アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

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プラハの恋人たち、又はあるすれ違いの物語(その2)

2011-02-14 21:58:14 | 創作
(前回の続き)

 私は一枚だけマリアの写真を持っていた(他の写真はみんな捨ててしまった)。古ぼけていて、縁はあちこち裂け、かなり傷んだ写真である。トリニティの目に触れないように、本に挟んで本棚の奥にしまい込んであった。トリニティと出会ってから、私は何度もこの写真を取り出して眺めた。時にはトリニティの写真と一緒に並べて見比べたこともある。何度見ても、二人は良く似ていた。写真の中のマリアは、ニューヨークのセントラルパークで芝生の上に足を投げ出し、上体を起こして私を見つめながら笑っている。信じられないほど昔のことだ。けれどもその時のことを、私はまるで昨日の出来事のようにはっきりと思い出すことができる。

 私は時折、かつて訪れたこともない町の夢を見た。小さな町で、二つの河に挟まれ、石造りの質素な家が建ち並んでいる。私はそこで何をしているのだろうか? そこに誰と住んでいるのだろう? 穏やかな風と光が溢れ、私は水の底で眠る貝のように満ち足りていた。そこがどこであるにせよ、プラハでないことだけは確かだった。

 初めて愛し合った夜にトリニティが囁いた言葉は、魔法の棘のように私の心に刺さったままだった。それが罪悪感のせいだったのかどうか、私にも分からない。私はトリニティと会い、教会でトリニティの歌を聴き、彼女の部屋でトリニティと愛し合った。そうして日々は過ぎていったが、私の中にあるマリアの記憶は薄れていかなかった。

 ある時、私はトリニティに向かってうっかり「マリア」と呼びかけてしまった。自分自身でも気づかないうちに、その名前は私の口から滑り出してしまったのだ。まるでこの時を待ち構えていたかのように。私達はベッドに横たわっていた。トリニティは何も言わなかった。彼女は気づいただろうか、それとも聞こえなかった? 私は狼狽したが、すでに口にした言葉を取り消すことはできなかった。

 愛の行為が終わると、彼女はシャワーを浴び、私はワインを飲み始めた。胸中には暗い罪悪感がわだかまっていた。自分が口にした禁断の名前が、まだ部屋の中を漂っているような気がした。私の中にはマリアだけが占めている特別な空間が存在したが、トリニティは彼女だけを愛することを求めていた。恋人として当然のことだ。私は彼女が求めるものを与えられない自分を恥じていたのかも知れない。私は自分を残酷な人間だと感じた。やるせなさを紛らわせようとして、めったやたらにワインを飲んだ。トリニティがシャワーから出てきて、私の隣に坐り、私の顔にやさしいキスの雨を降らせた。とすると、彼女は私の言い間違いを聞かなかったのだ。私はほっとして、左手を彼女の腰に回した。彼女は微笑み、私の耳を噛んだ。

 次の日、トリニティはいなくなった。私の前から忽然と姿を消したのだ。空っぽになった彼女の部屋で、私は茫然と立ち尽くした。彼女がいなくなったという事実が信じられなかった。何かの間違いだという希望を捨て切れず、私は待った。二日、三日、一週間、二週間、そしてひと月。

 彼女は戻ってこなかった。まるで最初から存在しなかったかのように、私の人生からきれいさっぱり消え失せてしまった。私は木枯らしが吹き抜ける空虚な胸をかかえて、プラハの町を歩き回った。私が口にしたマリアという名前を、やはり彼女は聞いたに違いなかった。彼女がいなくなったのはそのせいだと、私には分かっていた。私は自分の部屋で、マリアの写真とトリニティの写真を並べて眺めた。二人は瓜二つだった。なぜ私はトリニティと出会ったのかと、私は考えた。なぜ人生はトリニティを私のもとへ送って寄越したのか。マリアとそっくりの女、マリアを忘れて愛することなど最初から不可能な女を。

 トリニティから最後の手紙が来たのは、彼女が姿を消して三ヶ月たってからのことだった。

          ~~~

 愛するあなた―――と手紙は私に語りかけた―――あんな風にいなくなってしまって、本当にごめんなさい。あなたは自分を責めているでしょうけど、悪いのは私なのです。あなたに隠していたことがあります。

 私にはかつて、心から愛した人がいました。その人と別れたのは、ほんの小さな運命のいたずらのせいだとでも思って下さい。その人と別れたあと、私は彼のことをどうしても忘れられず、空虚で孤独な日々を送ることになりました。長い長い間、私は他の誰も愛せないまま、たった一人で暮らしていました。そんな時、偶然あなたをプラハの町で見かけたのです。最初にあなたを見た時、心臓が止まるかと思いました。あなたはその人にまったく生き写しだったのです。私は心を乱され、そしてあなたに私の歌を聴いてもらうために、ある計略を用いることにしました。あなたにコンサートのチラシを渡した青年は、私の従兄弟です。私が彼に頼んで、あなたにチラシを渡してもらったのです。勿論、あなたが私に声をかけてくるとは思ってもみませんでした。カフェであなたに声をかけられた時、私は動揺して逃げ出すことしかできませんでした。それでもあなたがまた私の前に現れた時、私は運命が私に二度目のチャンスをくれたのだと思いました。私にとって、あなたは彼の再来でした。私はかつての報われなかった愛を、あなたを愛することで成就しようとしたのです。私は幸せでした。一度なくした愛を、私は取り戻したのです。

 私がどんなに自分勝手で残酷な女だったか、これであなたにも分かったでしょう。でも、運命はもっと残酷でした。ある日私はあなたのアパートでふと本棚の本を一冊手にとり、そこに挟んであった一枚の写真を見つけました。私にそっくりの女性の写真でした。写真の裏には、マリアとだけ書かれていました。その時私は、ようやくすべてを知りました。私もあなたにとって、マリアの身代わりだったのです。これが真実の復讐、運命が私に準備した裁きだったのです。

 私にはあなたを責める資格はありませんでした。しかし私にとってあなたは、もうかつての恋人の身代わりではなくなっていました。私はあなたを、世界に一人しかいないあなただけを愛するようになっていたのです。けれどもあなたにとって私は、マリアの身代わりでしかなかった。そしていつまでも身代わりであり続けるでしょう。私には分かっていました。女にとって思い出は思い出でしかない、けれども男にとっては違います。あなたは私といるかぎり、決してマリアを忘れることはないでしょう。ああ、私がその人であったなら! けれども、すべては運命のいたずらに過ぎなかったのです。あなたが私を他の人の名前で呼んだあの日よりも前に、私にはその事が分かっていました。

 さようなら、愛しい人。どうか自分を責めないで下さい、すべては私の罪なのですから。
 そして私を許して下さい。いつの日か、あなたの心の中からすっかり私が消えてしまうその日まで。
                                                ―――トリニティ

          ~~~

 私は手紙を破き、カレル橋から河に捨てた。もはやプラハにとどまる理由は何もなかった。アパートを引き払い、スーツケースを一つ持ってニューヨーク行きの飛行機に乗った。それ以来、私は二度とプラハに足を踏み入れたことはない。


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