軸となっている(その注釈として偽の記憶を植えつけられた男のエピソードがある)。メランコリーに耐えかねるように、素子はオフの時間に海に潜る。水より重い体を持つサイボーグにとって潜水は危険であるにもかかわらずだ。それを説明して素子はバトーに言う。「海面に浮かび上がる時、もしかしたら今までとは違う自分になれるんじゃないかという希望を感じる」と。

 偽の記憶、電脳空間、他人の意識へのダイブ、バーチャルな生命。本作の世界観はフィリップ・K・ディックや『ブレードランナー』、サーバーパンクSFあたりの世界観と重なるが、ディックほどの切実さ、実存的な問いをめぐってのたうつ切迫感は感じられない。メランコリックなムードの彩りという感じだ。その証拠に、最後の場面の素子はもうそんな悩みとは無縁の存在になっている(ように見える)。問題は解決していないどころかますます先鋭化しているにも関わらずだ。むしろ制作者側の意図は、現実とバーチャルの境界に悩むより積極的にバーチャル側に足を踏み入れる、つまりバーチャルを肯定することにあるような気すらする。素子の悩みが皮相的に感じられ、曖昧なまま解消してしまうのはやはり思想が借り物であり、付け刃だからだろう。この押井監督の引用癖は次作の『イノセンス』ではさらにあからさまになるが、本作ではまだそれほど目立たない。

 最初に書いた通り本作の美点は思想ではなく美意識にあり、つまりディテールの美しさにある。アクション場面が多いにもかかわらず全体に静謐なムードが漂っているのもそのせいだ。これは非常に耽美的な映画なのである。それはあのタイトル・バックを見れば明らかだし、映画の途中にインターリュード的に挿入される雨のチャイナタウンの情景からも分かる。そしてきわめつけはクライマックスの、廃墟の中での昆虫のような戦車と素子との孤独なバトル。この場面は素晴らしくスリリングで迫力満点だが、同時に静謐と詩情に満ちている。銃撃音と銃撃音の合間に世界を満たす細かな雨のささめき。昆虫型戦車に振り注ぐ雨。壁画にうがたれた銃痕。実に美しい。

 ちなみに壁などに銃痕がうがたれる時普通のアニメでは迫力を出すため火花を入れるが、実際には石の壁で火花は出ないということで、本作では火花を入れなかったらしい。確かにリアルな感じがする。

 ラストはなんじゃこりゃという感じだが、まあストーリーはどこで切っても良かったんだろう。どうせちゃんとは終わっていない。それにそれまで「自分とは何か」みたいに悩んでいた素子が、結局プログラムとの融合を選んでしまう。そして「ネット世界は広大だ」。あっけらかんとしたネット賛美になってしまう。やはりこの作品においてはストーリーは二の次で、映像を見せるための方便に過ぎないのである。

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