『小間使の日記』 ルイス・ブニュエル監督 ☆☆☆☆☆
Criterion版DVDで再見。モノクロである。ブニュエルの中では人気が高い作品だ。確か渋澤龍彦も『スクリーンの夢魔』の中で絶賛していた。ブニュエルには相当シュールなものもあるがこれはわりと普通で、ちゃんとストーリーもある。ただしブニュエルの旗印であるフェチズムと辛辣なアイロニーは全開になっている。
とりあえずモノクロ映像が非常に彫刻的で美しい。物語の背景となるのはフランスの田舎であり、暗い森であり、広大な庭園を持つ豪邸である。そこに新任のメイドがやってくるところから物語は始まる。主人公であるメイドを演じるのはジャンヌ・モロー。このジャンヌ・モロー起用が本作の人気の一因だと思うが、この映画で見るジャンヌ・モローはもう決して若くはない。実年齢は35歳ぐらいのはずだが、アップになると皺もあるし、やつれた感じがある。だから私はこの映画を観て彼女の美貌を堪能する、とまではいかないのだけれども、やはりメイド姿の彼女には小悪魔的な魅力があり、本作のチャーム・ポイントの一つとして認めるにやぶさかではない。
さて、メイドのセレスティーヌは豪邸で働き始めるが、出てくる奴らみんな異常である。お高くとまった奥方、靴フェチの老人、女と見れば口説こうとする旦那様、憎悪をたぎらせてゴミを投げ込んでくる隣家の男、鵞鳥を苦しめて殺すのが好きなサディストの御者兼下男。この御者はやがて幼女趣味でレイプ魔で殺人犯ということが分かり、セレスティーヌの彼への復讐がプロットの柱となっていく。
渋澤龍彦が「説明され解釈される作家ではなく、強迫観念のように私たちに呼びかけてくる作家」と評したブニュエル十八番のフェチ映像としては、やはり屋敷の大旦那様である老人がセレスティーヌに自分のコレクションであるところの靴を履いて歩かせ、それを見て興奮し、その後自分のベッドで靴を抱いたまま悶絶するシーンが筆頭だろう。それからもちろん、暗い森の中、陵辱された少女の太ももに這う数匹のかたつむり。これもすごい。花に止まった蝶を猟銃で撃つ、なんてシーンもある。嘲笑的でブラックな、人間の深層心理を暴き出すようなブニュエルの視線がこの映画全体を貫いている。どの場面をとっても、そこに登場する人間は得体の知れない、何を考えているか分からない不気味な存在に思える。もともと他人とはそういうものなのだろうが、ブニュエルの映画を観るとそれがあからさまに暴き立てられていく感じがある。
セレスティーヌは一応殺されたクレアの復讐を遂げるが、犯人である御者は結局釈放されてカフェ経営者となるので、因果応報の物語とは言えない。映画はこの幼女殺人者である御者=カフェ経営者を含む人々がファシズムに熱狂していく様子を描いて終わる。一方、ヒロインのセレスティーヌは好きでもない元軍人のじいさんと結婚して、金持ちのマダムにおさまる。非常にシニカルな終わり方だ。渋澤龍彦はこれをもって「一般にブニュエルの世界は、…(中略)…一つの総体的な挫折、永遠に達成されることのない性愛の挫折の表現そのものであろう」と書いている。
ブニュエルの映像は先に書いた通り彫刻的で美しく、おおむね冷静だが、時折急に画面が動いて観客をハッとさせる。まるで登場人物の深層心理の不可解なうねりが、私たちの視界をぐらつかせたかのようだ。美しい映像と、ダークな残酷寓話と、どこか調子の狂った人々。そして退廃的なエレガンスをまき散らすメイド姿のジャンヌ・モロー。本作は、ブニュエル独特のマジカルな呪縛力に満ち満ちている。
Criterion版DVDで再見。モノクロである。ブニュエルの中では人気が高い作品だ。確か渋澤龍彦も『スクリーンの夢魔』の中で絶賛していた。ブニュエルには相当シュールなものもあるがこれはわりと普通で、ちゃんとストーリーもある。ただしブニュエルの旗印であるフェチズムと辛辣なアイロニーは全開になっている。
とりあえずモノクロ映像が非常に彫刻的で美しい。物語の背景となるのはフランスの田舎であり、暗い森であり、広大な庭園を持つ豪邸である。そこに新任のメイドがやってくるところから物語は始まる。主人公であるメイドを演じるのはジャンヌ・モロー。このジャンヌ・モロー起用が本作の人気の一因だと思うが、この映画で見るジャンヌ・モローはもう決して若くはない。実年齢は35歳ぐらいのはずだが、アップになると皺もあるし、やつれた感じがある。だから私はこの映画を観て彼女の美貌を堪能する、とまではいかないのだけれども、やはりメイド姿の彼女には小悪魔的な魅力があり、本作のチャーム・ポイントの一つとして認めるにやぶさかではない。
さて、メイドのセレスティーヌは豪邸で働き始めるが、出てくる奴らみんな異常である。お高くとまった奥方、靴フェチの老人、女と見れば口説こうとする旦那様、憎悪をたぎらせてゴミを投げ込んでくる隣家の男、鵞鳥を苦しめて殺すのが好きなサディストの御者兼下男。この御者はやがて幼女趣味でレイプ魔で殺人犯ということが分かり、セレスティーヌの彼への復讐がプロットの柱となっていく。
渋澤龍彦が「説明され解釈される作家ではなく、強迫観念のように私たちに呼びかけてくる作家」と評したブニュエル十八番のフェチ映像としては、やはり屋敷の大旦那様である老人がセレスティーヌに自分のコレクションであるところの靴を履いて歩かせ、それを見て興奮し、その後自分のベッドで靴を抱いたまま悶絶するシーンが筆頭だろう。それからもちろん、暗い森の中、陵辱された少女の太ももに這う数匹のかたつむり。これもすごい。花に止まった蝶を猟銃で撃つ、なんてシーンもある。嘲笑的でブラックな、人間の深層心理を暴き出すようなブニュエルの視線がこの映画全体を貫いている。どの場面をとっても、そこに登場する人間は得体の知れない、何を考えているか分からない不気味な存在に思える。もともと他人とはそういうものなのだろうが、ブニュエルの映画を観るとそれがあからさまに暴き立てられていく感じがある。
セレスティーヌは一応殺されたクレアの復讐を遂げるが、犯人である御者は結局釈放されてカフェ経営者となるので、因果応報の物語とは言えない。映画はこの幼女殺人者である御者=カフェ経営者を含む人々がファシズムに熱狂していく様子を描いて終わる。一方、ヒロインのセレスティーヌは好きでもない元軍人のじいさんと結婚して、金持ちのマダムにおさまる。非常にシニカルな終わり方だ。渋澤龍彦はこれをもって「一般にブニュエルの世界は、…(中略)…一つの総体的な挫折、永遠に達成されることのない性愛の挫折の表現そのものであろう」と書いている。
ブニュエルの映像は先に書いた通り彫刻的で美しく、おおむね冷静だが、時折急に画面が動いて観客をハッとさせる。まるで登場人物の深層心理の不可解なうねりが、私たちの視界をぐらつかせたかのようだ。美しい映像と、ダークな残酷寓話と、どこか調子の狂った人々。そして退廃的なエレガンスをまき散らすメイド姿のジャンヌ・モロー。本作は、ブニュエル独特のマジカルな呪縛力に満ち満ちている。
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